足利義栄【京を夢見た悲劇の将軍!京の地を一歩も踏んだことの無い室町幕府第14代将軍!】

足利義栄について

【名前】 足利義栄(源義栄)
【読み】 あしかがよしひで(みなもとのよしひで)
【初名】 足利義親
【初名の読み】 あしかがよしちか
【通称】 阿波公方・阿波御所・阿州公方・阿州御所
【法名】 光徳院玉山
【生年】 天文7(1538)年
【没年】 永禄11(1568)年
【時代】 戦国時代
【位階】 従五位下
【官職】 征夷大将軍(室町幕府第14代将軍)・左馬頭
【父】 足利義維(足利義冬)
【母】 恵光院(大内義興の娘)
【兄弟姉妹】 足利義助・足利義任
【伯叔父】 大内義隆
【従兄弟】 足利義輝・足利義昭 等
【配偶者】 不明
【子】 不明
【氏】 足利氏(清和源氏)
【姓】 源朝臣

足利義栄の生涯

足利義栄の生い立ち

足利義栄は、足利義維の子として、天文7(1538)年に誕生する。

母は、西国の雄・大内義興の娘(恵光院)である。

義栄の幼名は不明であるが、元服後に「義親」と名乗る。

父の義維(義冬)は、室町幕府第11代将軍足利義澄の次男であった。そして、義維は、第10代将軍足利義稙の養子となり堺に拠点を置き、将軍後継者候補として「堺公方(堺大樹)」と呼ばれていた。『桂川合戦』で敗北して近江に逃亡した第12代将軍足利義晴と共に実質的な将軍と言えた。

しかし、義維を支えていた三好元長と細川晴元が対立し内紛が生じたために淡路へ逃亡する事態に至り、将軍宣下を受けることは無かった。

《足利義維系図》

足利義教┳義勝
    ┣義政
    ┣義視━義稙
    ┗政知┳茶々丸
       ┗義澄━┳義晴━義輝
           ┗義維━義栄

逃亡後の義維は、阿波国の細川之持に保護された。

こうして、義維の逃亡先の阿波国那賀郡で義親(義栄)は誕生する。

阿波国那賀郡
(阿波国那賀郡)

このこともあって、義親(義栄)は、阿波細川氏の執事を務めていた三好長慶の家臣である三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)や篠原長房と言った一癖も二癖もある人物との繋がりが出来るようになる。

義親(義栄)の外戚は、既述の通り、西国の雄・大内氏である。

大内氏は義親(義栄)の強力な後ろ盾となるはずであった。しかし、その大内氏は、天文20(1551)年に当主の大内義隆が陶晴賢の叛乱に遭い自刃に追い込まれている。

足利義栄の転機

永禄6(1563)年、畿内を統治していた三好長慶の嫡男の三好義興が死去する。

義興の死は、日本史を大きく変えることとなる。

義興の死後、長慶は甥の三好義継を養子に迎え自らの後継者に据える。義興が亡くなってからの長慶は失意の日々を過ごすようになり、やがて寿命を終える。

長慶の死は、政治に将軍の権威を取り戻そうと目論む第13代将軍足利義輝にとっては僥倖となった。

一方、将軍権威を復活させようとする義輝に反発する三好三人衆は、自らの掌中にある義親(義栄)のことを「阿波公方」「阿波御所」と呼び将軍職への擁立を計画するようになる。

また、三好氏の家督を相続したばかりの義継も義輝を疎ましく思うようになる。ここに至り、義継と三好三人衆の思惑は合致する。

永禄8(1565)年には、義親(義栄)も、

『阿波御所様三好三人衆松永篠原山城守ヲ頻リニ御頼ミアリヲ御上洛ノ御望』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

するようになっていた。

そして、この年、遂に義継と三好三人衆は、義輝を襲撃し自刃に追い込む。こうして、義継と三好三人衆が描く思惑の全ての障害であった義輝の排斥に成功するのである。

この義輝襲撃事件の混乱の最中、義輝の弟・一乗院覚慶が逃亡する。この覚慶こそは、義親(義栄)にとって、いくら憎んでも憎み足りないほどの宿敵となる後の足利義昭である。

足利義栄、征夷大将軍を目指す

従兄弟の足利義輝がいなくなったことで、足利義親(足利義栄)の将軍就任がすんなり行くかと思われたがそうは行かなかった。

将軍が不在となった政権の主導権を巡り松永久秀と三好三人衆が対立してしまったのである。

永禄8(1565)年9月、三好三人衆は自らの総大将に三好義継(長慶の養子)を擁した。このことで、三好三人衆が三好氏を公に代表する立場となったのである。

《足利義栄と三好義継系図》

三好元長┳長慶━義興
    ┗一存
      │
      ┝━義継
      │  │
九条稙通━女子  │
         │
足利義澄┳義晴┳女子
    ┃  ┗義輝
    ┗義維━義栄

さらに、義親(義栄)を「阿波公方」「阿波御所」とすることで、自分たちの正当性を担保した。その上で、

『阿波御所様ヨリ松永退治ノ御教書ヲ』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

出させている。

それは、義親(義栄)の幕府を支えると考えられていた双翼の内の片方の翼がもげた瞬間であった。

永禄9(1566)年2月には、遂に両者は軍事衝突する。このため義親(義栄)の将軍就任どころでなくなった。

しかし、9月、堺において、三好三人衆と久秀方とが合戦し、三好三人衆が勝利を収める。そして、敗北した久秀は逃亡し消息不明となる。

ここに、三好三人衆は、

『阿州御所様年来御入洛御望之儀』

(『群書類従 新校第十六巻』「細川両家記」塙保己一 内外書籍株式会社編 内外書籍)

※旧漢字は当用漢字に改めている

に応えるべきと言う理由付けを行った上で、自らの将軍擁立に動き出す。

まず、三好三人衆方の篠原長房が25000の兵を率いて阿波国を出て来る。長房の軍勢は、6月11日に摂津国兵庫に着陣。

相次ぐ合戦で疲弊している久秀方の各勢力にとっては、この長房が率いて来た新規の大兵力は脅威であった。実際、同年夏頃までには、三好三人衆が畿内に残存する久秀方を圧倒して行く。

この状況を受けて、義親(義栄)は、阿波国から淡路島へと移動する。次いで、摂津湾を渡って、8月23日には越水城(腰水城)に入り、上洛を目指した。

越水城と京
(越水城と京)

義親(義栄)が畿内に上陸すると、9月には、伊丹親興が久秀方を離れて、義親(義栄)の下に馳せ参じて来る等、

『西国方ハ三好ニ一味阿波ノ御所エ内通申シ』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

状態となり、全ては順調に動き始める。

12月になって義親(義栄)は、越水城から富田まで上って来る。京は、いよいよ目前である。

摂津国富田
(摂津国富田と京)

そして、普門寺において、京から勅使を迎え、従五位下に叙され左馬頭に任じられる。これこそが、将軍宣下の先例に倣ったものであった。

義親(義栄)の下へ勅使が訪問し叙爵が為された時、

『多年ノ旧懐一時ニ被達三好衆篠原方マテノ本意何事カ是ニシカンヤト悦事カキリナシ』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

と言う具合に三好三人衆や篠原長房も喜びに浸っている。

また、義親は「義栄」へと名を改める。こうして、ようやく、義栄の将軍就任への目途が立った。

一方で、義栄と三好三人衆との蜜月の前に、自らの存在価値が低下する事態を認めざるを得ない状況に焦る三好義継は不満を募らせて行く。

足利義栄、室町幕府第14代将軍になる

足利義栄の大願成就が叶うかと思われた、その刹那の永禄10(1567)年2月、三好三人衆に不満を持つ三好義継が松永久秀に降伏すると言う事態が発生する。

久秀は、一躍、三好三人衆に対して反撃に出て、10月には、東大寺での合戦で三好三人衆を破っている。そして、大和国は久秀の支配下に置かれ、河内国・摂津国でも久秀が優勢に出る。

結局、この年は、久秀が勢力を巻き返したことで、畿内の主要地域が再び戦乱状態に陥り、三好三人衆の後ろ盾も虚しく義栄の将軍就任は朝廷より許されることは無かった。

しかし、起死回生を図る三好三人衆に拠る朝廷に対する「義栄の将軍就任」に向けた強い働き掛けが行われる。

その結果、翌永禄11(1568)年2月8日になって、義栄への将軍宣下が実現される。

『左馬頭源義栄被補征夷将軍』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

こうして、義栄は、遂に念願の征夷大将軍に就任することとなる。将軍不在の期間は、およそ3年にも渡っていたが、義栄の将軍就任で室町幕府は存続されたのである。

この時、禁色昇殿も許されているが、義栄は未だに富田に滞在しており、御所に参内することは叶っていない状態であった。

しかし、義栄が将軍に就いた以上、上洛し天皇に拝謁の上で天下に号令することも時間の問題であると思われた。

足利義栄、足利義昭に将軍職を奪われる

ところが、永禄11(1568)年9月26日、織田信長の支援を受けた足利義昭(覚慶が還俗した名前)が上洛して来る。

しかも、松永久秀と三好義継は、信長と義昭に降伏し、その軍門に下ると言う事態に発展する。この瞬間、現将軍足利義栄は、義昭を擁する信長の敵となってしまったのである。

実際には、義昭上洛以前から久秀は信長と通じており、義栄と三好三人衆の孤立化は秘密裡に進んでいたとも言える。

この事態に、三好三人衆方も手をこまねいていたわけでは無く、三好三人衆や篠原長房が近江国の六角氏の下へ出向き、義栄に味方することへの同意を得ている。

しかし、破竹の勢いで上洛戦を勝ち進んで来た信長は、その勢いのまま三好三人衆の追討を命じた。山城国乙訓郡にある三好三人衆方の拠点であった勝龍寺城が織田軍の猛攻撃の前に陥落する。

ここに義栄の命運も尽きる。

『十月一日に、阿州公方様(略)阿州へ先々御下向』

(『群書類従 新校第十六巻』「細川両家記」塙保己一 内外書籍株式会社編 内外書籍)

『細川両家記』は、義栄が三好三人衆と共に阿波の方へ向かい引き揚げた、と淡々と記している。そして、これが確認出来る義栄の足跡の限りとなってしまう。

義栄が亡くなった場所は摂津説、阿波説などがあり、日時も9月13日説、9月30日説、10月8日説など様々である。

義栄は、京を目前にしつつ一度も上洛を果たせず、その短い生涯を終えたのである。

足利義栄とは

足利義栄は、間違い無く室町幕府将軍であった。

義栄の父である足利義維(足利義冬)は、将軍候補に挙げられながら、将軍に就くことは無かった。

幼少時代から義栄は、父・義維の無念さを肌で感じ取り、その義維の無念を晴らすために自らが将軍となることを決心したものと思われる。

そして、三好長慶と足利義輝の対立と和睦に見られる畿内の政治的に混沌した状況を俯瞰しつつ阿波国から虎視眈々と機会を窺うことで、必ず自分に出番が来ることを確信していたことであろう。

摂津国富田から京までは直線距離にして凡そ20kmほどしかない。五輪に出場するマラソンランナーならば、走って1時間も掛からない距離である。

しかし、その僅かな距離を、義栄には、どうしても詰めることが出来なかった。

恐らく、それは、山城国の西岡(にしのおか)の存在が障壁となっていたものと思われる。

西岡は、山城国乙訓郡と同国葛野郡の内の桂川以西の部分を指す。この西岡は、松永久秀の出生地であり、久秀方の影響力が強かった。そして、また、西岡は、幕府奉公衆を多く輩出している土地柄でもあり、先代将軍足利義輝を自害に追い込んだ三好三人衆には相当な反感が渦巻いていたことが容易に想像される。

このような不穏な空気に満ちた西岡を通らない限り、西方から東上する義栄にとって上洛は不可能だったのである。

実際、小規模な国人屋敷がひしめき合う西岡の中では比較的大型な軍事要塞とも言える勝龍寺城は、この時期、三好三人衆の手にあったものの、その勝龍寺城にさえ義栄は入ることが出来なかった。

勝龍寺城
(勝龍寺城)

三好三人衆と久秀との対立分裂がボディーブローの如く義栄には効いていたのである。

その義栄の最期も突然の「病死」とされている。

しかも、それが足利義昭の将軍就任の直前である。つまり、先代の義栄が亡くなり空席となった将軍の座に丁度頃合い良く上洛して来た義昭が将軍に座ったと言う、義昭と織田信長にとって実に都合良く時系列が進んでいる。このことから、義栄の死は毒殺の可能性も含まれているものと思われる。

義栄の最期について、死去した場所を摂津国富田とする説では、

『義栄モ腫物ヲ憂タマヒテ逝去』

(『史籍集覧』「足利季世記」 国立国会図書館デジタルコレクション)

※旧漢字は当用漢字に改めている

したとし、それまで持病らしい持病の記録が残されていない義栄の持病が突如前触れも無く悪化し亡くなったとしている。これは、義昭が「将軍を簒奪した事実」を体よく隠蔽するには持って来いの内容となっていることは留意する必要がある。

そして、この摂津国富田を義栄の終焉の地とする説に付きまとう毒殺説を探る鍵は、やはり「松永久秀」であるように思われる。

摂津国富田は、山城国の西岡の目と鼻の先であり、何よりも摂津国の北摂は久秀の息が掛かった地域であって、あらゆる秘密工作が久秀の命令で実行され得る土地であったと言う事実である。足利義昭と織田信長に対して久秀が降伏した途端に、将軍就任を目指す義昭にとって実に都合良く、北摂に滞在していた将軍・義栄が「病死」したのである。

かつて、義栄の父の義維は、将軍の座を目前にしながら、家臣の対立分裂のために涙を呑んで畿内を去った。今度は、義栄もまた家臣の対立分裂と言う同じ轍を踏み、上洛出来ず涙を呑み、挙句に、その生涯を終えたのである。

人の世の「建前」よりも「本音」が優先された戦国時代に翻弄された父子と言えるのかも知れない。

それでも義栄は、父の果たせなかった夢である「将軍就任」を果たしたのである。

現在、義栄は、徳島県阿南市の西光寺に眠る。

義栄の墓石は、父の義維と並んで立っており、それは、将軍となったことを父に報告する義栄の姿のようであり、そのような義栄を誇らしく感じている義維の姿のようである。

西光寺
(徳島県阿南市 西光寺)

義栄の父・義維は、義栄の没後、その菩提を弔いつつ、天正元(1573)年に亡くなっている。

重ねて言う。

足利義栄は、室町幕府第14代将軍であった。

足利義栄の系図

《足利義栄系図》

足利義澄┳義晴━┳義輝
    ┃   ┗義昭
    ┗義維
      │
      ┝━━義栄
      │
大内義興┳恵光院
    ┗義隆

足利義栄の年表

年表
  • 天文7(1538)年
     
    誕生。
  • 永禄8(1565)年
    5月19日
    第13代将軍・足利義輝、襲撃され自刃する。
  • 永禄9(1566)年
    6月
    淡路島へ進出。
  •  
    8月23日
    摂津国越水城に入る。
  •  
    12月7日
    摂津国富田に到着。
  •  
    12月28日
    「義栄」と改名。従五位下。左馬頭。
  • 永禄10(1567)年
    11月
    将軍宣下を願い出るも却下される。
  • 永禄11(1568)年
    2月8日
    征夷大将軍、就任。
  •  
    9月26日
    足利義昭が上洛。
  •  
    10月8日
    死去。
  •  
    10月18日
    足利義昭、征夷大将軍就任。