時代
鎌倉時代
天皇
【代数】 | 第84代 |
---|---|
【天皇名】 | 順徳天皇 |
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
太上天皇
【太上天皇名】 | 後鳥羽太上天皇 土御門太上天皇 |
---|
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
政体
幕府
【征夷大将軍】 | 源実朝 |
---|---|
【執権】 | 北条義時 |
【政所別当】 | 大江広元(中原広元) |
【侍所別当】 | 北条義時 |
【問注所執事】 | 三善康信 |
【京都守護】 | 中原季時 |
朝廷
【関白】 | 近衛家実 |
---|---|
【太政大臣】 | 空席 |
【左大臣】 | 九条良輔 |
【右大臣】 | 徳大寺公継 |
【内大臣】 | 九条道家 |
【大納言】 | 三条公房 中山兼宗 |
【権大納言】 | 鷹司兼基 久我通光 藤原公経(西園寺公経) 大炊御門師経 九条良平 源通具 |
【中納言】 | 土御門定通 藤原忠房 四条隆衡 |
【権中納言】 | 源雅親 姉小路公宣 坊門忠信 葉室光親 (正月13日辞職) 滋野井実宣 山科教成 (正月13日辞職) 源有雅 九条教家 (正月13日から) 藤原親兼 (正月13日から 12月1日辞任) 藤原公定 (12月1日から) |
【参議】 | 藤原頼平 藤原親兼 (正月13日まで) 藤原範朝 西園寺実氏 藤原顕俊 坊門隆清 (2月7日死去) 正親町三条公氏 藤原公定 (12月1日まで) 藤原経通 (正月13日から) 藤原定家 (2月11日から) 藤原宗行 (12月1日から) |
【関東申次】 | 坊門信清 |
建保2(1214)年の出来事
- 建保2(1214)年正月5日大江広元、正四位下。
- 2月4日栄西、源実朝に献茶。
- 4月14日延暦寺衆徒、園城寺を焼き討ち。
- 9月日後鳥羽上皇、熊野参詣。
- 10月6日鎌倉で地震。
- 11月13日和田氏残党、栄実を旗頭として京都で挙兵。
まとめ
源実朝の体調が優れない様子を聞いた栄西が鎌倉で実朝と対面し、良薬として茶を献上する。
『稱良藥、自本寺召進茶一盞、而相副一巻書令献上、所譽茶德之書也』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
栄西は茶と共に自著『喫茶養生記』を献上して、実朝を感心させた。
延暦寺と園城寺の抗争は、この年も続き、延暦寺の衆徒が園城寺を焼き討ちしている。
11月、前年に、北条義時の前に敗死した和田義盛の残党が、2代将軍源頼家の遺児である栄実を押し立てて京で挙兵。
『故金吾将軍家御息號禪師、爲大将軍、巧叛逆之由』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
『義盛ガ方ニ打チモラサレタル者ノアツマリテ、一心ニテ此禪師ヲ取リ打出ントシケル』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
この栄実は、栄西の弟子であり、その栄西が実朝と接点を作った年に、実朝への叛乱の旗頭に担ぎ出されたのは運命の皮肉と言える。
《栄実系図》 法橋昌寛━女子 │ ┝━━栄実 │ 源頼朝━━頼家━┳公暁 │ ┣禅暁 │ ┗竹御所 │ ┝━━一幡 │ 比企能員━若狭局
しかし、幕府方の在京御家人が、一条付近で和田一族の残党を襲撃し、栄実を自刃に追い込み鎮圧する。栄実を喪った和田氏残党は散り散りに逃亡した。
『十四ニナル禪師ノ、自害イカメシクシテナリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
『禪師忽自殺、件黨又逃亡』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
結局、和田一族の残党が引き起こした叛乱は、頼家の血筋を絶やしただけであった。
建保2(1214)年の覚え方とポイント
将軍の人に伊代(1214)ちゃん元気?と尋ねる栄西