承久元(1219)年【公暁、源実朝を暗殺す!】

時代

鎌倉時代

天皇

【代数】 第84代
【天皇名】 順徳天皇

順徳天皇
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

太上天皇

【太上天皇名】 後鳥羽太上天皇
土御門太上天皇

後鳥羽天皇
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)

土御門天皇
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)

政体

幕府

【征夷大将軍】 源実朝
(正月27日死去)
北条政子聴政
【執権】 北条義時
【政所別当】 大江広元
【侍所別当】 北条義時
【問注所執事】 三善康信
【京都守護】 伊賀光季
(2月14日から)
大江親広
(2月29日から)

朝廷

【関白】 近衛家実
【太政大臣】 三条公房
【左大臣】 九条道家
【右大臣】 源実朝
(正月27日死去)
近衛家通
(3月4日から)
【内大臣】 近衛家通
(3月4日まで)
久我通光
(3月4日から)
【大納言】 久我通光
(3月4日まで)
西園寺公経
大炊御門師経
(3月4日まで)
【権大納言】 大炊御門師経
(3月4日まで)
九条良平
源通具
藤原忠房
土御門定通
九条教家
坊門忠信
四条隆衡
(3月4日から)
【中納言】 四条隆衡
(3月4日まで)
源雅親
姉小路公宣
滋野井実宣
(3月4日から)
【権中納言】 滋野井実宣
(3月4日まで)
藤原頼平
藤原顕俊
藤原宗行
(3月4日辞任)
西園寺実氏
近衛基嗣
九条基家
大炊御門家嗣
(3月4日から)
【参議】 藤原定家
正親町三条公氏
藤原経通
中院通方
藤原忠定
藤原国通
二条定高
水無瀬信成
【関東申次】 西園寺公経

承久元(1219)年の出来事

出来事
  • 建保7(1219)年
    正月7日
    鎌倉、火災。大江広元邸焼失。
  •  
    正月27日
    源実朝、鶴岡八幡宮で暗殺される。
  •  
    正月28日
    将軍正室・御家人100余名が出家。
  •  
    2月14日
    伊賀光季、京都守護。
  •  
    2月22日
    阿野時元、武装蜂起失敗。
  •  
    2月29日
    大江親広、京都守護。
  •  
    閏2月1日
    院において皇族将軍の可否について議論。
  •  
    3月8日
    後鳥羽上皇、長江荘・倉橋荘の地頭の罷免を命じる。
  •  
    3月15日
    北条時房、兵1000を引率し上洛。
  •  
    4月2日
    京、火災。法成寺堂宇・公卿屋敷等焼失。
  • 承久元(1219)年
    4月12日
    「承久」と改元。
  •  
    6月3日
    後鳥羽上皇、将軍後継に九条三寅を決める。
  •  
    7月13日
    後鳥羽上皇、大内守護源頼茂を殺害を命じる。
  •  
    7月19日
    九条三寅、鎌倉入り。
  •  
    9月22日
    鎌倉、大火災。
  •  
    11月27日
    京、火災。延勝寺・成勝寺・最勝寺堂宇等焼失。
  •  
    12月17日
    北条政子、病床に臥す。
  •  
    12月24日
    政子居邸、焼失。

まとめ

正月、年明けの鎌倉は火災から始まる。

同月27日、鶴岡八幡宮において、源実朝の右大臣拝賀の儀が行われる。

鶴岡八幡宮
(鶴岡八幡宮)

しかし、2代将軍源頼家の子で鶴岡八幡宮の別当である公暁が、実朝を襲撃。

切りつけられ倒れた実朝は、その頸を公暁に切り落とされた。

『カシラヲ一ノカタナニハ切テ、タフレケレバ、頸ヲウトヲトシテ取リケリ』

(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)

『實朝八幡宮ノ石槗ヲ上リ給フヲ。太刀ヲ抜テ只一刀ニ首ヲ打落ス』

(『保暦間記』国立国会図書館デジタルコレクション)

実朝が公暁に襲撃される直前に、義時が体調不良を訴え、源仲章と交代し、自らは、その場から退去して難を逃れる等、不審な点があることから義時を黒幕とする説が昔からある。

『右京兆俄有心神御違例事、讓御劍於仲章朝臣退去給』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

また、三浦義村を実朝暗殺の黒幕とする説もある。

いずれにしても、この凶事に拠り、後鳥羽上皇との協調路線を取る実朝が排斥されたことで、後鳥羽上皇を中心とする京(公家)と、御家人集団の鎌倉(関東武士)とを結び付ける存在は失われた。

実朝暗殺の動揺が静まらぬ2月11日、かつて、2代将軍源頼家に粛清された阿野全成の子である時元が駿河国で武装蜂起する。

《阿野時元系図》

源義朝━┳頼朝
    ┃ │
    ┃ ┝━┳頼家
    ┃ │ ┗実朝
    ┃ │
    ┃ └─────┐
    ┃       │
    ┣範頼     │
    ┣全成     │
    ┃ │     │
    ┃ └───┐ │
    ┃     │ │
    ┗義経   │ │
          │ │
      ┌───┘ │
      │     │
      ┝━━時元 │
      │     │
北条時政┳阿波局    │
    ┣政子     │
    ┃ └─────┘
    ┃
    ┗義時

義時は、自らの家人(御内人)である金窪行親が率いる軍勢を派遣し、時元を自害に追い込んだ上で鎮圧している。

『右京兆被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河國、是爲誅阿野冠者也』

(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)

この直後、幕府は、伊賀光季に加えて、新たに大江親広(大江広元の子)を京都守護として、守護二人体制で京の監視に当たらせる。

その一方、将軍を喪った幕府は、後鳥羽上皇に対し、新将軍として、頼仁親王、もしくは、雅成親王の東下を要請する。

《頼仁親王と雅成親王系図》

               源実朝
                │
        坊門信清━━┳西八条禅院
              ┗西御方
                │
                ┝━━━━頼仁親王
                │
               後鳥羽天皇
                │
                ┝━━━┳順徳天皇
                │   ┗雅成親王
                │
藤原能兼┳範兼┳範子      │
    ┃  ┗兼子      │
    ┃           │
    ┗範季━重子      │
         │      │
         └──────┘

後鳥羽上皇の院司たちが評議した結果、二人の親王の内の一人を東下させることに同意しつつも、現状での東下を保留とした。

肝心の後鳥羽上皇は、親王の東下を認めなかった。

それどころか、実朝の死を悼む弔問使を派遣した上で、その弔問使を通し、幕府に対して、摂津国内の長江荘・倉橋荘の地頭の罷免を命じている。

この後鳥羽上皇からの要求を、義時は断固拒否し、北条時房に兵1000を以って京に押し込ませ、武力で威嚇しつつ拒絶回答するのである。

この結果、政子と藤原兼子との間で成立していた親王を将軍に迎える約定は破綻した。

しかし、緊張関係を放置したままでは公武共に立ち行くわけも無く、摂関家から後継将軍を迎えることで、京と鎌倉は折り合いを付け、左大臣九条道家の子の三寅に白羽の矢が立つ。

三寅は、源氏の血を薄いながらも引く存在でもあった。

《九条三寅系図》

藤原忠通━九条兼実━良経━━━━道家
                 │
                 ┝━三寅
                 │
藤原公通━実宗━━━西園寺公経  │
           │     │
           ┝━━━━女子
           │
           └─────┐
                 │
源義朝━┳頼朝━━━実朝     │
    ┗女子          │
      │    ┌─────┘
      │    │
      ┝━━━女子
      │
藤原通重━一条能保

7月、後鳥羽上皇は、大内守護の源頼茂(源頼政の孫)の殺害を命じる。

『是依院宣被追討右馬權頭源頼茂朝臣也』

(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)

頼茂は、大内裏の承明門を開いて、朝廷軍と戦い奮戦するも合戦の最中に起こった火災で焼死する。

太郎焼亡イメージ

なお、この合戦の結果、宜陽殿・校書殿等が焼失し、天皇家(皇室)が所有する御物の多くが失われた。

同月、三寅は鎌倉へ入る。ただ、三寅は、建保6(1218)年正月生まれの満1歳の幼児であることから、政子が後見として簾中において「聴政」と言う形を取った。

後世、中国の清朝で西太后が行った「垂簾政治」に似ているが、決定的に違うのは、政子の弟の義時が奉行として政治を統括したことである。

そして、これには反発も大きかったのか、9月には、鎌倉幕府開幕以来とも言われる大火災が発生し、鎌倉の多くが灰燼に帰し、年末には、政子の居館までもが焼失した。

鎌倉
(鎌倉)

この承久元年は、鎌倉や京において火災が頻発したが、その失火原因の多くが放火と見られる。

承久元(1219)年の覚え方とポイント

公暁の胃に一番の薬(1219)は実朝暗殺