住吉仲皇子、討伐される
イザホワケ王子(去来穂別皇子)が全てを知ってしまったという情報を得たスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は、
『事有らむことを畏りて、太子を殺せまつらむ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と、決心するや、先手を打って秘密裡に兵を率いてイザホワケ王子(去来穂別皇子)の難波宮を攻囲する。
スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の主力部隊として阿曇浜子が参加している。
この状況に難波宮では、平群木菟・物部大前・阿知使主が、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の討伐をイザホワケ王子(去来穂別皇子)に奏上したものの、イザホワケ王子(去来穂別皇子)は同母弟を討つことは忍びないとして宮を脱出した。
また、別説としてイザホワケ王子(去来穂別皇子)はヤケ酒を飲み泥酔していたために、物部大前が中心となってイザホワケ王子(去来穂別皇子)を馬に乗せて、密かに宮から脱出したという。
イザホワケ王子(去来穂別皇子)の不在を確認することもなく、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は難波宮を焼き討ちにする。
逃げ出したイザホワケ王子(去来穂別皇子)は河内国埴生坂から宮が全焼する様子を見て、そのまま大和国へ抜けようとする。
しかし、飛鳥山にはスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の軍勢が潜んでおり、急遽、竜田山に進路を変更し、周辺の人民を兵として徴発しつつ逃亡する。
そうして、イザホワケ王子(去来穂別皇子)は、やっとのことで石上神宮に避難する。
疑心暗鬼に陥ったイザホワケ王子(去来穂別皇子)は、心配して駆け付けたミズハワケ王子(瑞歯別皇子)を拒絶するほどに混乱している状況にあった。
ようやく落ち着いたイザホワケ王子(去来穂別皇子)は、平群木菟を軍監として添えて、ミズハワケ王子(瑞歯別皇子)に対し、難波に向かいスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)を殺害するように命じる。
難波に到着したミズハワケ王子(瑞歯別皇子)は、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の近習で以前より顔見知りであった刺領巾(『古事記』では曾婆訶理)を呼び寄せ、厚遇をもって報いることを約束しスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の殺害を依頼する。
刺領巾が自分を裏切ったことを知らないスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は、厠に立った一瞬の隙を、刺領巾に突かれ命を落としたのである。
『仲皇子の廁に入るを伺ひて刺し殺しつ』
(『日本書紀 上 日本古典文學大系67』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
だが、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)を殺害しイザホワケ王子(去来穂別皇子)側において勲功があるはずの刺領巾は、自分の主を平気で殺害する信用ならない者として、ミズハワケ王子(瑞歯別皇子)に殺害されてしまう。
こうして、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の叛乱は鎮圧されてしまったのである。
住吉仲皇子のまとめ
スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は、兄で大兄のイザホワケ王子(去来穂別皇子)の妃候補である黒媛に、手を出したことからその処罰を恐れ叛乱を起こしたとされている。
しかし、本当に美女を目の前にして沸き上がった性欲が引き起こした色恋沙汰のもつれであったのだろうか。
『履中記以後はまとまった雄略物語をふくむにせよ、大きくは河内王朝の内部抗争によって皇統が杜絶してゆく成り行きを物語る部分である』
(『河内王家の伝承 〈古事記下巻〉 古事記をよむ4』中西進 角川書店)
と言う『古事記』の性格を示すように、『古事記』では、イザホワケ王子(去来穂別皇子)が大王(天皇)に即いた後にスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の事件が勃発したと伝え、
『墨江中王、天皇を取らむと欲ひて』
(『古事記祝詞 日本古典文學大系1』 倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
と、この叛乱によってイザホワケ大王(履中天皇)を暗殺し自らが取って代わり王位(皇位)に即こうというスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の意図が明確に記されている。
『古事記』の記述を裏付けるように、この叛乱でスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が動員した兵力は、難波宮を攻囲し、なおかつ大和国方面へ抜ける街道の封鎖も行うなど、極めて大規模なものとなっている点が注目される。
このような大規模な兵の動員が短期間の内で簡単に出来ようか?
さらに、黒媛が葛城氏本宗家の女性であるということも、重要な要素であるように思われる。
葛城氏本宗家の存在があってこその大王家(皇室・天皇家)なのである。
当時の王族(皇族)にとって、その葛城氏本宗家と如何に結び付くことが出来るかが極めて大事だったと言える。
スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の名にある「仲(中)」は、後のナカノオオエ王子(中大兄皇子)のように王位(皇位)継承者として、当時の大王家(皇室・天皇家)内部では『日本書紀』の記述では窺い知れないほど有力な立場にあったことを示しているものであろう。
だが、系譜から明らかなように、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)には強力な後ろ盾がいなかったのである。このままでは王位(皇位)を望むべくもない状況であった。
だからこそ、黒媛を欲したのである。
このことからも黒媛は、「羽田八代宿禰の娘」では無く「葛城葦田宿禰の娘」であったことは間違い無いと思われる。
スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が黒媛を性行為を通して我が物とした理由こそは、実は当時の朝廷の実力者である葛城氏本宗家との結び付きを求めたものであったように思えるのである。
これが「羽田八代宿禰の娘」では、王位(皇位)に近い第一王子と第二王子との間で確執とは成り得ないことは明白と言える。
オオサザキ大王(仁徳天皇)が崩御し、王位(皇位)に空白が生じた瞬間、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の心の奥底にあった「孤独」は「焦燥感」へと変わり、遂に、王位(皇位)を求める叛乱となってしまったのではなかっただろうか。
その一方で見方を変えれば、葛城氏本宗家が大王家(皇室・天皇家)への介入を行った可能性も考えられる。
オオサザキ大王(仁徳天皇)は、葛城氏本宗家の力に依存しながらも常に他の勢力との繋がりを求めており、葛城氏本宗家としては、これを危険と受け取ったのではあるまいか。これが所謂「葛城磐之媛の嫉妬」の実態であろう。
このことから葛城氏本宗家は、大王家(皇室・天皇家)に傀儡を作ろうとしたのではないかとも考えられ得る。スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)から見て葛城氏本宗家は「外戚」である。
だが、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の叛乱がスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)側の敗北に終わったことで、葛城氏本宗家の目論見は崩れる。
実際、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)を倒した後、イザホワケ王子(去来穂別皇子)は、自身の王宮を河内国から大和国へと遷している。
これは、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)が討伐されたことで一時的に勢力が衰えた葛城氏本宗家の間隙を縫って、大王家(皇室・天皇家)が、その拠点を葛城氏本宗家の本拠地に近付けたとも解釈出来る。
その象徴的なシーンとして、『日本書紀』は、イザホワケ王子(去来穂別皇子)が河内国埴生坂から難波宮が灰燼に帰すのを目撃したと伝えている。
この埴生坂こそは、ホムタ大王(応神天皇)から始まる「王権」の奥津城であり、葛城氏本宗家との相剋の歴史の舞台とも呼べる土地なのである。
(河内国埴生坂)
この一連のスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の叛乱についての伝承は、
『漢の直によって伝承された話で、しからば当然履中を正当として話は進められたはず』
(『河内王家の伝承 〈古事記下巻〉 古事記をよむ4』中西進 角川書店)
とされる。
それは、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の叛乱の鎮圧後に、
『天皇、是に阿知直を始めて蔵官に任け、亦粮地を給ひき』
(『古事記祝詞 日本古典文學大系1』 倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
とあるように、漢氏(漢直)の始祖である阿知使主が躍進したことから判る。即ち、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の叛乱についての伝承が、漢氏(漢直)の
『始祖の功績譚として語られていたと思われる』
(『河内王家の伝承 〈古事記下巻〉 古事記をよむ4』中西進 角川書店)
のである。
この事件の背後には、葛城氏本宗家配下の渡来移民(渡来人)と大王家(皇室・天皇家)配下の渡来移民(渡来人)と言う渡来移民(渡来人)同士の争いもあったことが垣間見える。
漢氏(漢直)の伝承に拠る以上、勢いスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は悪く描かれているものと容易に想像される所以である。
そう見做すと、むしろイザホワケ大王(履中天皇)が黒媛を介してスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の暴発を誘因し一気に自らの王権の不安定要素となるスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)を葬り去ったとさえ考えられる。
果たして、スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)は反乱者だったのか?それとも大王(天皇)に拠って粛清された犠牲者だったのか?
その真相は、日本古代史の闇の中である。
ただ確実なことは、このスミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の事件が、大王家(皇室・天皇家)内で王族(皇族)の男子同士が血で血を洗う殺戮の時代へと突入して行く悲劇の幕開けとなったと言うことである。
同時に、倭(日本)の古代史を作って来た葛城氏本宗家も滅亡に追い込まれると言う悲劇が待ち受ける。
それらいくつもの悲劇は、ヤマト王権の王統(皇統)を断絶させ、新しい大王(天皇)であるオオド大王(継体天皇)の登場へと繋がることとなる。
住吉仲皇子の系図
《住吉仲皇子系図》
葛城葦田宿禰━━━━━━━━━黒媛
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日向泉長媛 │
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┝━━━━━━━━━━━━━━草香幡梭皇女 │
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応神天皇 │ │
│ │ │
┝━━━━━仁徳天皇 │ │
│ │ │ │
│ ┝━━━━━━┳去来穂別皇子(後の履中天皇) │
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│ │ ┃ └──────────────────┘
│ │ ┃
│ │ ┣住吉仲皇子
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│ │ ┃ ┌──────────────────┐
│ │ ┃ │ │
│ │ ┣瑞歯別皇子(後の反正天皇) │
│ │ ┃ │ │
│ │ ┃ └─────────────────┐│
│ │ ┃ ││
│ │ ┃ ┌────────────────┐││
│ │ ┃ │ │││
│ │ ┗雄朝津間稚子皇子(後の允恭天皇) │││
│ │ │ │││
│ │ │ │││
│ │ │ │││
仲姫命 │ │ │││
│ │ │││
葛城襲津彦━磐之媛 │ │││
┝━━━━━━━┳安康天皇 │││
│ ┗雄略天皇 │││
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稚野毛二派皇子━━━━━━━┳忍坂大中姫命 │││
┗藤原之琴節郎女 │││
│ │││
└────────────────┘││
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丸邇木事命━━━━━━━━━┳津野媛 │
┗弟媛 │
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住吉仲皇子の墓所
スミノエノナカツ王子(住吉仲皇子)の墓所は不明である。
住吉仲皇子の年表
年表
仁徳天皇31(343)年
仁徳天皇35(347)年
仁徳天皇87(399)年