目次
葛城黒媛について
【名前】 | 葛城黒媛 |
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【読み】 | かずらきのくろひめ(かつらぎのくろひめ) |
【別表記】 | 黒比売命(『古事記』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 履中天皇5(404)年 |
【時代】 | 古墳時代 |
【官職】 | 王妃(皇妃) |
【父】 | 葛城葦田宿禰 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 葛城蟻 |
【配偶者】 | イザホワケ大王(履中天皇) |
【子】 | イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)・ミマ王子(御馬皇子)・アオミ王女(青海皇女) |
【家】 | 葛城氏本宗家 |
【氏】 | 葛城氏 |
【姓】 | 臣 |
葛城黒媛の生涯
葛城黒媛の生い立ち
葛城黒媛は、葛城葦田宿禰の娘として誕生する。
『葛城の曾都毘古の子、葦田宿禰の女、名は黑比賣命』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
兄弟に、葛城蟻がいる。
黒媛の祖父は豪族の雄たる葛城襲津彦であり、伯叔母はオオサザキ大王(仁徳天皇)の大后(皇后)たる葛城磐之媛と言う古代の倭(日本)におけるセレブ中のセレブと呼べる環境に生まれ育ったのが黒媛であった。
葦田宿禰は、大和国葛下郡の「葦田」を含む葛城地方北部を拠点にしていたと考えられている。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
このことから、黒媛も、この葛城地方北部、及び、周辺地域に地縁があったものと思われる。
黒媛と住吉仲皇子
仁徳天皇87(399)年、オオサザキ大王(仁徳天皇)が没する。
イザホワケ王子(去来穂別皇子)は、羽田八代宿禰の娘である黒媛を自分の妻にしようと考える。
そして、婚儀の準備を整え、イザホワケ王子(去来穂別皇子)が黒媛へ通う日付の段取りを付けるために羽田八代宿禰の下へ向かう使者として抜擢されたのがスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)であった。
ところが、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は、自らをイザホワケ王子(去来穂別皇子)と名乗り黒媛と性行為を行う。
『仲皇子、太子の名を冒へて、黑媛を姧しつ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
黒媛は、イザホワケ王子(去来穂別皇子)と面識が無かった。
当然、イザホワケ王子(去来穂別皇子)の顔を知らないので、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)がイザホワケ王子(去来穂別皇子)であると信じ、求められるままに性行為を行ったのである。
しかし、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は目的を達して安心し緊張感を失ったのか、黒媛が名器の持ち主で気持ち良過ぎて気が緩んだのか、手首に付けていた鈴を黒媛の寝所に置き忘れてしまう。
翌晩になって、イザホワケ王子(去来穂別皇子)が黒媛のもとを訪れ、性行為をしようとしたところ、その動きで寝床の上の置かれていた鈴が揺れて鳴る。
『何ぞの鈴ぞ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、イザホワケ王子(去来穂別皇子)が黒媛を問い質したことから全てが発覚する。
この時、イザホワケ王子(去来穂別皇子)から問いに答えた黒媛の
『昨夜、太子の齎ちたまへりし鈴に非ずや。何ぞ更に妾に問ひたまふ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う不思議そうに発した言葉が日本史に黒媛が唯一残した言葉である。
さて、イザホワケ王子(去来穂別皇子)とスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が共に性行為を望んだ黒媛については、既述のように『日本書紀』においては「羽田八代宿禰の娘」とされている。
ところが、同じ『日本書紀』の「履中天皇紀」中では、黒媛を「葛城葦田宿禰の娘」としているのである。
『日本書紀』を信じる限りにおいては、大王家(皇室・天皇家)に関わる黒媛が、しかも、王位(皇位)継承資格者が奪い合う黒媛が、同時期に二人いたことになってしまう。
二人の黒媛の謎を解くカギは、この「王位(皇位)継承資格者」が重要な点となる。
葛城襲津彦の孫娘、即ち、葛城氏本宗家のヒメを妻に迎えることが出来るか出来ないかは、王位(皇位)継承資格者にとっては死活問題となるからである。
『事件の表面では黒媛が問題の発端となっているが、底には皇位継承の争いがひそんでいるものとみてよい』
(『神々と天皇の間 大和朝廷成立の前夜』鳥越憲三郎 朝日新聞社)
以上のことから勘案して、イザホワケ王子(去来穂別皇子)とスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が奪い合った黒媛は、葛城黒媛であって、羽田黒媛では無いと言える。
羽田八代宿禰の娘を奪い合ったところで全く何の意味も無いからである。
葛城黒媛、王妃(皇妃)となる
イザホワケ王子(去来穂別皇子)は、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)を滅ぼした後、履中天皇元(400)年、王位(皇位)に即く。
イザホワケ大王(履中天皇)の誕生である。
そして、同年7月、葛城黒媛を王妃(皇妃)とした。
『秋七月の己酉の朔壬子に、葦田宿禰が女黒媛を立てて皇妃とす』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ただ、如何なる理由からか、伯叔母の葛城磐之媛に倣うこと無く、黒媛は大后(皇后)には立てられなかった。
イザホワケ大王(履中天皇)が王位(皇位)に即いた時に妻としていたのは、黒媛とクサカノハタヒ王女(草香幡梭皇女)の二人である。
クサカノハタヒ王女(草香幡梭皇女)は、イザホワケ大王(履中天皇)の祖父に当たるホムタ大王(応神天皇)の娘、即ち、イザホワケ大王(履中天皇)の叔母となる女性だった。
従って本来ならば、血筋から見て即位と同時にクサカノハタヒ王女(草香幡梭皇女)を大后(皇后)としてもおかしくは無い状況ではあった。
しかしながら、クサカノハタヒ王女(草香幡梭皇女)も黒媛と同格の「王妃(皇妃)」とされた。
これは換言すれば、同格の「大后(皇后)」とも言えなくもないが、葛城氏本宗家の女性を「大后(皇后)」とすることに対して拒否反応を示す勢力の存在も感じられる。
黒媛とイザホワケ大王(履中天皇)との間には、イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)・ミマ王子(御馬皇子)・アオミ王女(青海皇女)が誕生している。
ただ、イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)とミマ王子(御馬皇子)の没年は安康天皇3(456)年とされる。
そうなると、黒媛が亡くなった時期から逆算して、黒媛が王妃(皇妃)となる50年近く前には、黒媛とイザホワケ大王(履中天皇)の間に、子供たちが産まれていなければならないこととなる。
葛城黒媛の突然の死
履中天皇5(404)年9月18日、イザホワケ大王(履中天皇)は淡路島へ渡って狩りを行う。
(淡路島)
翌19日、突如として空中に声が響く。
『鳥往來ふ羽田の汝妹は、羽狹に葬り立往ちぬ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
また、別の声が空中に響いた。
『狹名來田蔣津之命、羽狹に葬り立往ちぬ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
そこへ、使者が急ぎやって来て、イザホワケ大王(履中天皇)に告げた。
『皇妃、薨りましぬ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
葛城黒媛は、イザホワケ大王(履中天皇)が留守にしている間に没したのである。
イザホワケ大王(履中天皇)は、急ぎ淡路島から戻り、22日になって黒媛の亡骸と対面する。
10月11日、黒媛は埋葬される。
黒媛の死因についてイザホワケ大王(履中天皇)は調べる。
その過程で、車持君が筑紫の車持部から充神民を強奪し私腹を肥やしていたことが明るみに出る。
黒媛の死は、この車持君の所業に神罰が下ったことが原因とされた。
しかしながら、何故、車持君が行った神への無道な所業に対する祟りが、車持君と何の関係も無い黒媛に降りかからねばならないのか?そこに大きな疑問が残る。
そして、黒媛が亡くなった翌履中天皇6(405)年に、クサカノハタヒ王女(草香幡梭皇女)が大后(皇后)に立つ。
葛城黒媛のまとめ
葛城黒媛は、葛城氏本宗家のヒメであった。
それ故に、自らの王位(皇位)のために何としても葛城氏本宗家と縁付きたいと願う二人の王位(皇位)継承資格者から性行為を求められた。
ただし、大王(天皇)の妻となっても大后(皇后)とはされず、王族(皇族)の女性と同格とされたのみであった。
そこには、葛城氏本宗家の伸張を望まない王親(皇親)勢力の存在が見え隠れする。
そして、黒媛の死に関しては、あまりにも突然であり、そこに、葛城氏本宗家を好ましく思わない王親(皇親)勢力の暗躍があったのではないかと勘繰りたくもなる。
黒媛を巡る謎としては「羽田八代宿禰の娘」とする出自を巡る謎がある。
この羽田氏(羽田臣・波多臣)と言うのは、葛城氏(葛城臣)と同じく武内宿禰を始祖とする皇別の豪族である。
そこからは、葛城襲津彦の子である葦田宿禰と八代宿禰の娘が婚姻した結果、産まれた子が黒媛だったのではないかと言う可能性も見えて来る。
《葛城黒媛と羽田氏の関係推論》 武内宿禰┳葛城襲津彦━━葦田宿禰 ┃ │ ┃ ┝━━━黒媛 ┃ │ ┗羽田八代宿禰━女子
つまり、『日本書紀』の記述は、黒媛が羽田氏の血を引いていることを示唆しているものではなかろうか。
実際、黒媛が亡くなった「羽狭」は、羽田氏の拠点のひとつとされる。
別の考えとしては、7世紀後半に勃発した王位(皇位)簒奪の武力クーデター『壬申の乱』においては、武力クーデターに勝利した賊軍の大海人王子(大海人皇子)陣営で羽田矢国が活躍している。
その大海人王子(大海人皇子)の皇統下で編纂された『日本書紀』は、当然、大海人王子(大海人皇子)を正当化し顕彰する目的も帯びている。
『日本書紀』中における「羽田八代宿禰の娘」と言う記述には、大海人王子(大海人皇子)に貢献した羽田氏の系譜を雄族たる葛城氏本宗家と同等に見せたい羽田氏の野心が込められている可能性もある。
いずれにしても、黒媛は、葛城氏本宗家出身の女性であることは間違いないと思われる。
さて、黒媛の没後、大王家(皇室・天皇家)は、オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に拠って、葛城氏本宗家の排斥が進められた。
黒媛が産んだ正統な王位(皇位)継承者であるイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)やミマ王子(御馬皇子)も即位前のオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に殺戮されている。
そして、注目されるのは、黒媛の死の原因とされた車持君であるが、黒媛が没した時点では、「車持君」と言う姓を名乗ってはいなかった。
この王親(皇親)一族に「車持君」と言う姓を与えたのは、実は、即位後のオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)なのである。
このことから、『日本書紀』の記述は、黒媛の死にもオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が関わっていることを示唆するものと受け取れる。
こうして、殺戮に次ぐ殺戮を重ねたオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)であったが、皮肉なことにオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の直系男子の血統は断絶する。
このため、イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)の遺児たち、即ち、黒媛の孫たちが王位(皇位)に即くことで大王家(皇室・天皇家)は、その命脈を保ったのである。
黒媛の生きた時代は、所謂「倭の五王」の時代と呼ばれる。
だが、この「倭の五王」の時代を支え、次なる時代へと繋いだのは、葛城黒媛を始めとする葛城氏本宗家の女性たちであったことを忘れてはいけない。
葛城黒媛の系図
《葛城黒媛系図》 葛城襲津彦┳葦田宿禰━┳蟻━━━━荑媛 ┃ ┃ │ ┃ ┃ ┝━━━━┳飯豊青皇女 ┃ ┃ │ ┣仁賢天皇 ┃ ┃ │ ┗顕宗天皇 ┃ ┃ │ ┃ ┗黒媛 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━┳市辺押磐皇子 ┃ │ ┣御馬皇子 ┃ │ ┗青海皇女 ┃ │ ┗磐之媛 │ │ │ ┝━━━┳履中天皇 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇━雄略天皇 │ │ │ ┝━━━━━清寧天皇 │ │ │ 葛城韓媛 │ 仁徳天皇
葛城黒媛の墓所
葛城黒媛の墳墓は不明である。
ただ、黒媛の亡くなった地について、
『羽狹に葬り立往ちぬ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と示唆されている。
このことから、大和国高市郡羽狭が黒媛の終焉の地であったろうことが判る。
(大和国高市郡羽狭)
黒媛の墳墓は、この羽狭に造営されたか、あるいは、葛城葦田宿禰所縁の大和国葛下郡に造営されたのではないかと思われる。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
葛城黒媛の年表
- 履中天皇元(400)年7月4日皇妃とされる。
- 履中天皇5(404)年9月19日薨去。
- 10月11日送葬。