時代
鎌倉時代
天皇
【代数】 | 第84代 |
---|---|
【天皇名】 | 順徳天皇 |
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
太上天皇
【太上天皇名】 | 後鳥羽太上天皇 土御門太上天皇 |
---|
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
政体
幕府
【征夷大将軍】 | 北条政子聴政 |
---|---|
【執権】 | 北条義時 |
【政所執事】 | 大江広元 |
【侍所別当】 | 北条義時 |
【問注所執事】 | 三善康信 |
【京都守護】 | 伊賀光季 大江親広 |
朝廷
【関白】 | 近衛家実 |
---|---|
【太政大臣】 | 三条公房 |
【左大臣】 | 九条道家 |
【右大臣】 | 近衛家通 |
【内大臣】 | 久我通光 |
【大納言】 | 西園寺公経 大炊御門師経 |
【権大納言】 | 九条良平 源通具 藤原忠房 久我定通 四条隆衡 (正月25日辞任) 九条教家 坊門忠信 源雅親 (正月22日から) 九条基家 (正月22日から) |
【中納言】 | 源雅親 (正月22日まで) 姉小路公宣 滋野井実宣 |
【権中納言】 | 近衛基嗣 藤原頼平 九条基家 (正月22日まで) 西園寺実氏 三条実親 大炊御門家嗣 藤原顕俊 正親町三条公氏 (正月22日から) 中院通方 (正月22日から) 二条定高 (正月22日から) |
【参議】 | 藤原定家 正親町三条公氏 (正月22日まで) 中院通方 (正月22日まで) 藤原経通 藤原忠定 (正月25日まで) 藤原国通 二条定高 (正月22日まで) 水無瀬信成 藤原公頼 (正月22日から 12月18日辞任) 一条信能 (正月22日から) 藤原範茂 (正月22日から) 藤原親定 (12月18日から) 飛鳥井雅経 (12月18日から) |
【関東申次】 | 西園寺公経 |
承久2(1220)年の出来事
- 承久2(1220)年2月16日鎌倉で火災。
- 3月26日清水寺本堂焼失。
- 4月13日祇園社焼失。
- 4月14日禅暁、殺害される(4月11日とも)。
- 4月27日内裏の陽明門、焼失。
- 5月21日嘉陽門院礼子、出家。
- 7月30日鎌倉、暴風雨が直撃し被害多数。
- 10月18日大内裏殿舎回廊等の上棟式。
- 12月1日九条三寅、着袴の儀。
- 12月2日鎌倉で地震。永福寺僧房焼失。
まとめ
承久2(1220)年は、鎌倉が火災・台風・地震で被害を蒙り、京では火災が頻発した。
京では、3月に、清水寺の本堂や釈迦堂等が焼失した。
(清水寺)
『淸水寺本堂并塔釋迦堂等焼亡』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
翌月には、祇園社(八坂神社)も焼失している。
(祇園社)
『祇園社焼亡』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
これらの火災の騒ぎに拠る混乱が収まらない中、2代将軍源頼家の遺児である禅暁が、京で殺害される。
禅暁が殺害された場所は、東山付近とされるが、清水寺や祇園社での一連の火災が東山界隈で発生していることから、その関連性が考えられる。
この禅暁の死で、頼家を父とする男子は断絶した。
なお、禅暁が殺害された直後に、内裏の陽明門等も焼失している。
鎌倉の幕府と京の朝廷との間に漂う緊迫した空気が伝わって来る出来事である。
5月、後鳥羽上皇の皇女である嘉陽門院礼子が出家する。
嘉陽門院礼子は、元久元(1204)年から建暦2(1212)年まで、天皇の皇女として賀茂斎院を務めた皇女であった。
なお、賀茂斎院は、翌年に勃発する『承久の乱』の影響で中絶し、以後再興されることが無かったため、嘉陽門院礼子が最期の斎院となる。
一方の鎌倉も、年明けから火災が頻発し、7月には暴風雨が直撃し甚大な被害を出している。
『風雨尤甚、鎌倉中人家、或爲風顚倒、或依水流失、河溝邊卜居之輩多死亡、近來無比類』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
暴風雨の被害からの再建途上の鎌倉において、12月、九条三寅が着袴の儀を大倉御所で行う。
『若君着袴也』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
その儀には、北条泰時・足利義氏・三浦義村・小山朝政等が列席した。
京では、10月に内裏の殿舎等の上棟式が行われた。
この年の後半には、鎌倉も京も共に相次ぐ災厄を乗り越えて復興の兆しが見え始めていたのだが…。
承久2(1220)年の覚え方とポイント
火事と暴風雨で鎌倉の人に二重(1220年)の苦しみ