葛城荑媛について
【名前】 | 葛城荑媛 |
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【読み】 | かずらきのはえひめ(かつらぎのはえひめ) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【官職】 | 王子妃(皇子妃) |
【父】 | 葛城蟻 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子) |
【子】 | イイトヨアオ王女(飯豊青皇女)・オケ王子(仁賢天皇)・ヲケ王子(顕宗天皇)・イナツ姫(居夏姫)・タチバナ王(橘王) |
【家】 | 葛城氏本宗家 |
【氏】 | 葛城氏 |
葛城荑媛の生涯
葛城荑媛の生い立ち
葛城荑媛は、葛城蟻の娘として誕生する。
『蟻臣の女荑媛』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
誕生年や生母は不明。
また、兄弟姉妹に関しても不明である。
祖父は葛城葦田宿禰で、曾祖父は葛城襲津彦である。
荑媛は、葛城氏本宗家の女性として育てられたものと考えられる。
葦田宿禰は、大和国葛下郡の「葦田」を含む葛城地方北部を拠点にしていたとされる。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
このことから、葦田宿禰の孫に当たる荑媛も、この葛城地方北部、及び、周辺地域に地縁があったものと思われる。
なお、荑媛の「荑(はえ)」とは昆虫のハエのことでは無く、草冠から判るように植物に因む名前であって、「茅(ちがや)」のことである。
(「茅の穂」 Wikimedia Commons)
茅は『万葉集』中の歌にも詠まれており、古代から倭人(日本人)にとって馴染みのある植物であった。
『淺茅原茅生に足踏み心ぐみわが思ふ子らが家のあたり見つ 一に云はく、妹が家のあたり見つ』
(『萬葉集 三 日本古典文學大系6』高木市之助 五味智英 大野晋 校注 岩波書店)
また、「茅」を「チ」と読むのは、古代朝鮮語の発音から来ているとする説もあり、伽耶諸国を始めとする朝鮮半島南部との交易を通して鉄に関する権益を掌握していた葛城氏本宗家の女性に相応しい名前と言えるのかも知れない。
(倭と朝鮮半島)
葛城荑媛と市辺押磐皇子
葛城荑媛は、伯叔母・葛城黒媛とイザホワケ大王(履中天皇)との間に生まれたイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)の妃となる。
『市邊押磐皇子、蟻臣の女荑媛を娶す』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
荑媛が妃となった時期は不明である。
夫となったイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)と荑媛は、従兄弟同士の間柄であった。
イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)との間には、イイトヨアオ王女(飯豊青皇女)・オケ王子(仁賢天皇)・ヲケ王子(顕宗天皇)・イナツ姫(居夏姫)・タチバナ王(橘王)が生まれており、荑媛の結婚生活は幸せなものだったのではないかと思われる。
『三の男・二の女を生めり。其の一を居夏姫と曰す。其の二を億計王と曰す。更の名は、嶋稚子。更の名は、大石尊。其の三は、弘計王と曰す。更の名は、來目稚子。其の四を飯豊女王。亦の名は、忍海部女王。其の五を、橘王と曰すといふ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
だが、その生活も長くは続かなかった。
イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)は、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)の謀略に拠って殺害されてしまったのである。
残された子供たちは、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子)に魔の手から逃れて苦難の道を歩む。
この混乱の中、荑媛の消息も不明となる。
葛城荑媛の子供たち
葛城荑媛が出産した王子(皇子)・王女(皇女)は数奇な運命を辿ることになる。
イイトヨアオ王女(飯豊青皇女)は、意に沿わない婚姻をした後で、葛城氏本宗家出身の女性としては初めて、大王家(皇室・天皇家)の「長」として政治を執ることになる。
このイイトヨアオ王女(飯豊青皇女)の執政こそ日本史上最初の女帝(女性天皇)「飯豊天皇」である。
オケ王子(仁賢天皇)とヲケ王子(顕宗天皇)の兄弟は辛酸をなめることとなる。
そして、その艱難辛苦の果てに、父のイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)の仇であるオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の男系王統(皇統)が断絶したことで、兄弟揃って王位(皇位)に即いた。
荑媛が出産した子供の内、3人が大王(天皇)となっている。
これは葛城氏本宗家の女性としては、オオサザキ大王(仁徳天皇)の大后(皇后)だった葛城磐之媛以来のことであった。
なお、イナツ姫(居夏姫)とタチバナ王(橘王)は、『日本書紀』編纂時に誤って系譜に入れられたのではないかともされる。
葛城荑媛のまとめ
葛城荑媛は、三人の大王(天皇)の母である。
平安時代以降の言い方で言えば「国母」であった。
それにも関わらず正史『日本書紀』は、荑媛に関する事績は伝えていない。
従って、イチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)がオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)に謀殺された後の荑媛の動静は不明である。
ここにひとつの大きな謎が秘められている。
それは、荑媛の父である葛城蟻が早くに亡くなっている可能性があり、蟻の姉妹で、荑媛の伯叔母となる葛城黒媛も履中天皇5(404)年に亡くなっていることである。
そうして見ると、限られた記録に拠るものの葛城葦田宿禰系統の財産を承継するのは荑媛だけと言う状態だったことが判る。
このことから勘案すると、葦田宿禰領は、荑媛からイイトヨアオ王女(飯豊青皇女)へと伝領された可能性が高い。
そして、この葦田宿禰領こそが、イイトヨアオ王女(飯豊青皇女)が政治を執った事実、即ち、倭(日本)最初の「女帝」に成り得た経済的な基盤だったのではあるまいか。
荑媛は、葛城氏本宗家の内で葦田宿禰領を大王家(皇室・天皇家)から守った女性だったと言える。
また、何よりも注目されるのは、荑媛と言う名前である。
既述の通り荑媛の「荑(はえ)」とは「茅(ちがや)」のことを指す。
実は、茅と言う植物は、その葉先が剣のように尖っていることから魔除けとして用いられる等、呪術的な意味合いを持ち合わせていた植物であった。
このことから、荑媛は、実のところ葛城氏本宗家においては、葛城氏本宗家の女性として「社稷(イエ)」を守護するシャーマン(巫女)のような存在だった可能性も考えられる。
そう考えると、荑媛は、大王家(皇室・天皇家)における「斎宮」のような存在だったのであろう。
そのような荑媛であるからこそ、王位(皇位)継承者として最有力のイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)の妻として白羽の矢が立てられたものと思われる。
一方で、有力な荑媛を妻としたイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)は、オオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子・雄略天皇)にとって、どうしても排斥しなければならないものであった。
何故なら葛城氏本宗家を完全なる後ろ盾とするイチノベノオシハ王子(市辺押磐皇子)の存在は、葛城氏本宗家との血縁が薄いオオハツセノワカタケ王子(大泊瀬幼武皇子・雄略天皇)の未来を塞ぐものであって受容するわけにはいかなかったからである。
さて、茅の呪術的な意味合いは現代にも伝わっており、蘇民将来の故事に関わる「茅の輪くぐり」の風習の中に「荑(はえ)=茅(ちがや)」を魔除けとして使用している。
(「茅の輪」上御霊神社)
因みに、この蘇民将来の故事は、葛城氏本宗家と同盟関係にあったとされる吉備国に伝わる話である(『風土記』)。
(吉備国)
想像を逞しくすると、もしかしたら荑媛の生母は、吉備国出身の女性であったのかも知れない。
翻って、恐らく「夏越の祓」の行事として「茅の輪くぐり」を経験した人も多いのではあるまいか。
そして、これからも「茅の輪くぐり」を行う人がいるであろう。
その時、葛城氏本宗家を背負って立ち、大王家(皇室・天皇家)との架け橋になろうとした葛城荑媛(かずらきのはえひめ)と言う女性が、この日本の古代と言う遠い遠い昔の時代に生きていたことに少しでも思いを馳せて欲しい。
葛城荑媛の系図
《葛城荑媛系図》 葛城襲津彦┳不明━━━━玉田宿禰━円 ┣葦田宿禰━┳蟻━━━━荑媛 ┃ ┃ │ ┃ ┃ ┝━━━━┳飯豊青皇女 ┃ ┃ │ ┣仁賢天皇 ┃ ┃ │ ┣顕宗天皇 ┃ ┃ │ ┣居夏姫 ┃ ┃ │ ┗橘王 ┃ ┃ │ ┃ ┗黒媛 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━┳市辺押磐皇子 ┃ │ ┣御馬皇子 ┃ │ ┗青海皇女 ┃ │ ┗磐之媛 │ │ │ ┝━━━┳履中天皇 │ ┣反正天皇 │ ┗允恭天皇━雄略天皇 │ │ │ ┝━━━━━清寧天皇 │ │ │ 葛城韓媛 │ 仁徳天皇
葛城荑媛の墓所
葛城荑媛の墳墓は不明である。
葛城葦田宿禰所縁の大和国葛下郡に造営されたのではないかと思われる。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
葛城荑媛の年表
- 安康天皇3(456)年10月1日市辺押磐皇子、謀殺される。
- 清寧天皇5(484)年正月飯豊青皇女、執政。
- 顕宗天皇元(485)年正月1日弘計皇子、即位。
- 仁賢天皇元(488)年正月5日億計皇子、即位。