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蘇我満智宿禰について
【名前】 | 蘇我満智宿禰 |
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【読み】 | そがのまちのすくね |
【別表記】 | 蘇我麻智(『古語拾遺』・『尊卑分脈』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 古墳時代 |
【父】 | 蘇我石川宿禰 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 韓子 |
【氏】 | 蘇我氏 |
蘇我満智宿禰の生涯
蘇我満智宿禰の生い立ち
蘇我満智宿禰は、蘇我石川宿禰の子として生まれる。
母は不明である。
そもそも父と見做されている石川宿禰の存在自体が疑問視されている。
また、蘇我氏系図中における満智宿禰の位置は、平安時代に成立した『公卿補任』において「蘇我韓子の父」として現れるに過ぎず、石川宿禰との直接の関係は記されていない。
蘇我満智宿禰、国政に参与する
履中天皇2(401)年、蘇我満智宿禰は、
『平群木菟宿禰・蘇我滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓大使主、共に國事を執れり』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と『日本書紀』中では国政に参与したとされている。
オオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)の時代には、
『大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵を検校しめ』
(『古語拾遺』斎部広成撰 西宮一民校注 岩波文庫)
とあって、満智宿禰が斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵を管理したと言われる。
『古語拾遺』における満智宿禰の記述は、主として秦氏等の渡来移民について記述されている部分に唐突に出て来るものである。
この『古語拾遺』に見える満智宿禰については、
『蘇我氏が渡来系移住民を利用し、出納・帳簿などの新しいクラの管理を開始したという伝承』
(『蘇我氏の古代』吉村武彦 岩波新書 岩波書店)
と言う見方や、
『蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏とその後裔である石川氏によって作られた伝承』
(『蘇我氏 古代豪族の興亡』倉本一宏 中公新書 中央公論新社)
とする見方が一般的であり有力である。
これらのことから、平安時代に成立した『古語拾遺』に記述される満智宿禰の姿は、後世の石川氏(蘇我氏傍流末裔)が自らの氏の格式を上げ正統化するために古代からの「伝承」としたものであって、これをそのまま5世紀の史実と見做すことは出来ない。
「蘇我満智宿禰=木満致」説とは
蘇我満智宿禰については、百済人「木満致」と同一人物とする説がある。
この「蘇我満智宿禰=木満致」説のベースにあるのが、
『書紀は口を閉ざしているが、元来、応神のひらいた河内王朝は、朝鮮からの征服王朝である』
(『飛鳥王朝の悲劇 蘇我三代の栄光と没落』大場弘道 光文社)
と言う考えである。
所謂「騎馬民族征服王朝」論の流れからの展開となっている。
このため「征服王朝」なるものの王に連なるとされるイザホワケ大王(履中天皇)は、百済から木満致を召喚したとする。そして、
『渡来した満智は、履中宮廷の財政担当者に変身したのである。また彼の配下として、漢氏をはじめとする百済系の官僚がすべて集まってくるようになった』
(『飛鳥王朝の悲劇 蘇我三代の栄光と没落』大場弘道 光文社)
として、百済の木氏が倭(日本)で蘇我氏へと姿を変えた上で渡来移民を支配に置いて活躍したとする。
この「蘇我満智宿禰=木満致」説は、1970年代頃にもてはやされた説である。
「蘇我満智宿禰=木満致」説の問題点
木満致については、『日本書紀』の応神天皇25(294)年の条に、
『百済の直支王薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る。王、年幼し。木満致、国政を執る』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と記されている。
ただ、応神天皇25(294)年の条に見える直支王(腆支王)の没年は、朝鮮半島に伝わる『三国史記』に記される直支王の没年(420年)とは違っている。
そうなると必然的に木満致の活動時期も異なるものとなって来る。つまり、木満致と蘇我満智宿禰が同時期には存在していなかったことと言うことになり、「蘇我満智宿禰=木満致」説は成り立たない。
また、『日本書紀』が「讖緯説」に基づき編纂されたとして見た場合、応神天皇25年は西暦414年となり、『三国史記』の伝える西暦420年に近くはなるが、それは、あくまでも百済国王の直支王が没した年である。
さらに、蘇我満智宿禰と木満致を同一人物とすれば、「応神天皇25年の木満致」と「履中天皇2年の蘇我満智宿禰」が同一時間軸に存在していたことになり、『日本書紀』の内容自体が破綻してしまうことになる。
木満致とは、百済の国政を執っていたものの、
『王の母と相婬けて、多の無禮す。天皇、聞しめして召す』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
王の母と欲望のままに肉体関係を結んで淫欲に耽って無礼の限りを尽くし百済国内で忌み嫌われてしまったために、大王(天皇)から倭(日本)に召喚された人物である。
このことについて『日本書紀』は『百済記』からの引用と言う形で次のように解説している。
『制を天朝に承りて、我が國の政を執る。權重、世に當れり。然るを天朝、其の暴を聞しめして召す』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ヤマト王権(大和朝廷)から百済の国政を任されていたものの、その傍若無人ぶりに百済国内で反発を買ったために、倭(日本)に召喚したと言うのである。
これを「蘇我満智宿禰=木満致」説で解釈すれば、淫乱で無礼者として百済国内で嫌われていた木満致を、大王(天皇)は召喚した上で倭(日本)の政治を一任したことになる。
だが、『日本書紀』中には、大王(天皇)が木満致を倭(日本)の政治に参加させたとする記述は無い。満智宿禰が政治に参加したとする『日本書紀』中の記述を拡大解釈したに過ぎない。
そして、何よりも「蘇我満智宿禰=木満致」説の致命的な問題は、倭(日本)における古代最大の実力者である葛城氏の存在を無視している点にある。
大王(天皇)の外戚として倭の政治に深く関わる葛城氏と大王家(皇室・天皇家)との間で相克が開始され始めた5世紀に、突如、渡来して来た百済人が倭(日本)の政治を差配するようなことが果たして可能であったのだろうか。
渡来移民を木満致が支配下に置いていたとする見方も、葛城氏の本拠地内に渡来移民の生活拠点が存在していると言う考古学的事実に相反するものである。
この点からだけ見ても、「蘇我満智宿禰=木満致」説は成り立たないと考えられる。
そもそも一番大事なことは、満智宿禰と木満致が別人であったとしても同一人物であったとしても、満智宿禰が倭(日本)の歴史上において行った「政治」に関する記録は何ひとつ無いと言う事実である。
蘇我満智宿禰とは
蘇我満智宿禰は実在性の乏しい伝承上に作られた架空の人物と見られる。
それは、『日本書紀』中の満智宿禰に関する記事が一ヵ所のみであり、しかも、その内容に具体的な事績を伴っていないことから見ても明らかである。
満智宿禰が共に政治を執ったとされる顔ぶれを見れば、平群木菟宿禰・物部伊莒弗・葛城円の三名となっている。
この中で、木菟宿禰の平群氏は、満智宿禰の蘇我氏と並び、共に武内宿禰の末裔を名乗る在地系豪族である。しかし、平群氏が本格的に政治に参与するのは、円が粛清された後のことである。
伊莒弗も、大王家(皇室・天皇家)の武力装置である伴造の物部氏の存在の焼き写しと考えられる。
この5世紀において、実際に政治に参与したのは、葛城円のみであったと考えられる。
その円の葛城氏に取って代わり、ヤマト王権(大和朝廷)の政治に参与出来得る存在としての蘇我氏(石川氏)を象徴する存在として『日本書紀』に登場するのが満智宿禰と思われる。
それは、また同時に『日本書紀』に蘇我氏(石川氏)の政治参与を古く見せかけるために時間を遡らせる目的もあろう。
蘇我満智宿禰は、8世紀の『日本書紀』編纂時における蘇我氏(石川氏)の意向が色濃く表れた存在と言える。
蘇我満智宿禰の系図
《蘇我満智宿禰の系図》 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓ ┗甘美内宿禰 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┣波多八代宿禰 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰 ┣蘇我石川(石河)宿禰━満智宿禰━韓子━高麗━稲目━馬子 ┣平群木菟(都久)宿禰 ┣紀角宿禰 ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦) ┗若子宿禰
蘇我満智宿禰の年表
- 履中天皇2(401)年10月国政に参与する。