蘇我堅塩媛【蘇我氏本宗家と大王家(皇室・天皇家)を結んだ女性】

蘇我堅塩媛について

【名前】 蘇我堅塩媛
【読み】 そがのきたしひめ
【別表記】 岐多斯比売(『古事記』)
【別称】 大后・皇太夫人
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 飛鳥時代
【官職】 アメクニオシハラキヒロニワ大王妃(欽明天皇妃)
【父】 蘇我稲目
【母】 不明
【兄弟姉妹】 蘇我小姉君・蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我石寸名
【配偶者】 欽明天皇
【子】 橘豊日大兄皇子(用明天皇)・磐隈皇女・臘嘴鳥皇子・豊御食炊屋姫尊(推古天皇)・椀子皇子・大宅皇女・石上部皇子・山背皇子・大伴皇女・桜井皇子・肩野皇女・橘本稚皇子・舎人皇女
【家】 蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)
【氏】 蘇我氏
【姓】

蘇我堅塩媛の生涯

蘇我堅塩媛の生い立ち

蘇我堅塩媛は、蘇我稲目の娘として生まれる。

誕生した年や生母等については不明。

兄弟姉妹に、蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我石寸名がいるが、同母であるか否かは判らない。

また、後年、馬子が堅塩媛の改葬に立ち会っていることから見て、恐らく年齢的な序列で言うと、馬子よりも先に没した堅塩媛は馬子の姉に当たると思われる。

同母姉妹に、蘇我小姉君がいる。

同母姉妹の小姉君の名前には「小」の字がわざわざ入っていることから、堅塩媛が稲目の女子の中で「大姉」の地位、即ち、長女であったろうと考えられる。

堅塩媛は、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)のイエトジとして誕生したのである。

稲目の屋敷のひとつが、軽にあったことが明らかであり、後に軽の地で、堅塩媛の祭祀が行われていることから、堅塩媛の出生地、もしくは、堅塩媛が育ったのは軽の地ではなかったと思われる。

蘇我稲目の軽の曲殿
(蘇我稲目の軽の曲殿)

蘇我堅塩媛、大王(天皇)の妻となる

欽明天皇2(541)年、蘇我堅塩媛は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妃となる。

磯城島金刺宮
(アメクニオシハラキヒロニワ大王の磯城島金刺宮)

これは、蘇我稲目が、

『葛城集団の地位を継承して、その女二人を大王欽明のキサキ』

(『蘇我氏 古代豪族の興亡 中公新書2353』倉本一宏 中央公論新社)

としたものとされる。

ただし、婚姻時期と妃となったのは別であって、

『即位前から、娘の堅塩媛と小姉君とを欽明の妃とし』

(『蘇我氏の古代 岩波新書1576』吉村武彦 岩波書店)

ていたらしい。

堅塩媛は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)との間に13人もの王子(皇子)・王女(皇女)をもうけたことが印象的で、飛鳥時代の系譜において重要な存在となっている。

また、それは蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の権力の基盤となるものであり、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)が政治の実権を掌握するようになると、堅塩媛は、「大后」や「皇太夫人」と言う称号で呼ばれるようになる。

アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の大后(皇后)には、ヒノクマノタカタ大王(宣化天皇)の王女(皇女)であるイシヒメ王女(石姫皇女)が立てられていた。

しかし、稲目の政治力が増すに従い、実質的には、葛城氏本宗家の出身で大后(皇后)となった葛城磐之媛の先例に倣い、堅塩媛が大后(皇后)となったに等しいものとなっていたのである。

ただ、13人にも上る大勢の王子(皇子)・王女(皇女)を、堅塩媛が一人で本当に出産したのかどうか疑問も残る。

蘇我堅塩媛の改葬

蘇我堅塩媛が没した日時は未詳である。

しかし、推古天皇20(612)年になって、檜隈大陵に改葬される。

夫のアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)と合葬されたのである。

堅塩媛を改葬するに当たり、軽の衢で堅塩媛の誄が執行された。

その際、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)や大臣である蘇我馬子の言葉が代読される等、事実上の国家的祭祀として執り行われたことは注目される。

蘇我堅塩媛とは

蘇我堅塩媛は、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)のみならず、飛鳥時代を俯瞰した場合にも非常に重要な意味を持つ女性である。

だが、「堅塩媛」と言う名前は、実は『日本書紀』編纂時に付けられた穢名と考えられる。

「堅塩」とは「穢れた塩」のことを意味するからである。

大化5(649)年に、蘇我氏傍流(蘇我氏倉家)の蘇我倉山田石川麻呂が、冤罪によってナカノオオエ王子(中大兄皇子)に攻められた際に、倉山田石川麻呂の頚を刎ねた者の名が物部二田塩であった。

その惨劇を聞いた倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智媛(中大兄皇子の妃)は、

『鹽の名を聞くことを惡む』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

状態となり、「塩」の名を徹底的に忌み嫌った。

このために遠智媛に近侍する者たちも、

『鹽の名稱はむことを諱みて、改めて堅鹽と曰ふ』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

有様で、これ以降、「塩」は「堅塩(きたし)」と呼ばれ、徹底的に嫌われていたのである。

このように異常なまでに「塩」を忌み嫌った遠智媛の娘が、後にオオアマ大王(天武天皇)の大后(皇后)となるウノ王女(菟野皇女)なのである。

ウノ王女(菟野皇女)の存在は、『日本書紀』や『古事記』の編纂にも影響を与えていたと見られることから、蘇我稲目の娘に対して「堅塩」と言う穢名を付したのは、ウノ王女(菟野皇女)の強い意向と思われる。

では、堅塩媛は生前に何と呼ばれていたのか。

その傍証となりそうなのが、堅塩媛の同母妹と伝えられる小姉君の存在である。

即ち、堅塩媛は「大姉君」と呼ばれていたのではないだろうか。

もちろん実名では無いが、父の稲目を始めとする一族たちからそう呼ばれ、夫のアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)からもそう呼ばれた可能性が高いと思われる。

また、「姉」とは蘇我馬子の姉と言う意味であると考えられる。

堅塩媛所生の王子・王女(皇子・皇女)たちと、馬子の子供たちを比較すると、明らかに堅塩媛所生の王子・王女(皇子・皇女)たちの方が、一世代は早いことから見ても、堅塩媛が馬子よりも年上であったことは明らかである。

なお、『古事記』では、小姉君を、

『岐多志比賣の姨』

(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注)

として、小姉君は堅塩媛の「オバ」と伝えており、そうなると、堅塩媛は、馬子のたったひとりの「姉」であった可能性も示唆されている。

さて、『日本書紀』における堅塩媛に関する記録は系譜に関する記述を除けば、

『皇太夫人堅鹽媛を檜隈大陵に改め葬る』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う改葬の記録のみである。

そして、この記録にも大きな謎が秘められている。

堅塩媛は、改葬前、一体どこに埋葬されていたのか。そして、何故、改葬されることになったのか。

大きな謎が残るのみである。

堅塩媛を改葬した後、檜隈大陵は、推古天皇28(620)年に、砂礫を葺いた上で、周辺部で大掛かりな土木工事を行い山を造成する等して、本格的に整備が行われている。

真の檜隈大陵とも言われる五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)は、かなりの規模を誇る超巨大前方後円墳(奈良県最大の古墳)である。

檜隈大陵の整備には、トヨミケカシキヤヒメ大王(推古天皇)が持つ母である堅塩媛への思い、そして蘇我馬子が抱く「一族のイエトジたる堅塩媛」への思いが深く感じられる。

しかし、何故、堅塩媛を改葬しなければならなかったのかは全くの謎なのである。

このように謎の多い堅塩媛であるが、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)における堅塩媛の存在から見れば、大王家(皇室・天皇家)と蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)とを血縁によって強固に結び付ける存在であり、日本古代史における蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の繁栄を約束付けた存在であった。

それ故に、『大化改新(乙巳の変)』によって、蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)が政権から追い落とされたことを契機にして、その蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)の基盤を作った堅塩媛もまた日本史から抹殺される運命となったのである。

正史である『日本書紀』は、堅塩媛の没年を記さず、その動静について何も語らない。

だが、この後、堅塩媛の存在は、文武天皇夫人の藤原宮子の称号を巡り、長屋王と藤原四兄弟が激しく対立した際に、大きく注目されることとなる(『長屋王の変』)。

堅塩媛所生の王子・王女(皇子・皇女)たちが、古代日本の文明開化とも言うべき飛鳥文化の担い手となったことを考えると、堅塩媛の存在は、決して小さいものではなく、日本史上に極めて大きなものであったと言える。

蘇我堅塩媛の系図

《蘇我堅塩媛系図》

尾張目子媛
 │
 ┝━━━┳安閑天皇
 │   ┗宣化天皇
 │
継体天皇
 │
 │     ┌─────────────────┐
 │     │                 │
 │     ┝━━━┳茨城皇子         │
 │     │   ┣葛城皇子         │
 │     │   ┣穴穂部皇女        │
 │     │   ┣穴穂部皇子        │
 │     │   ┗泊瀬部皇子(崇峻天皇)  │
 │     │                 │
 ┝━━━━欽明天皇               │
 │     │                 │
 │     ┝━━━┳橘豊日大兄皇子(用明天皇)│
 │     │   ┣磐隈皇女         │
 │     │   ┣臘嘴鳥皇子        │
 │     │   ┣豊御食炊屋姫尊(推古天皇)│
 │     │   ┣椀子皇子         │
 │     │   ┣大宅皇女         │
 │     │   ┣石上部皇子        │
 │     │   ┣山背皇子         │
 │     │   ┣大伴皇女         │
 │     │   ┣桜井皇子         │
 │     │   ┣肩野皇女         │
 │     │   ┣橘本稚皇子        │
 │     │   ┗舎人皇女         │
 │     │                 │
 │     └────────────────┐│
 │                      ││
手白香皇女                   ││
                        ││
蘇我稲目━┳馬子━━━━蝦夷          ││
     ┣堅塩媛               ││
     ┃ │                ││
     ┃ └────────────────┘│
     ┃                   │
     ┗小姉君                │
       │                 │
       └─────────────────┘

蘇我堅塩媛の墓所

蘇我堅塩媛の墓所は、『日本書紀』に、

『皇太夫人堅鹽媛を檜隈大陵に改め葬る』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

と言う改葬の記録が残されていることからはっきりしている。

ただ、「檜隈大陵」の所在が問題である。

現在、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王墓(御陵)として、欽明天皇檜隈大陵に治定されているのは、平田梅山古墳である。

平田梅山古墳
(平田梅山古墳)

しかし、檜隈大陵の真陵としては、その規模や何よりも石室内に合葬の形跡が見られる五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)が有力視されている。

五条野丸山古墳
(五条野丸山古墳)

この五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)の横穴式石室は全長26.6メートルで日本の古墳で最長を誇る。

以上のことから、蘇我堅塩媛の墓所は、五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)であろう。

なお、檜隈大陵への改葬以前の堅塩媛の墓所は不明であって、

『堅塩媛が改葬前に葬られていた「檜隈陵」が現在の欽明天皇陵に治定されている平田梅山古墳(墳丘長一四◯m)であるという考えもある(増田一樹「見瀬丸山古墳の被葬者」)』

(『蘇我氏 古代豪族の興亡 中公新書2353』倉本一宏 中央公論新社)

と言うのは留意される。

蘇我堅塩媛の年表

年表
  • 欽明天皇2(541)年
    3月
    欽明天皇の妃となる。
  • 欽明天皇31(570)年
    3月1日
    蘇我稲目、死去。
  • 推古天皇20(612)年
    2月20日
    檜隈大陵に改葬される。