伴造について
【表記】 | 伴造 |
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【読み】 | とものみやつこ |
伴造とは
【時代】 | 古代 |
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大王(天皇)の下で、世襲的職能集団である「品部(ともべ)」を隷属下に置いて管理統括し、それぞれの職能を以って、ヤマト王権(大和朝廷)内の諸職や技術的職務に奉仕した豪族のこと。
《伴造の概念》 伴造 ┃ ┣━━━━━━┳━━━━━━┳━━・・・ 直・村主等 直・村主等 直・村主等 ┃ ┃ ┃ 部民 部民 部民
伴造を代表する豪族として、大伴「連」氏・物部「連」氏・土師「連」氏・忌部「首」氏・秦「造」氏・漢「直」氏等が挙げられる(「 」内は姓を示す)。これらは、神別豪族や渡来系豪族と言う特色を持つ。
なお、大伴氏・物部氏・土師氏等に関しては、朝廷の上位豪族たる「連」姓であること等から、他の伴造とは区別して見なす説もある。
伴造と「トモ」
トモ(伴)については『古事記』に次の歌が記述されている。
『楯並めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや餓ぬ 島つ鳥 鵜上養が伴 今助けに来ね』
(『古事記 祝詞』倉野憲司 校注 日本古典文學大系1 岩波書店)
この歌は、カムヤマトイワレビコ大王(神武天皇)が「戦い疲れてお腹が空いたから鵜上養が伴(鵜飼ヶ伴)は魚料理を早く持って来い」と歌ったものである。
ここでの「鵜上養が伴(鵜飼ヶ伴)」は、大王(天皇)に魚を供御する存在であることを示している。
伴造は、このような「鵜上養が伴(鵜飼ヶ伴)」と言った伴を管理する立場にある豪族であった。
なお、この『古事記』中に見えるカムヤマトイワレビコ大王(神武天皇)と「鵜上養が伴(鵜飼ヶ伴)」に関係については史実を描いているものでは無い。これらは、後世の大王(天皇)と「伴」との関係を反映したものと見做せる。
伴造の展開
伴造の形成
伴造がどのような過程を経て成立したのかは不明な点が多くはっきりしない。
しかし、雄略天皇15(471)年に、オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)が秦部を秦酒の支配下に置いて「伴造」としたことを、伴造形成の例として見ることが出来る。
『秦の民を臣連等に分散ちて、各欲の随に駈使らしむ。秦造に委にしめず。是に由りて、秦造酒、甚に以て憂として、天皇に仕へまつる。天皇、愛び寵みたまふ。詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公、仍りて百八十種勝を領率ひ』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
伴造の国政参加
大伴氏と物部氏が「大連」として国政に参加する。
オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)の時代に、大伴室屋が「大連」として、オオハツセワカタケ大王(雄略天皇)の崩御後の混乱を鎮圧している。また、大伴金村は、オオド王を擁立して王統(皇統)の断絶を防ぐ等している。
その後、大伴氏は失脚し、物部氏が「大連」を独占する。物部尾輿は、在地系皇別豪族の蘇我氏とヤマト王権の実権を二分するほどの権勢を誇っている。
伴造と『大化の改新』
『乙巳の変』を経て成立した所謂「改新政権」が打ち出した「公地公民」のスローガンの下で品部が廃止される。
『今の御寓天皇より始めて、臣・連等に及るまでに、所有る品部は、悉に皆罷めて、国家の民とすべし』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
豪族の私有地・私有民の所有が原則的に禁止されたことで、名目上、伴造の性格は変容する。
しかし、実質的には伴造としての役割は変わるものでは無かった。実際、天武天皇元(672)年に勃発した大海人皇子を首謀者とする大王(天皇)への叛乱『壬申の乱』では、大伴氏が麾下の部民を率いて軍事的に大きな貢献を果たしている。
伴造と律令体制
日本に律令体制が成立すると、中央の伴造(大伴氏等)は上級貴族化する。
有力な伴造に仕えていた中小の伴造等は、官人組織の中に組み込まれ「伴部」として、品部・雑戸を管理したと考えられる。
伴造の年表
- 雄略天皇15(471)年雄略天皇、「秦伴造」を置く。
- 大化2(646)年8月14日品部を廃止。