承久3(1221)年【『承久の乱』公武全面戦争勃発!!】

時代

鎌倉時代

天皇

【代数】 第85代
【天皇名】 仲恭天皇
【代数】 第86代
【天皇名】 後堀河天皇

後堀河天皇
(「後堀河天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

太上天皇

【太上天皇名】 後鳥羽太上天皇
土御門太上天皇
順徳太上天皇
仲恭太上天皇

後鳥羽天皇
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)

土御門天皇
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

順徳天皇
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

政体

幕府

【征夷大将軍】 北条政子聴政
【執権】 北条義時
【政所執事】 大江広元
【侍所別当】 北条義時
【問注所執事】 三善康信
(8月6日辞任)
三善康俊
(8月6日から)
【京都守護】 伊賀光季
(5月15日戦死)
大江親広
(5月15日離脱)
【六波羅探題北方】 北条泰時
(6月16日から)
【六波羅探題南方】 北条時房
(6月16日から)

朝廷

【関白】 近衛家実
(4月20日停止)
【摂政】 九条道家
(4月20日から
7月8日停止)
近衛家実
(7月9日から)
【太政大臣】 三条公房
(12月20日辞任)
近衛家実
(12月20日から)
【左大臣】 九条道家
(4月20日まで)
近衛家通
(閏10月10日から)
【右大臣】 近衛家通
(閏10月10日まで)
徳大寺公継
(閏10月10日復帰)
【内大臣】 久我通光
(7月3日辞任)
西園寺公経
(閏10月10日から)
【大納言】 西園寺公経
(閏10月10日まで)
大炊御門師経
九条良平
(閏10月10日から)
【権大納言】 九条良平
(閏10月10日まで)
源通具
藤原忠房
久我定通
(閏10月9日まで)
九条教家
坊門忠信
源雅親
九条基家
姉小路公宣
(閏10月10日から)
【中納言】 姉小路公宣
(閏10月10日まで)
滋野井実宣
近衛基嗣
(閏10月10日から)
藤原頼平
(閏10月10日から)
【権中納言】 近衛基嗣
(閏10月10日まで)
藤原頼平
(閏10月10日まで)
西園寺実氏
三条実親
大炊御門家嗣
正親町三条公氏
中院通方
二条定高
【参議】 藤原定家
藤原経通
藤原国通
水無瀬信成
一条信能
藤原範茂
藤原親定
飛鳥井雅経
源雅清
(4月16日から)
日野家宣
(8月29日から)
源具実
(8月29日から)
【関東申次】 西園寺公経

承久3(1221)年の出来事

出来事
  • 承久3(1221)年
    4月20日
    順徳天皇譲位。懐成皇太子践祚(仲恭天皇)。
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    5月14日
    「北条義時追討の宣旨」発布。
  •  
    5月19日
    北条政子、演説。
  •  
    5月21日
    北条泰時率いる先鋒部隊、出陣。
  •  
    5月22日
    幕府軍本隊、出陣。
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    6月5日
    幕府軍、朝廷軍を尾張川で撃破。
  •  
    6月14日
    幕府軍、朝廷軍を宇治川・瀬田唐橋で撃破。
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    6月15日
    幕府軍、京を軍事占領。
  •  
    7月6日
    幕府軍、後鳥羽上皇を鳥羽殿へ移す。
  •  
    7月8日
    後鳥羽上皇、出家。守貞親王(後高倉院)の院政開始。
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    7月9日
    仲恭天皇譲位。茂仁王践祚(後堀河天皇)。
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    7月13日
    後鳥羽上皇、隠岐へ流罪。
  •  
    7月21日
    順徳上皇、佐渡へ流罪。
  •  
    8月7日
    幕府、朝廷方荘園3000ヶ所を没収。
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    8月9日
    三善康信、死去。
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    閏10月10日
    土御門上皇、土佐へ流罪。

まとめ

後鳥羽上皇は、承久元(1219)年に幕府に命じた摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の罷免が拒絶されたことに対して非常に憤り、積年の鎌倉幕府に対する怒りが頂点に達しようとしていた。

順徳天皇が懐成皇太子へ譲位(仲恭天皇)して上皇となり、後鳥羽上皇と共に対幕府工作に専念することとなった。

後鳥羽上皇は、4月、尊快法親王を天台座主としたことで、比叡山延暦寺の僧兵を朝廷軍の兵力に組み込むことを図る。

延暦寺
(延暦寺)

また、京に滞在していた三浦胤義(三浦義村の弟)を誘い込むことにも成功し、胤村から朝廷側に対して、兄の義村が朝廷軍へ参加する見込みの高いことを伝えられる。

なお、土御門上皇は、温和な性格であったことから幕府との激しい闘争には不向きであろうとして、幕府に対する謀議等からは、後鳥羽上皇の意向で外され一切参加していない。

5月14日、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮に流鏑馬の実施を口実として、西面の武士を主力とした1700の兵力を集める。

その上で、幕府と繋がりの深い関東申次の西園寺公経と、その子である西園寺実氏を幽閉する。だが、公経は先手を打ち鎌倉に一報を伝える。

まず、朝廷が標的としたのは、京都守護で、義時とは義兄弟となる伊賀光季であった(光季は、義時の後室伊賀ノ方の同母兄弟)。

《北条義時と伊賀光季》

伊賀朝光┳光季
    ┗伊賀ノ方
      │
北条時政┳義時
    ┗政子

光季もまた鎌倉に「朝廷挙兵」の一報を届けた。その直後、光季は、屋敷を朝廷軍に襲撃され、合戦の果てに火を放ち自刃した。

ここに朝廷・院と北条義時の対立が武力衝突へと発展した。

因みに、もうひとりの京都守護である大江親広(大江広元の子)は、養父が源通親であった関係等から朝廷軍に参加し、幕府軍と戦うこととなる。

そして、遂に、仲恭天皇から北条義時追討の宣旨が出される。

『陸奥守義時朝臣背勅命。亂天下政。可被追討之由有義』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

ただし、仲恭天皇は満3歳に過ぎず、後鳥羽上皇の差配であることは明白で、実際、後鳥羽上皇からも北条義時追討の院宣が出される。

ここで、注目されるのは、後鳥羽上皇が追討を命じたのは義時のみであって、そもそも幕府機構自体を問題としていない点である。

もっとも幕府の「執権」人事に、朝廷・院が介入するのは、幕府機構そのものを朝廷・院が支配する意図でもあった。

朝廷・院から義時追討の宣旨が出されたことに動揺する鎌倉の御家人たちを前に、北条政子が一世一代の演説を行う。

『二品招家人等於簾下、以秋田城介景盛示含曰、皆一心而可奉、是最期詞也、故右大将軍征罰朝敵、草創關東以降、云官位云俸禄、其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志淺之乎、而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡、但欲參院中者、只今可申切者、群參之士悉應命、且溺涙申返報不委、只輕命思酬恩』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

ここに、政子は、源頼朝以来の御恩を切々と説き、御家人たちの意思を「朝廷・院との決戦」へと統一させることに成功する。

同時に、「朝廷・院対北条義時」の構図を、「朝廷・院対源頼朝の御家人」の構図へと一気に塗り替えてしまったのである。

ただ、それでも、義時・義村・安達景盛等が参加した軍事作戦会議では、京都へ出兵し軍事制圧する積極案と朝廷軍の鎌倉下向を待って、足柄、及び、箱根方面で迎撃する消極案が出され決定しなかった。

そこに、大江広元が京を攻撃し軍事制圧すべきと強く主張したことで、ようやく積極案に決着する。

しかし、それも時間が経過する内に、たちまちのうちに迎撃を主とする消極案が優勢になる。

この事態に、広元に続き同じく文官で病床に臥していた三善康信が京都へ攻め込むことを強硬に訴え、遂に、鎌倉軍が出陣する。

上洛する鎌倉軍は総数約19万人の兵力を、東海道方面部隊(北条泰時 10万人)・東山道方面部隊(武田信光 5万人)・北陸道方面部隊(北条朝時 4万人)に分け進軍させた。

『承久の乱』鎌倉軍
(『承久の乱』鎌倉軍)

出陣前、泰時から後鳥羽上皇が朝廷軍の先頭に立った場合の対処について聞かれた義時は、

『さばかりの時は、かぶとをぬぎ弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申て、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を給せば、命を捨てて千人が一人になるまで戰ふべし』

(『神皇正統記 増鏡 日本古典文學大系87』岩佐正 時枝誠記 木藤才藏 校注 岩波書店)

と答えている。

鎌倉軍進発の情報を得た後鳥羽上皇は満を持して、6月、延暦寺に僧兵の動員を掛けた。

だが、延暦寺は日和見の構えを取った。

頼みとする僧兵の援軍は空振りとなったが、それでも、後鳥羽上皇は、宇治川と勢多川(瀬田川)を最終防衛ラインとして兵力を集中配備する。

この後鳥羽上皇の作戦は的中し、鎌倉軍は宇治川において大苦戦に陥ってしまう。

しかし、時間が経過するに連れ両軍の兵の死傷者が増えるに従って、兵力差はどうしようも無く、遂に朝廷軍は戦線を支えきれず崩壊に至る。

このため、

『洛中貴賤東西馳走』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

京は混乱の極みに陥る。

そして、幕府軍は、15日には京を軍事占領する。

『武士等皆以亂入』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

このため、後鳥羽上皇は使者を出し、泰時に対し、窮余の策として、あろうことか朝廷軍を追討する宣旨を与える。

幕府は、戦後処理と朝廷が二度と鎌倉に逆らわないように監視するため、六波羅探題を設置する。

六波羅
(六波羅)

その上で、幕府は、後鳥羽上皇の院政を停止し、後鳥羽上皇の兄である守貞親王を新しい院に立てる(後高倉院)。

『持明院入道親王守貞、可有御治世』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

《守貞親王系図》

後白河天皇━高倉天皇
       │
       ┝━━━┳守貞親王
       │   ┗後鳥羽天皇
       │
藤原信隆━━殖子

戦後処理が進む中で、幕府軍の要求に従い、朝廷は、仲恭天皇を退け、7月9日に、茂仁王の践祚を行う(後堀河天皇)。

『持明院入道宮御子(後堀河)御年十歳。有御錢祚事。關東申行之』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

《後堀河天皇系図》

高倉天皇━守貞親王
      │
      ┝━━━後堀河天皇
      │
藤原基家━陳子

幕府は、朝廷方が所有していた荘園3000ヶ所を没収する。

これら朝廷方から没収した土地には、新たに幕府が地頭を置いた(新補地頭)。

その上で、『承久の乱』の戦争犯罪人として、後鳥羽上皇・順徳上皇が流罪に処される。

後鳥羽上皇は、監禁されていた鳥羽殿から穏岐島へ流された。

鳥羽殿跡
(鳥羽殿跡)

『遷御隠岐國』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

また、順徳上皇は、佐渡島へ流された。

その中で、この朝廷方の計画に一切関与せず無関係であった土御門上皇は、父の流罪を傍観するわけにはいかないと自ら同じ刑を受けることを志願して土佐へ流罪となった(後に京へ近い阿波へ移送)。

『承久の乱』3上皇の配流先
(『承久の乱』3上皇の配流先)

幕府側の完全勝利を見届け安心したかのように、幕府草創の功臣のひとりである三善康信が没する。

この『承久の乱』を契機として、幕府(実態は北条氏本宗家=得宗)が、実質「天皇」の上に立ち皇統の殺生与奪権を得たことは非常に大きな意味を持つこととなった(後の『両統迭立』等)。

かくて、承久3(1221)年は、武家が公家を凌駕し支配下に置くことで「支配層の交代」が行われた日本史上の画期となった年である。

承久3(1221)年の覚え方とポイント

組(1)の夫婦(22)が作った鎌倉は国(1)を支配する(1221)