天文11(1542)年【徳川家康、戦国に誕生す】

時代

戦国

天皇

【代数】 第105代
【天皇名】 後奈良天皇

政体

幕府

【征夷大将軍】 足利義晴
【管領】 細川晴元
【政所執事】 伊勢貞孝
【関東管領】 上杉憲政

朝廷

【関白】 近衛稙家
(2月25日辞任)
鷹司忠冬
(3月26日から)
【左大臣】 鷹司忠冬
(3月2日まで)
一条房通
(3月3日から)
【右大臣】 藤原房通
(3月3日まで)
三条西公条
(3月3日から)
【内大臣】 三条公頼
【権大納言】 藤原公彦
藤原伊長
藤原秀房
(3月12日辞任)
藤原雅綱
(11月辞任)
藤原実通
藤原資定
(2月13日辞任)
藤原実世
藤原尹豊
藤原晴良
足利義晴
藤原兼秀
(3月10日から)
藤原兼冬
(3月10日から)
【権中納言】 藤原永家
藤原兼秀
(3月10日まで)
藤原公朝
久我晴通
藤原光康
藤原兼冬
(3月10日まで)
藤原晴光
藤原惟房
藤原晴嗣
(2月2日から)
源通為
(3月10日から)
【参議】 藤原言継
平時長
菅原長淳
源通為
(3月10日まで)
藤原季遠

天文11(1542)年の出来事

出来事
  • 天文11(1542)年
    正月6日
    浅井亮政、死去。
  • 正月11日
    大内義隆、尼子征伐を開始する。
  •  
    3月9日
    武田晴信、小笠原・村上連合軍を撃破(『瀬沢合戦』)。
  •  
    3月17日
    三好長慶、木沢長政を撃破(『太平寺合戦』)。
  •  
    4月8日
    幕府、撰銭令を発布。
  •  
    5月26日
    尚清、肥後との交易を開始。
  •  
    6月20日
    伊達晴宗、伊達稙宗を幽閉する(『伊達氏洞の乱』)。
  •  
    6月24日
    武田晴信、諏訪侵略を開始。
  •  
    7月20日
    武田晴信、諏訪頼重を自決させる。
  •  
    8月10日
    今川軍と織田軍が合戦(『小豆坂合戦』)。
  •  
    8月23日
    斎藤利政、土岐頼芸を美濃から追放する。
  •  
    9月25日
    武田晴信、諏訪全域を軍事制圧。
  •  
    10月22日
    武田晴信、村上義清を撃破。
  •  
    10月
    松永久秀、南山城へ出陣。
  •  
    12月13日
    細川氏綱、堺攻略。
  •  
    12月26日
    松平広忠に嫡男竹千代誕生(後の徳川家康)。

まとめ

天文11(1542)年が明けてすぐに、湖北の梟雄・浅井亮政が没する。

中国地方の雄である大内義隆が、尼子晴久への攻撃を開始する。

大内義隆
(『大内義隆像(部分)』龍福寺所蔵 Wikimedia Commons)

尼子家では、前年に当主の尼子経久が亡くなったばかりで、人心が乱れていた。義隆は、この隙を突く狙いであった。

しかし、この義隆の攻撃開始の決断は、大内軍にとって冗長な時間を費やすだけの泥沼の消耗戦となって行く。

畿内では、木沢長政が畠山稙長の高屋城を攻め、三好長慶と合戦(『太平寺合戦』)に至り、討たれる。

長政も長慶も共に、管領細川晴元の被官であったが、長政が抱いた野心の巻き添えとなる形で、長慶の父・三好元長は非業の最期を遂げたと言う因縁のある関係でもあった。

地方に目を移すと、前年に父の武田信虎を追放し、甲斐国主となった武田晴信が信濃国への侵略を開始した年でもある。

武田晴信
(『武田晴信像』高野山持明院所蔵 Wikimedia Commons)

3月に、信虎と同盟を結んでいた諏訪頼重が、信濃国守護である小笠原長時と組み、甲斐国へ攻め寄せたが、晴信はこれを撃退した(『瀬沢合戦』)。だが、この合戦の真偽は不明とされる。

6月、晴信は、諏訪への侵略を開始。上原城を陥落させ、桑原城へ迫り、頼重・諏訪頼高を自刃に追い込んだ。

さらに、諏訪地方を分割した高遠頼継が、晴信の処置に不満を持ち、諏訪の武田領に攻め込んだことを奇貨とし、逆に、高遠軍を敗走させ(『宮川橋合戦』)、諏訪地方全域を制圧し掌中に収めた。

東北では、伊達家に激震が走る。

伊達稙宗と、その嫡子・伊達晴宗との間で、稙宗の三男・伊達時宗丸(伊達実元)の上杉定実への入嗣問題や相馬家への領土割譲問題を巡り対立が生じたのである。

《伊達家系図》

中条氏
 │
 ┝━━━━実元
 │
伊達稙宗
 │
 ┝━━━┳晴宗
 │   ┣義宣
 │   ┗女子
 │     │
積翠院    │
(上杉氏)  │
       │
      相馬顕胤

このため、晴宗は、稙宗を幽閉する。

しかし、稙宗は、幽閉先から脱出し、東北諸家を巻き込み、晴宗打倒へと動く。ここに、東北は伊達家を中心とした動乱の時代を迎える。

所謂『伊達氏洞の乱』(『天文の乱』)の勃発である。

8月、今川義元は兵を三河国へ派遣する。

『八月上旬駿河衆三川之國正田原へ取出七段に人數を備候』

(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)

今川家と織田家は、三河の松平家が弱体化した隙に、それぞれ三河へと軍事進出していた。

若年の松平広忠を当主とする松平家家臣団は、今川家に保護を求め、織田家に侵略された安祥城の回復を企図する。これを受け、今川軍は三河へ展開したのであった。

今川軍と織田軍は、小豆坂で交戦状態となる(『小豆坂合戦』『第一次小豆坂合戦』)。

小豆坂合戦戦場跡
(小豆坂合戦 戦場跡)

戦況は数で勝る今川軍の優位に進んだが、織田信光等の活躍で激戦の末に織田軍の勝利に帰する。

『前後きびしき様体是也』

(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)

同月、斎藤利政(斎藤道三)が土岐頼芸を美濃から追放する。

斎藤道三
(『斎藤道三像(部分)』常在寺所蔵 Wikimedia Commons)

10月、三好長慶配下の松永久秀が南山城へ進軍している。

松永久秀
(『松永久秀像』高槻市立しろあと歴史館所蔵 Wikimedia Commons)

これは、木沢長政に組していた大和国の筒井家への牽制であったが、大和国では、三好長慶が攻め寄せて来ると大騒ぎとなった。

そして、12月、今川義元と織田信秀の狭間に置かれていた三河国の松平広忠に嫡子・竹千代が誕生する。後の徳川家康である。

『天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を聞かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞましましける』

(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

徳川家康
(『徳川家康像(部分)』大阪城天守閣所蔵 Wikimedia Commons)

海外では、琉球国国王である尚清が肥後の相良家に対して、琉球との貿易を許可している。

天文11(1542)年の覚え方とポイント

諏訪湖へ行こーよ2人(1542)でね