六条合戦【敵は「本圀寺」にあり!三好三人衆の大逆襲!織田信長は凍死寸前!】

六条合戦について

【表記】 六条合戦
【読み】 ろくじょうかっせん
【別表記】 本圀寺合戦
【時代】 戦国時代

六条合戦とは

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が、本圀寺に居た室町幕府第15代将軍足利義昭を襲撃した合戦のこと。

ただし、合戦は六条堀川(本圀寺周辺)のみで行われたのでは無く、京の洛西を流れる桂川周辺での大規模戦闘に拠って合戦の雌雄が決せられた。

六条合戦の戦力

三好三人衆 軍
  • 総大将
    三好長逸
    三好政康
    岩成友通
    三好康長
  • 総兵力
    約1万人(『細川両家記』)
  • 武将
    篠原長房
    三好実休
    薬師寺九郎左衛門
    斎藤龍興
    長井隼人
    三好久助
    矢野虎村
    吉成勘助
    篠原玄蕃允
    加地権助
    塩田采女正
    松田彦十郎 他
足利義昭 軍
  • 総大将
    足利義昭
  • 総兵力
    不明
  • 武将
    【本圀寺】
    細川藤賢
    三淵藤英
    織田左近将監
    野村越中守
    赤座七郎右衛門永兼
    赤座助六
    津田左馬丞
    坂井与右衛門
    明智光秀
    森弥五八
    内藤備中守
    山縣源内
    宇野弥七
    二階堂駿河守
    飯河信堅
    牧島孫六
    曾我部兵庫頭 他
  • 本圀寺兵力
    不明
  • 武将
    【援軍】
    細川藤孝
    三好義継
    池田勝正
    伊丹忠親
    荒木村重 他
  • 援軍兵力
    不明

六条合戦の概要

六条合戦の発端

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は、永禄11(1568)年、室町幕府将軍に足利義栄を立てることに成功する。

しかし、間もなく、足利義昭を擁立し上洛して来た織田信長に京及び京の近郊から駆逐され、三好三人衆は本拠地の阿波国へ逃亡する。そして、混乱の中で義栄が不審死したことで、信長は、空位となった室町幕府将軍に義昭を据える。

その上で、信長は、義昭の御座所を六条堀川にある本圀寺と決めると、僅かの護衛を残して岐阜城へ引き揚げる。

11月までは、佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家・森可成・木下秀吉等の信長家臣が行政に関わっていたが、幕府吏僚と交代していくようになる。

一方、阿波国に敗走した三好三人衆等は、足利義昭を排斥するために上洛することを決定する。

12月になると、三好三人衆が兵を興し、阿波国から摂津湾を渡り和泉国に上陸し、家原城を占領する。

戦巧者の三好三人衆軍らしい戦闘ぶりで、

『其日の晩に責落シ百計首討取』

(『群書類従 新校第十六巻』「細川両家記」塙保己一 内外書籍株式会社編 内外書籍)

攻撃を開始するや、その日の内に圧勝し、家原城城主の寺原左衛門大夫、及び雀部治兵衛尉は自刃して果てている。

六条合戦の戦況

和泉国に上陸してからの三好三人衆には、勝手知ったる畿内である。

家原城周辺には、続々と阿波国から三好三人衆軍の兵が集結し、年が明けた永禄12(1569)年正月2日、和泉国から河内国の出口中堀へ進む。翌3日には、山城国に入り、三つ(所在地不明)に布陣する。そして、4日には東福寺に全軍を集結させる。

その上で、5日になって、三好三人衆軍は電光石火の速さで本圀寺の四方から完全に攻囲した。

六条合戦(本圀寺合戦)
(六条合戦・写真中央が六条堀川時代の本圀寺)

本圀寺の足利義昭側では、この三好三人衆軍の動きに対して、細川藤賢と三淵藤英は惣門の守備に当たり、野村越中守は足軽を率いて四辻の守備に当たっている。

ここで、三好三人衆軍にとって予想外の事が起こる。法華宗の僧から三好三人衆軍に申し入れが行われたのである。

『京中ノ法華ノ僧徒寄合三好方エ使僧を立今夜カヤウニ責入乱妨アラハ本國寺滅亡ナリ此寺ハ三好家代々崇敬ノ寺也』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている
※当時の本圀寺の表記は「本國寺」であった

その上で、翌日に義昭を移動させた上で攻撃したらどうかと言うものである。無論、三好三人衆軍が聞き入れる訳も無いが、この時、三好三人衆軍には軍事的な時間推移に空白が生じた。その隙に本圀寺の外に居た義昭側の人間が援軍を求めに走ったのである。

三好三人衆の先鋒を務める薬師寺九郎左衛門は、本圀寺の門前に火を放ち障害物となる建物を焼き崩した勢いで攻め掛かった(上の写真では本圀寺の南隣に西本願寺が見えるが、当時は存在していなかった)。

先鋒の薬師寺部隊は、早々と本圀寺の門を打ち破り侵入する態勢に入ったが、本圀寺内から山縣源内と宇野弥七が逆に薬師寺部隊に斬り掛かり、薬師寺部隊は陣営を崩されるほどであった。しかし、多勢に無勢であり、山縣源内と宇野弥七は、態勢を立て直した薬師寺部隊が繰り出す槍に貫かれ戦死する。

それでも、本圀寺に残された義昭の将士は意気盛んで、三好三人衆軍を一歩も本圀寺内に踏み入らせなかった。

この合戦で、三好三人衆軍が本圀寺自体に火を掛けなかったのは、あるいは、先の僧からの申し入れの影響があったのかも知れない。それとも、圧倒的な兵力差に油断したのか。いずれにせよ時間を掛ければ掛けるほど勝機が遠のいていることに、この時はまだ気付いていなかった。

摂津国では高槻城の城主・入江左近が三好三人衆側に寝返り、西国街道を封鎖した。

このため、急報を受けて伊丹城から出陣した伊丹忠親部隊や池田城を出た池田勝正部隊は、西国街道を避け山道を抜けて、山城国西岡の向日社前で合流し、一路、京を目指している。また、若江城を出陣した三好義継も京を目指した。

こうして、義昭側の援軍は続々と西岡に布陣した。

この義昭側の動きを、いち早く三好三人衆軍も察知し、三好長逸と三好政康の部隊が本圀寺に残り、三好康長と岩成友通の部隊は本圀寺を離れ義昭側の援軍に対する応戦のため洛西方面の桂川に向かった。

当時の本圀寺の惣門は西面にあり、西方から東方に向かい攻撃している三好三人衆軍にとっては、背後を突かれる危険性を排除したかったのである。

康長と友通の部隊は桂川を渡り、三好義継と池田勝正部隊を蹴散らし西岡からさらに奥に位置する西山に追い込んでいる。しかし、伊丹忠親部隊は、80人の犠牲を出しながらも桂川を渡り上鳥羽方面へ展開することに成功する。

六条合戦(桂川合戦)
(桂川から西岡にかけての合戦)

本圀寺でも、細川藤賢・三淵藤英・野村越中守・二階堂駿河守・飯河信堅・牧島孫六・曾我部兵庫頭等が寺内から打って出て奮戦。

また、勝龍寺城から駆け付けた細川藤孝部隊や摂津国から到着した荒木村重部隊も西岡方面に集結し桂川畔において康長と友通の部隊に攻撃を加えたことで、康長と友通の部隊は総崩れとなる。

義昭側の援軍が次々と桂川を渡る状態になり、本圀寺を攻囲していた三好三人衆軍は撤兵を開始。三好三人衆軍は、淀・八幡・伏見・宇治木幡の各方面へ敗走した。

ここに『六条合戦』は終了する。

六条合戦の戦後処理

『六条合戦』の一報を受けた織田信長は、正月6日、大雪に埋もれた岐阜城を出発し京を目指す。

僅かな手勢を従えるのがやっとであった信長は、10日になってようやく上洛する。

この大雪の中の信長の上洛は、相当危険なものであったようで、信長の従者数名が道中で凍死するほどであった。言い換えれば、そのような危険を冒さねばならないほど、信長は焦ったのである。

信長は、三好三人衆軍との戦闘に多大の功績があったとして、池田清貧を賞している。

また、三好三人衆側に寝返った入江左近は合戦後、足利義昭に降伏したものの、信長は赦さず斬首に処した。同じく、三好三人衆側に寝返った三木主馬助も斬首されている。

六条合戦の意義

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の目的は、足利義昭の排斥、即ち殺害であった。

三好三人衆側には、先代の将軍である足利義栄の父の足利義維や、義栄の弟の足利義助や足利義任等、将軍に擁立出来得る人材は豊富に握っている状態であり、喪失した勢力の挽回は可能と見ていた可能性が高い。

だが、優勢な軍事力とコマとなる人材を擁しながらも三好三人衆は敗北した。

即ち、圧倒的な軍事力を以って本圀寺の義昭を追い詰めながらも、義昭救援のために駆け付けた援軍の前に三好三人衆が敗北した事実は、「室町幕府将軍」を中心とした幕府体制に自らを置くことで自らの立場を保証されることを希望する大名や国人たちが大勢存在していることを意味した。

一方、足利義昭が持つ軍事力は極めて脆弱であった。

このため、織田信長は、足利義昭のために新規に堅固な将軍御所(二条御所)の建設を開始する。

加えて、将軍御所が完成するまでの間、畿内の治安維持のために、信長の家臣が京に駐留することとなる。

信長の家臣は、二組に分けられて担当した(一組は「佐久間信盛・柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆」組、もう一組は「丹羽長秀・木下秀吉・中川重政・明智光秀」組)。

結果、信長の家臣たちには、戦場における槍働きの「武将」面だけでは無く、事務仕事に長けた実務の出来る「吏僚」面も求められるように変質して行く。

長引く戦国の世に誰もが自分の立場を保証してくれる存在を求めていた。

『六条合戦』は、その状況に、足利義昭の「象徴性」と織田信長の「軍事力」が、ひとつの方向性を持つ契機となった。

六条合戦の主な戦没者

三好三人衆 軍
  • 主な戦没者
    高安権頭
    吉成勘介
    岩成弥介
    林源太郎
    市田鹿目介 他
足利義昭 軍
  • 主な戦没者
    山縣源内
    宇野弥七 他

戦没者数について、『細川両家記』は、

『此合戦双方八百人死す』

(『群書類従 新校第十六巻』「細川両家記」塙保己一 内外書籍株式会社編 内外書籍)

とするが、別説では、

『公方衆エ打取首二千七百余人也』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

ともあり、その実数は不明である。

六条合戦の年表

年表
  • 永禄11(1568)年
    9月28日
    足利義昭、織田信長に推され上洛。
  •  
    10月18日
    足利義昭、征夷大将軍に就任。
  • 永禄12(1569)年
    正月5日
    三好三人衆、本圀寺の足利義昭を襲撃。
  •  
    正月6日
    三好三人衆、敗走。
  •  
    正月10日
    織田信長、上洛。