建保5(1217)年【源実朝の大船、海に浮かばず】

時代

鎌倉時代

天皇

【代数】 第84代
【天皇名】 順徳天皇

順徳天皇
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

太上天皇

【太上天皇名】 後鳥羽太上天皇
土御門太上天皇

後鳥羽天皇
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)

土御門天皇
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

政体

幕府

【征夷大将軍】 源実朝
【執権】 北条義時
【政所別当】 大江広元
【侍所別当】 北条義時
【問注所執事】 三善康信
【京都守護】 中原季時

朝廷

【関白】 近衛家実
【太政大臣】 空席
【左大臣】 九条良輔
【右大臣】 九条道家
【内大臣】 三条公房
【大納言】 中山兼宗
鷹司兼基
【権大納言】 久我通光
西園寺公経
大炊御門師経
九条良平
源通具
藤原忠房
【中納言】 土御門定通
四条隆衡
源雅親
【権中納言】 姉小路公宣
坊門忠信
滋野井実宣
九条教家
近衛家通
藤原範朝
源実朝
【参議】 藤原頼平
西園寺実氏
藤原定家
藤原顕俊
正親町三条公氏
藤原経通
藤原宗行
中院通方
【関東申次】 西園寺公経

建保5(1217)年の出来事

出来事
  • 建保5(1217)年
    正月10日
    水無瀬御所の修築完成。
  •  
    正月28日
    北条義時、右京権大夫。
  •  
    4月17日
    大船完成。
  •  
    6月20日
    北条政子、公暁を鶴岡八幡宮別当に補す。
  •  
    7月10日
    後鳥羽上皇、病床に臥す。
  •  
    7月15日
    暴風雨で北野社の松が全て折れる。
  •  
    7月17日
    後鳥羽上皇の回復を祈願し大赦が実施される。
  •  
    9月30日
    後鳥羽上皇、熊野参詣。
  •  
    11月8日
    後鳥羽上皇、西園寺公経に蟄居を命じる。
  •  
    同日
    大江広元、罹患する。
  •  
    11月10日
    広元、出家する。
  •  
    12月10日
    広元、目に重大な障害が残る。

まとめ

正月、前年の暴風雨で被災した水無瀬御所の修築が完成する。

4月、前年から源実朝が陳和卿の技術指導を得て建造していた大船が完成する。

唐船

そこで、大勢の御家人が出席し、実朝の臨席の下で進水式が行われた。

しかし、大船が由比ヶ浜の海面に浮かぶことは無かった。

『唐船非可出入之海浦之間、不能浮出』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

結局、大船は、そのまま遺棄され、野ざらしのまま朽ち果てて行った。

『彼船徒朽損砂頭』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

6月、2代将軍源頼家の遺児である公暁が京から帰って来る。

北条政子は、公暁を鶴岡八幡宮の別当とする。

鶴岡八幡宮
(鶴岡八幡宮)

7月、後鳥羽上皇が病床に臥す。

『上皇有御風氣』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

このため、幕府からも二階堂行村を見舞いに上洛させる。

道昌が病気平癒を祈願した結果、後鳥羽上皇の病状は、下旬になって回復する。

11月、西園寺公経は、藤原師経と右近衛大将の座を巡り争って敗れたことで不満を漏らし、実朝に訴え出ることも示唆したことから、遂に後鳥羽上皇の逆鱗に触れる。

『君ヲオドシマイラセテ、「實朝ニウタヱント申候」ナド云ナシテ、ヤガテ逆鱗有テ公經大納言ヲバコメラレニケリ』

(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)

かくて、公経は蟄居処分となった。

この時は、実朝が仲裁に入り、公経の処分は短期間が済まされた。

因みに、公経は、源頼朝の姪を妻としている。

《西園寺公経と源実朝関係図》

藤原忠通━九条兼実━良経━━━━道家
                 │
藤原公通━実宗━━━西園寺公経  │
           │     │
           ┝━━━━女子
           │
           └─────┐
                 │
源義朝━┳頼朝━━━実朝     │
    ┗女子          │
      │    ┌─────┘
      │    │
      ┝━━━女子
      │
藤原通重━一条能保

後に、公経の血統は、幕府にとって重要なものとなる。

同月、大江広元が病気となり出家する。

『出家、法名覺阿』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

同時に、広元は陸奥守を辞し、陸奥守は、北条義時が引き継ぐこととなる。

翌12月、広元の病状は回復するが、目に重い障害が残ってしまう。

『眼精暗兮、不能分黑白』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

それでも、広元は幕府にとって欠くことの出来ない存在であった。

建保5(1217)年の覚え方とポイント

大江広元の位置に代わる人無し(1217)