朝倉阿君丸【越前朝倉氏御曹司の死は時代を変えた!足利義満の血を引く若君!】

朝倉阿君丸について

【名前】 朝倉阿君丸
【読み】 あさくらくまきみまる
【生年】 不明
【没年】 永禄11(1568)年
【時代】 戦国時代
【父】 朝倉義景
【母】 小宰相(鞍谷嗣知の娘)
【兄弟姉妹】 愛王・女子(本願寺教如の婚約者) 等
【氏】 朝倉氏(但馬国造日下部氏)
【姓】 日下部朝臣(『朝倉始末記』)

朝倉阿君丸の生涯

朝倉阿君丸の生い立ち

朝倉阿君丸は、朝倉義景の嫡男として、越前国一乗谷に誕生する。

越前国一乗谷
(越前国一乗谷)

義景は、正室・継室とは不運な縁しか無く、それがために、なかなか子供に恵まれることも無かったために、子宝を授かるように必死に神仏に祈願している。

『国々ノ霊仏・霊社ニ祈リ、祈誓有テ設ケ玉ヘル男子』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

が阿君丸なのである。

義景は、阿君丸を溺愛し誕生から間もなく「家督(『総見記』)」としている。

母は、鞍谷嗣知の娘の小宰相である。

鞍谷氏は、室町幕府第3代将軍・足利義満の子・足利義嗣の血を引くとも言われる一族である。

このように阿君丸は、父系に朝倉氏本宗家、母系に鞍谷氏(足利氏傍流)の血筋を引くと言う嫡子として申し分の無い血統を誇っており、誕生時から義景の後継者として大きな期待を寄せられて育ったのである。

なお、阿君丸の誕生年を永禄5(1562)年とする説(『日下部系図』)がある。しかし、母の小宰相が亡くなったのが永禄4(1561)年とされていることから、その誕生年は再考の必要がある。

母の小宰相は、阿君丸の出産と引き換えに命を落としたか、産後の肥立ちが悪く命を落としたかのいずれであったのだろう。

阿君丸は生母との縁の薄い子だったと言える。

朝倉阿君丸、夭逝す

順風満帆に思われた朝倉阿君丸に不幸が襲う。永禄11(1568)年のことである。

この辺りのことは『朝倉始末記』に詳しく記述されている。

『屋形ノ一子阿君殿ノ御乳ノ人頓ニ死有リケルガ、毒害ノ由人々申ケリ』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

事の始まりは阿君丸の乳母が突然亡くなったことであった。

しかも、それがたちまちの内に「毒殺されたらしい」と人々の間で噂となっていることから誰の目にも不審な死だったことが想像される。

そして、その乳母が亡くなった日の夕刻から阿君丸の容体が急変し危篤となる。

この阿君丸の危篤の原因について、

『其乳味ヲノミ玉ヘル故カ』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

とあることから、乳母の乳を阿君丸が口にしたことで乳母の体内にあった毒が阿君丸にまで及んだ可能性が示唆されている。

朝倉義景は、この事態に、

『谷中ノ霊験智徳ノ貴僧ニ仰ラレテ、祈念』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

させたが効果無く、

『国中ノ名医聚リテ、種々良薬ヲ与フル』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

ことも試してみたが一向に効果は出ず、遂に、阿君丸は、その短い生涯を終える。

朝倉館
(一乗谷の朝倉館)

悲しみに包まれた朝倉館では、義景は阿君丸の名前を、

『天ニ呼ビ』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

地面に臥して泣き叫び、乳夫の福岡石見守や守役の堀平右衛門尉が髻を切り落としている。

朝倉阿君丸の死因

この朝倉阿君丸の死の原因となった乳母の毒殺について『朝倉始末記』は、

『乳人ノ乳、カレテ垂レザリケル故ニ、時々御末ノ女房御サシガ乳ヲ参セケル』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

状態であったことを記している。

つまり、阿君丸の誕生以来、阿君丸に乳を与え続けていた乳母の乳が枯れてしまい、新たに御サシと言う名前の女房の乳を阿君丸に与えるようになったのである。

すると、阿君丸に乳を含ませている内に、この御サシの中に「自らが阿君丸の乳母となって権力を手にしたい」と言う野心が芽生えたと言うのである。そして、

『此乳人ヲ殺ス』

(『蓮如 一向一揆』「朝倉始末記 三」笠原一男 井上鋭夫 日本思想大系17 岩波書店)

ことで、自らの野心が叶えられると思い、遂に毒殺を実行したと言う。

御サシは夫と一緒に湯起請に掛けられ、罰として水責め火責めの刑に遭わされて、その命で罪を償わされている。

このように、毒を飲んだ乳母の乳を口にしたことで阿君丸は命を落とし、新しい乳母は事実上の死罪に処されたと伝えられる。

だが、阿君丸が授乳期を過ぎていたことから乳母の乳を飲むことに違和感があるように思われる。

もっとも、これは、阿君丸が義景から溺愛されていたことや支配階級層における乳母との深い関係性からして、乳離れの時期が一般とは大きく違っていた可能性を考慮すると有り得ることなのかも知れない。

しかしながら、それでもなお矛盾が残る。

それは、乳母の乳が出ないために新しい乳母が起用されたにも関わらず、阿君丸が乳母の乳を口にしたとされた点にある。出ない乳をどうやって阿君丸は飲むことが出来たのか?

そこから考えられるのは、御サシがスケープゴートにされたのではないかと言うことである。

当時の越前朝倉氏内は、多くの一族衆の連合体のような様相を呈しており、当主の朝倉義景でさえ、軍事行動を起こすには一族衆の顔色を窺う必要があったほどである。

絶対的な当主の存在を煙たいと思う一族衆にとって、毛並みの良い阿君丸は目障りであったに違い無い。

一族衆の一部には阿君丸を何としても排除しておきたい理由と動機があったのである。

このように阿君丸の死の要因は、もっと根深いところにあるように思われる。

朝倉阿君丸とは

朝倉阿君丸は夭逝したこともあって、それほど日本史上では語られることは少ない。

ところが、阿君丸の死が日本史に及ぼした影響は限り無く大きいものであった。

当時、越前国内に居た足利義昭は、朝倉義景の余りの悲嘆ぶりに、義昭を将軍に就けようと言う気概を見出せずに越前国を離れている。また、義景からも早い時期に義昭を将軍に就けようとする気持ちは消え失せていた。こうして、義昭は織田信長を頼ることになる。

足利義満の血を引く阿君丸の死は、信長の擁立を受けた義昭を室町幕府将軍に押し立てたとも言える。それは皮肉なことに、やがて、義昭と対立するようになった信長が義景を攻め滅ぼすに至る遠因と化して行く。

越前の地で消えた阿君丸の命の灯は、次の時代を開く導火線へと燃え移り、業火となって戦国の世を焼き尽くし新しい世を生み出すことになる。

このように、朝倉阿君丸の死は日本史の大きな転換点のひとつとなったのである。

なお、阿君丸の享年については7歳とも言われるが、それは『日下部系図』に拠るところで、その『日下部系図』には阿君丸に該当する人物を「義景弟」としてあり、享年については、そのままを信じる訳にはいかない面もある。

朝倉阿君丸の系図

《朝倉阿君丸系図》

            朝倉孝景
             │
             ┝━━━義景
             │    │
            広徳院   │
                  │
                  ┝━━━阿君丸
                  │
足利義満━義嗣━(略)━鞍谷嗣知━小宰相

朝倉阿君丸の年表

年表
  • 永禄4(1561)年
     
    小宰相、死去。
  • 永禄11(1568)年
    6月25日
    死去。