目次
伊賀ノ方について
【名前】 | 伊賀ノ方 |
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【読み】 | いがのかた |
【通称】 | 伊賀ノ方・伊賀の方 |
【別称】 | 奥州後室・後室禅尼 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 鎌倉時代 |
【職能】 | 鎌倉幕府2代執権正室 |
【父】 | 伊賀朝光(藤原朝光) |
【母】 | 二階堂氏(二階堂行政の娘) |
【兄弟姉妹】 | 伊賀光季・伊賀光宗・伊賀光資・伊賀朝行・伊賀光重 |
【配偶者】 | 北条義時 |
【子】 | 北条政村・北条実泰・北条時尚・女子(一条実雅室) |
【家】 | 伊賀家(藤原北家) |
【氏】 | 藤原氏 |
【姓】 | 朝臣 |
伊賀ノ方の生涯
伊賀ノ方の生い立ち
伊賀ノ方の実名は伝わっていない。
伊賀ノ方は、藤原北家出身である伊賀朝光の娘として誕生する。
誕生年は不明。
母は、藤原南家出身である二階堂行政の娘(実名は不明)である。
《伊賀ノ方の母方系図》 伊賀朝光 │ ┝━━━伊賀ノ方 │ 工藤維行━行遠 │ │ │ ┝━二階堂行政━女子 │ 藤原季兼┳女子 ┗季範┳範忠 ┗由良御前 │ ┝━━━━頼朝 │ │ 源義朝 │ │ ┝━━━┳頼家 │ ┗実朝 │ 北条時政━┳政子 ┗義時
伊賀ノ方は、母方の血筋を辿ると幕府将軍家と繋がる。
兄弟には、伊賀光季・伊賀光宗・伊賀光資・伊賀朝行・伊賀光重等がいるが、これらの兄弟全てが同母であるか否かは不明。
伊賀ノ方に姉妹が存在していたのかどうかも不明。
また、伊賀ノ方が、どこで生まれ、どこで幼少期を過ごしたのかも不明である。
母方の二階堂家に関係する東海地方で幼少期を過ごした可能性も考えられるが確かなことは何も判らない。
伊賀ノ方と北条義時
建仁3(1203)年9月に勃発した政変劇『比企氏の変(比企能員の変)』が、伊賀ノ方の運命を変える。
この『比企氏の変(比企能員の変)』の結果、北条義時は正室として比企氏から迎えていた比企朝宗の娘を離縁せざるを得ない状態となった。
正室である朝宗の娘を離縁した義時の後室、即ち、新たな「正室(嫡妻)」として迎えられたのが、伊賀ノ方である。
伊賀ノ方からすれば、義時は母方の祖父の従兄弟姉妹の子の妻の弟となる。
伊賀ノ方と義時の婚姻時期は不明であるが、元久2(1205)年6月に長男(後の北条政村)を出産しており、元久元(1204)年中までには夫婦関係となっていたものと見られる。
伊賀ノ方と義時が婚姻したと見られる元久元年の11月には、北条時政とその後室(嫡妻)牧ノ方との間に生まれた「北条家総領」たる北条政範が京で不審な死を遂げた。
そして、翌元久2年には、所謂『牧氏の変』が勃発し、時政と牧ノ方は伊豆国北条へ追放処分を受ける。時政の後を継承し、執権となったのが義時だった。
夫の義時が執権となったその年に、長男(政村)を出産したのである。
俄然、伊賀ノ方の目の前が開けて来た。
建保元(1213)年に元服した政村の烏帽子親には、御家人の最有力者たる三浦義村がなっている。
この時、伊賀ノ方は、我が子の政村が将来「執権」となることを強く信じ、我が子政村のために生きることを決意したのではあるまいか。
伊賀ノ方は、承元2(1208)年に、次男の北条実義(後の実泰)を出産し、三男の北条時尚や娘も出産している。
伊賀ノ方には、子宝に恵まれると同時に、その子供たちの未来に思いを馳せる幸せな時期であったかも知れない。
伊賀ノ方と『承久の乱』
承久元(1219)年正月、鎌倉幕府3代将軍である源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が勃発。
(源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮)
後鳥羽上皇を中心とする京との協調路線を取って来た実朝が殺害されたことで、鎌倉と京との間は極度の緊張関係に入る。
この時期に、京都守護として朝廷の監視を行っていたのが、伊賀ノ方の同母兄である伊賀光季だった。
また、この年、伊賀ノ方の娘が、一条能保の三男で西園寺公経の養猶子となっていた一条実雅と婚姻している。この婚姻を機に、実雅は、鎌倉に常在した。
同年、後鳥羽上皇から突き付けられた摂津国長江荘・倉橋荘の地頭の罷免要求を、北条義時が拒否したことを契機に、遂に、承久3(1221)年5月、朝廷から『北条義時追討の宣旨』が出される。
そして、真っ先に京都守護であった光季が、朝廷軍に殺害された。『承久の乱』は、光季を血祭りに上げて開戦したのである。
この時の伊賀ノ方の様子を伝える記録は残されていない。
『承久の乱』は、北条政子が「尼将軍」として関東御家人を鼓舞した結果、鎌倉方の圧倒的な完全勝利に終わった。
この『承久の乱』後、伊賀ノ方の兄弟(兄に当たるのか弟に当たるのかは不明)である伊賀光宗が政所執事に就任している。
伊賀ノ方と北条義時の死
元仁元(1224)年6月、義時が発病し間も無く死去する。
『前奥州病痾已及獲麟之間、以駿河守爲使、被申此由於若君御方、就恩許、今日寅刻令落餝給、巳刻若辰分歟遂以御卒去、御年六十二、日者脚氣之上、霍亂計會云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
18日には、葬儀が行われる。
『前奥州禪門葬送、以故右大将家法花堂東山上爲墳墓、葬禮事』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
この葬儀には、北条朝時・北条重時・北条有時に加え、当然、伊賀ノ方所生の北条政村・北条実泰も列席した。北条泰時は、京の六波羅探題北方に勤めていたため、鎌倉へ戻ったのは、初七日も済んだ26日のことであった。
義時の死因については、はっきりしない。
ただ、
『日者脚氣之上、霍亂計會云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
日頃から脚気に苦しんでいた上に、この時は、激しい嘔吐と止まらない下痢の末に息途絶えると言う尋常で無い最期であった。
また、
『近習ニ召仕クル小侍ニツキ害サレケリ』
(『保暦間記』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、義時の近くに侍る者に殺害されたとの噂まで飛び交った。
そして、『明月記』には、間接的な証言から伊賀ノ方が義時に毒を盛ったとする記述もある。
後世、『吾妻鏡』に記された義時の壮絶な苦しみ様の最期と、『明月記』の記述から推測して、伊賀ノ方が義時に毒を盛ったとされるようになって行く。
しかし、果たして、伊賀ノ方が本当に毒を盛ったのかどうか、その真相は判らない。
ただ、常識的に考えれば、
『恐らくは脚氣衝心の爲めに、其死去を早めた』
(『鎌倉時代史』三浦周行 国立国会図書館デジタルコレクション)
と見るのが普通で、やはり病死であって、伊賀ノ方を殺人犯のように扱うのは無理がある。
そもそも伊賀ノ方の子である北条政村は、まだ若く、義時の存在が必要な時期であった。その義時を、伊賀ノ方が排斥する理由が見当たらない。
伊賀ノ方と『伊賀氏の変』
鎌倉幕府内で最大の実力者だった北条義時の死は、ある者には絶好の好機であり、ある者には絶対の危機となる。
この時の伊賀ノ方にとっては、「絶対の危機」であり「絶好の好機」でもあった。
元仁元(1224)年6月28日、北条政子は、義時の子で甥に当たる北条泰時を執権に据え、北条時房を連署とする。
このように、義時の後継者は、泰時であることは疑いようが無い事実であった。
ただ、これより先、泰時と時房は示し合わせて、
『陰謀ノ簇尋沙汰シ』
(『保暦間記』国立国会図書館デジタルコレクション)
た後に鎌倉へ入り、それぞれ執権と連署になったとされる。
泰時が執権となった以上、北条氏の本流は泰時の血統となる可能性が高くなったわけで、伊賀ノ方を母とする北条政村は傍流となるしか無い。それは、この先ずっと伊賀氏一族が北条氏一族の後塵を拝すことを意味した。
それに危機感を抱いたのか伊賀ノ方の兄弟の伊賀光宗が、三浦義村の屋敷に出入りするようになる。
この時、伊賀氏一族は、北条政村を執権とし、伊賀ノ方の娘婿である一条実雅を将軍とする政変計画を練っていたとされる。
『風聞、四郎政村之邊物忩、伊賀式部丞光宗兄弟、以謂政村主外家、内々憤執權事、奥州後室伊賀守朝光女、亦擧聟宰相中將實雅卿關東將軍、以子息政村用御後見、可任武家成敗於光宗以下兄弟之由潜思企、已成和談、有一同之輩等、于時人々所志相分云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
政変計画の重要なキーパーソンとして、伊賀氏一族が選んだのは義村だった。
義村は、既述の通り、政村の烏帽子親であり、形式的には、政村と父子関係に擬せられる間柄である。
『政村與義村如親子』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
しかも、泰時の妻となっていた自分の娘は離縁の憂き目に遭わされている。反北条氏に舵を切ってもおかしくは無い人物であった。
《三浦義村と北条泰時関係図》 ┌─┐ │ │ 北条義時━泰時━女子 │ │ │ ┝━時氏 │ │ │ 三浦義村┳女子 │ ┗泰村 │ │ │ └────┘
この伊賀氏一族と義村の不穏な動きを察知し反応したのが、北条政子である。
政子は義村の屋敷に乗り込み、義村を糾問する。
これに、義村は、
『陸奥四郎全無逆心歟』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
自らが烏帽子親となった政村は、謀反の考えを一切持っていないことを答えている。
その上で、
『光宗等者有用意事云々、尤可加制禁之由及誓言之間』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
光宗たちは何か企んでいるので、自分が連中を止めることを誓うと述べている。その上で、義村は、翌日には、泰時の屋敷に出向いて忠誠を誓っている。
さて、義村から言質を得た政子は、三寅の身柄を確保し、泰時の屋敷へと入る。
だが、それでも義時の四十九日が行われた30日の夜、鎌倉は物々しい状態となった。
『有騒動、御家人等皆上旗着甲冑競争』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
閏7月3日になって、幕府は、伊賀ノ方と伊賀兄弟が謀反計画を有しているとして流罪に処すことを決定する。
『奥州後室并光宗等可爲流刑』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
かくして、伊賀氏一族の政変計画は、未然に防がれる。
その結果、伊賀光宗は信濃国に、そして、伊賀ノ方は伊豆国北条へと、それぞれ流罪となった(後に、一条実雅は越前国、伊賀朝行・伊賀光重は九州へ流罪)。
『前奥州後室禪尼、依二位家仰、下向伊豆國北條郡、可籠居彼所云々、有其科故也』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
8月29日、伊賀ノ方は、愛する我が子の政村と引き離され、たった一人で伊豆国北条へと送られる。
(伊豆国北条)
この伊賀ノ方が流罪となる直前の8月8日には義時の墓で供養が、22日には百箇日法要が行われているが、それに、伊賀ノ方が列席を許されたのかどうかは判らない。
こうして、伊豆へ流罪となった伊賀ノ方は、その年の暮れに、突如として危篤となる。
『伊豆國、北條飛脚到來、右京兆後室禪尼、去十二日以後病惱、自昨日巳刻及危急之由申之』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
これ以降、伊賀ノ方がどうなったのか…記録類には一切、伊賀ノ方の名は出て来ない。
伊賀ノ方のまとめ
伊賀ノ方は、夫の北条義時を毒殺し、政変未遂事件『伊賀氏の変』の首謀者となった「悪女」として、その名を知られる女性である。
『伊賀氏の変』は、元久2(1205)年に発生した『牧氏の変』と構図が全く同じで、どちらも「執権の後室」が娘婿を新将軍に擁立しようとしたものである。
『伊賀氏の変』に先立つ『牧氏の変』において、牧ノ方が政変を主導したと言う具体的、かつ明確な証拠は無い。
因みに、この『牧氏の変』が発生した年に、伊賀ノ方は長男の北条政村を出産している。
言えることは、伊賀ノ方も牧ノ方も共に利害関係の生じる相手が北条政子であった。
言い換えれば、伊賀ノ方と牧ノ方の2人は、執権を独占したい北条氏(北条家)にとっては、「執権の後室」と言う非常にやっかいな存在だった。
とりわけ伊賀ノ方は、執権だった夫の義時の正室である以上、伊賀ノ方の子の政村が事実上の嫡子であって、正当な執権職相続者としての政村の強力な後ろ盾となるのが必然である(牧ノ方の場合、嫡男の北条政範は既に亡くなっていた)。
伊賀ノ方は、我が子の政村が、北条泰時の次に執権に就くことを夢見ていたであろうし、信じていたと思われる。
ただ、その伊賀ノ方の思いは、義時亡き後の幕府の新体制である「政子=泰時」路線が、政子が泰時を執権に任命したことで成り立ったものである以上、近い将来に政子が不在となった時、その安定性を喪失する可能性を含むものであった。
それは、政子には許せないことであった。
政子は、これまでに、父を、子を、そして、多くの者たちを犠牲にして、幕府を守り抜いて来た自負があり、その幕府を揺るがすことは看過出来なかった。
思い出せば判るが『伊賀氏の変』で、伊賀光宗の動きに過敏なまでに反応して真っ先に行動を取ったのが誰だったか?
それは、北条政子である。
御家人たちの記憶に残る『牧氏の変』を思い出させるような政変未遂事件を再現することは、伊賀氏一族の排斥について御家人たちからの同意を得やすかったと思われる。
『牧氏の変』では耄碌しかけた北条時政をそそのかす「悪女」としての牧ノ方が政変の象徴となった。
その点で、ここでも『牧氏の変』を再現するのであれば、『牧氏の変』と全く同じように、政変の黒幕たる「悪女」としての伊賀ノ方が必要だったのでは無いか。
ただ、『伊賀氏の変』そのものは、本当に伊賀氏一族が主導したものであるのかどうかの点で疑問も残る。
伊賀ノ方が執権の後室で、その伊賀ノ方の兄弟の伊賀光宗が政所執事だとしても、これだけで伊賀氏一族が幕府の体制を打倒するには、あまりにも権力基盤が弱い。
それが故に『吾妻鏡』は、三浦義村を伊賀氏一族が誘ったとしているが、むしろ実態は、義村が主であって、伊賀氏一族は従だったのではなかろうか。
北条氏一族に対して含むところがあるのは義村の方である。
だからこそ政子が義村の屋敷に乗り込んだのではなかろうか。
もっと勘ぐれば、政子が義村と組み、幕府の不安定要因となりかねない伊賀氏一族の排斥に動いたとも取れる。そうなると、伊賀氏一族は、義村に踊らされただけとも言える。
その辺りの真相は判らない。
実は、宝治元(1247)年に勃発した『宝治合戦』で三浦氏本宗家が滅亡した後、三浦氏本宗家が預所職を務めていた陸奥国磐城郡好島西荘(地頭は岩城氏)は、三浦氏本宗家に代わり、伊賀光宗が預所職を務めるようになっている。三浦氏本宗家と光宗との間に何かしらの深い因縁を感じさせる人事である。
いずれにしても、『伊賀氏の変』は、泰時を中心とする幕府への謀反人が伊賀ノ方であるかのような形で終結する。
かくして、伊賀氏一族は粛清され、伊賀ノ方は、愛する我が子の政村と引き離され、たったひとり伊豆国北条の地へ流罪となった。
孤独の淵に置かれた伊賀ノ方は、その年の内に重篤な状態となる。それ以降の伊賀ノ方については、一切の記録が残されていない。
末期に、政村と一目でも会うことが叶ったのかどうかも判らない。
ただ、伊賀ノ方が、いきなり重篤な状態となったのは、あまりにも不自然である。
そこから考えられるのは、政変未遂事件の首謀者とされた伊賀ノ方は、自分が生きていることで、愛する我が子の政村の将来に影響が出ることを恐れたのではあるまいか。
伊賀ノ方が生き延びれば生き延びるほど、政村には「伊賀ノ方の子」のレッテルが貼られ続ける。
だったら我が子の将来のために伊賀ノ方は自ら命を絶ったと言うのが真実では無かったか。
それが愛しい我が子の政村に伊賀ノ方がしてやれる最期の「母の愛」だった。
つまり、伊賀ノ方は自ら毒を飲み重篤な容態となったことが想像される。それが、様々に伝聞し時を経て拡大して行く過程で、いつしか「伊賀ノ方が義時に毒を飲ませた」と変容したのではなかろうか。
『吾妻鏡』が伊賀ノ方の死について、敢えて記さないのは、政子と泰時から伊賀ノ方への贖罪だったように思える。
なお、伊賀ノ方の兄である伊賀光宗が政所執事を罷免された後、同執事となったのは、伊賀ノ方の従兄弟姉妹に当たる二階堂行盛であった。
《伊賀ノ方と二階堂氏関係図》 二階堂行政┳行光━━━行盛 ┣行村━━━行義 ┗女子 │ ┝━━┳光季 │ ┗伊賀ノ方━北条政村 │ 伊賀朝光
また、『伊賀氏の変』で流罪となった光宗たちは、後に赦免されており、その子孫は、日本各地で現在に至るまで存在し続けている。
それも伊賀ノ方が自ら全ての責任を背負ったことで、一族の命脈が保たれたとも言えよう。
そして、伊賀ノ方が危篤となり消息不明となってから40年後の文永元(1264)年、伊賀ノ方が、この世で最も愛した我が子である北条政村は、北条氏本宗家(得宗)の北条時宗への繋ぎとは言え、執権職に就く。
時宗が執権に就いた後の政村は、執権経験者では異例の連署となって、幕府の運営に関わった。
政村には、母の伊賀ノ方が着せられた汚名を雪ぐ意味もあったと思われる。その政村は、文永10(1273)年に亡くなる。
それは、母・伊賀ノ方と子・北条政村の長い長い物語に、ようやく幕が下ろされた瞬間でもあった。
伊賀ノ方の系図
《伊賀ノ方系図》 伊賀朝光 │ ┝━━━┳光季 │ ┗伊賀ノ方 │ │ 二階堂氏 │ │ ┝━━┳政村 │ ┣実泰 │ ┗女子 │ │ │ └──────────┐ │ │ 北条時政━┳義時━━━泰時 │ ┗政子 │ │ │ 源義朝━━┳頼朝 │ ┗女子 │ │ │ │ ┌─────────┐│ │ │ ││ │ ┝━━━通家 ││ │ │ │ ││ ┝━━┳女子 │ ││ │ ┗全子 │ ││ │ │ │ ││ │ └───┐│ ││ │ ││ ││ 一条通重━━能保━━━実雅 ││ ││ │ ││ ││ └───┼┼────┼┘ ││ │ ┌───┘│ │ │ │ │ │ ┝━三寅 │ │ │ │ ┝━━━倫子 │ │ │ 西園寺公通━実宗━━━公経 │ │ 藤原忠通━━九条兼実━良経 │ │ │ └─────────┘
伊賀ノ方の墓所
不明。
伊賀ノ方の最愛の子である北条政村も、執権・連署を務めた重要人物であるにも関わらず、その墓所が不明となっている。
伊賀ノ方と政村を偲ぶには、やはり鎌倉の地、そのものが最適であるのかも知れない。
(鎌倉)
伊賀ノ方の年表
- 元久2(1205)年6月22日男児を出産(北条政村)。
- 閏7月19日『牧氏の変』。
- 承元2(1208)年男児を出産(北条実泰)。
- 建保元(1213)年12月28日政村、元服。
- 建保2(1214)年10月3日実泰、元服。
- 承久元(1219)年正月27日源実朝、暗殺される。
- 2月14日伊賀光季、京都守護就任。
- 9月6日伊賀光宗、政所執事就任。
- 12月17日北条政子、病状悪化。
- 承久3(1221)年5月14日北条義時追討の宣旨。光季、殺害される。
- 6月15日鎌倉軍、京を制圧。
- 元仁元(1224)年6月12日義時、発病。
- 6月13日義時、死去。
- 6月18日義時、葬儀。
- 6月28日北条泰時、執権就任。
- 7月17日政子、三浦義時を糾問。
- 閏7月1日政子、三寅を確保し泰時の屋敷に入る。
- 閏7月3日『伊賀氏の変』発覚。
- 8月8日義時墓、供養。
- 8月22日義時、百箇日法要。
- 8月29日伊豆に流罪となる。
- 12月12日危篤となる。
- 文永元(1264)年8月11日政村、執権就任。
- 文永5(1268)年3月5日政村、執権辞任。
- 文永10(1273)年5月27日政村、死去。