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蘇我小姉君について
【名前】 | 蘇我小姉君 |
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【読み】 | そがのおあねのきみ |
【別表記】 | 小兄比売(『古事記』) |
【別読み】 | おえひめ(『古事記』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 飛鳥時代 |
【官職】 | アメクニオシハラキヒロニワ大王妃(欽明天皇妃) |
【父】 | 蘇我稲目 |
【母】 | 不明 |
【同母姉妹】 | 蘇我堅塩媛(別説あり) |
【兄弟姉妹】 | 蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我石寸名 |
【配偶者】 | 欽明天皇 |
【子】 | ウマラキ王子(茨城皇子)・カズラキ王子(葛城皇子)・ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)・ハシヒトノアナホベ王子(泥部穴穂部皇子)・ハツセベ王子(泊瀬部皇子・崇峻天皇) |
【家】 | 蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家) |
【氏】 | 蘇我氏 |
【姓】 | 臣 |
蘇我小姉君の生涯
蘇我小姉君の生い立ち
蘇我小姉君は、大臣であった蘇我稲目の娘として生まれる。
誕生した年や生母等については不明である。
兄弟姉妹に、蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我石寸名がいるが、同母であるか否かは判らない。
また、『日本書紀』に、
『堅鹽媛の同母弟を小姉君と曰す』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とあり、蘇我堅塩媛の同母妹であることが判る。
ただし、『古事記』には、
『岐多志比賣命の姨、小兄比賣』
(『古事記 祝詞 日本古典文學大系1』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
とあることから、小姉君が稲目の娘では無く、稲目の姉、もしくは、妹であった可能性も高いと考えられる。
蘇我小姉君、大王(天皇)の妻となる
欽明天皇2(541)年、蘇我小姉君は、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妃となる。
(アメクニオシハラキヒロニワ大王の磯城島金刺宮)
これは、蘇我稲目が、
『葛城集団の地位を継承して、その女二人を大王欽明のキサキ』
(『蘇我氏 古代豪族の興亡 中公新書2353』倉本一宏 中央公論新社)
としたものとされる。
ただし、婚姻時期と妃となったのは別であって、
『即位前から、娘の堅塩媛と小姉君とを欽明の妃とし』
(『蘇我氏の古代 岩波新書1576』吉村武彦 岩波書店)
ていたらしい。
アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)との間には、ウマラキ王子(茨城皇子)・カズラキ王子(葛城皇子)・ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)・ハシヒトノアナホベ王子(泥部穴穂部皇子)・ハツセベ王子(泊瀬部皇子)の4男1女が生まれている。
この王子(皇子)・王女(皇女)たちの誕生順については諸説あり明確ではない。王子(皇子)の名前も違っていたりする。
例えば、別説では、ウマラキ王子(茨城皇子)・ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)・ハシヒトノアナホベ王子(泥部穴穂部皇子)・カズラキ王子(葛城皇子)・ハツセベ王子(泊瀬部皇子)の順とする。
また、違う説では、カズラキ王子(葛城皇子)・スミノト王子(住迹皇子)・ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)・ハシヒトノアナホベ王子(泥部穴穂部皇子)・ハツセベ王子(泊瀬部皇子)の順としている。
その理由について、正史である『日本書紀』は、
『帝王本紀に、多に古き字ども有りて、撰集むる人、屢遷り易はることを経たり。後人習ひ讀むとき、意を以て刊り改む。傳へ寫すこと既に多にして、遂に舛雜を致す。前後次を失ひて、兄弟參差なり』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
としている。
しかし、アメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の他の妻に、このような系譜に関わる混乱は見られない。
蘇我小姉君の子供たち
蘇我小姉君を母とする王子(皇子)・王女(皇女)たちは波乱の生涯を送る。
ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)は、イケベ王子(池辺皇子)の妻となる。
イケベ王子(池辺皇子)が王位(皇位)に即くと大后(皇后)に立てられる。
このハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)が出産した王子(皇子)に、後世「聖徳太子」と呼ばれるトミミ王子(聡耳皇子)がいる。
しかし、イケベ大王(用明天皇)が没した後、ハシヒトノアナホベ王女(泥部穴穂部皇女・間人皇女)は、イケベ大王(用明天皇)の王子(皇子)であるタメ王子(田目皇子)と婚姻したとされる。つまり、大后(皇后)であったにも関わらず、血の繋がりの無い義理の関係とは言え、子供と婚姻していることになる。
小姉君が生んだ王子(皇子)たちの運命は、もっと過酷であった。
ウマラキ王子(茨城皇子)は、従姉妹で伊勢大神に仕えるイワクマ王女(磐隈皇女)を姦し失脚。
ハシヒトノアナホベ王子(泥部穴穂部皇子)は、オサダ大王(敏達天皇)が亡くなると、オサダ大王(敏達天皇)の大后(皇后)であるトヨミケカシキヤヒメ王女(豊御食炊屋姫皇女)を姦そうとして未遂に終わる。
さらに、物部守屋と連携して、反・蘇我氏本宗家の急先鋒となり、蘇我氏本宗家打倒のクーデターを計画するものの露見し逆に殺害される。
ハツセベ王子(泊瀬部皇子)は、蘇我馬子に支持され王位(皇位)に即くものの、馬子の権力を疎んじるが、逆に殺害されてしまい、日本史上で臣下に殺害された唯一の大王(天皇)となった。
以上のように、小姉君の子供たちは、揃って数奇な人生を辿っている。
小姉君がいつ亡くなったのかは伝わらず、果たして、小姉君が自分の子供たちの悲劇をその目にしたのか、否か、は判らない。
蘇我小姉君のまとめ
蘇我小姉君は、蘇我氏本宗家の中で、それほど注目されることは無いが、極めて謎の多い女性である。
まず、小姉君は「蘇我稲目の娘(『日本書紀』)」なのか?それとも「蘇我稲目の姉妹(『古事記』)」であるのか?
この問題は、実は飛鳥時代の王権の在り方に関係する重要事と言えよう。
即ち「稲目は娘2人をアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妻とした」と言うのと、「稲目は姉妹と自分の娘の2世代をアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の妻とした」と言うのとでは、かなり意味合いが変わって来るからだ。
このことは、王統(皇統)について、稲目が、どの時期から、オオド大王(継体天皇)の王統(皇統)からタシラカ王女(手白香皇女)の女系王統(皇統)に拠るアメクニオシハラキヒロニワ大王(欽明天皇)の王位(皇位)継承を考えていたかに直結する。
《継体天皇と欽明天皇》 尾張目子媛 │ ┝━━━┳安閑天皇 │ ┗宣化天皇 │ 彦主人王━継体天皇 │ ┝━━━━欽明天皇 │ 仁賢天皇━手白香皇女
同時に、稲目の次世代となる蘇我馬子にとって、小姉君が馬子の姉妹であるのか、それともオバ(伯母・叔母)であるのか、と言う問題は、小姉君を母とする王子(皇子)・王女(皇女)が「イトコ(従兄弟姉妹)」に当たるのか、「オイメイ(甥姪)」に当たるのか、に言い換えられる。
それは、馬子と年齢が同世代となる「イトコ(従兄弟姉妹)」よりも、一世代若い「オイメイ(甥姪)」の方が馬子には扱い易くなることを意味する。
蘇我氏本宗家にとって、大王家(皇室・天皇家)との関係がどのように展開したのかを解く鍵となるのが、小姉君の出自と言える。
だが、同時代の確かな史料が無い以上、小姉君の出自を明らかにすることは不可能と言わざるを得ない。
そして、もうひとつの最大の謎は、『日本書紀』が記す「小姉君」と言う名前そのものである。
小姉君は、その名前に「キミ(君)」の呼称が入っていることから実は重要な人物であったのではないかと推測される。
実は、古代の大王(天皇)の妻となった女性で「キミ(君)」の称号を持つ女性は、日本史上、この小姉君、唯一人しか存在いない。
小姉君に「キミ(君)」の呼称が与えられた理由としては、やはり、小姉君を母とする王子(皇子)たちが、馬子、即ち、蘇我氏本宗家に抵抗したと言う事績があることから、『日本書紀』編纂時に、その王子(皇子)の生母に対して「キミ(君)」の尊称を付与したとも考えられる。
とりわけ、馬子の殺害を企図したとされるハツセベ大王(崇峻天皇)の生母としての小姉君の存在は、「蘇我氏本宗家」を大王家(皇室・天皇家)の最大の敵として描く『日本書紀』にとっては、「キミ(君)」と呼ぶほどに重要であったのかも知れない。
(崇峻天皇の真陵とされる「赤坂天王山古墳」)
ただ、出産した子供たちの多くが悲惨な末路を辿っており、『日本書紀』で「キミ(君)」として華々しく崇められる蘇我小姉君ではあるが、その小姉君の人生は、果たして幸せなものであったと言えるのであろうか。
蘇我小姉君の系図
《蘇我小姉君系図》 蘇我稲目━┳馬子━━━━蝦夷 ┣堅塩媛 ┃ │ ┃ └─────────────────┐ ┃ │ ┗小姉君 │ │ │ 継体天皇 │ │ │ │ │ │ ┝━━━┳茨城皇子 │ │ │ ┣葛城皇子 │ │ │ ┣穴穂部皇女 │ │ │ ┣穴穂部皇子 │ │ │ ┗泊瀬部皇子(崇峻天皇) │ │ │ │ ┝━━━━欽明天皇 │ │ │ │ │ ┝━━━┳橘豊日大兄皇子(用明天皇)│ │ │ ┣磐隈皇女 │ │ │ ┣臘嘴鳥皇子 │ │ │ ┣豊御食炊屋姫尊(推古天皇)│ │ │ ┣椀子皇子 │ │ │ ┣大宅皇女 │ │ │ ┣石上部皇子 │ │ │ ┣山背皇子 │ │ │ ┣大伴皇女 │ │ │ ┣桜井皇子 │ │ │ ┣肩野皇女 │ │ │ ┣橘本稚皇子 │ │ │ ┗舎人皇女 │ │ │ │ │ └─────────────────┘ │ 手白香皇女
蘇我小姉君の墓所
不明。
蘇我小姉君の年表
- 宣化天皇4(539)年12月5日欽明天皇、即位。
- 欽明天皇2(541)年3月欽明天皇妃として名が記される。
- 欽明天皇31(570)年3月1日蘇我稲目、死去。
- 用明天皇元(586)年正月1日穴穂部皇女、用明天皇皇后として立后。
- 5月穴穂部皇子、豊御食炊屋姫を姦そうするが未遂に終わる。
- 用明天皇2(587)年5月穴穂部皇子、物部守屋とのクーデター計画発覚。
- 6月7日穴穂部皇子、蘇我馬子らにより殺害される。
- 8月2日泊瀬部皇子、即位(崇峻天皇)。
- 崇峻天皇5(592)年11月3日崇峻天皇、馬子により暗殺される。