目次
少納言について
【表記】 | 少納言 |
---|---|
【読み】 | しょうなごん |
【国風読み】 | すないものもうし |
【官位相当】 | 従五位下 |
【唐名】 | 給事中 |
【定員】 | 3名 |
少納言とは
律令体制下で太政官を構成する官職。
《太政官と八省の関係図》 大臣━大納言┳少納言局 ┃ ┣左弁官局┳中務省 ┃ ┣式部省 ┃ ┣治部省 ┃ ┗民部省 ┃ ┗右弁官局┳兵部省 ┣刑部省 ┣大蔵省 ┗宮内省
少納言を四等官制に当てはめて太政官の「判官(三等官)」と見做す説が有力である。
《少納言局》 大臣━大納言┳少納言局━┳大外記┳━史生 ┃ ┗少外記┛ ┣左弁官局 ┗右弁官局
少納言と言う職は、大臣と大納言とで行われる政策会議を支える事務局の長と考えられる。
その少納言の職務内容は、まず、小事を奏宣すること。
次いで、天皇御璽(内印)・太政官印(官印・外印)の使用に関して請求を受けて許可を与える業務を担い、太政官から出される公文書への太政官印の捺印を監視に当たることである。
そして、駅馬の使用に必要な駅鈴、及び、伝馬の使用に必要な伝符の管理業務を行い、緊急事態時に駅を発する場合において使用される飛駅の函鈴の管理業務も担当している。
少納言の具体的な職務例として、天平16(744)年2月、安積親王が薨去した際に少納言であった茨田王の動きを見てみる。
『二月乙未。遣少納言従五位上茨田王于恭仁宮。取驛鈴内外印』
(國史大系『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
難波宮に滞在していた聖武天皇の命を受けて、駅鈴と内外印(天皇御璽・太政官印)を確保するために恭仁宮へ急ぎ向かっている。
このように少納言は、他の納言職に比べると実務的な官人であった。
少納言の侍従兼任
少納言は従五位下相当であり中務省侍従と同格であった。
そして少納言は、その職務に小事を奏宣することが含まれており天皇に近侍する必要もあった。
これらのことから、少納言は、天皇に近侍する官職たる侍従を兼務するようになる。
なお、員外少納言(奈良時代)、権少納言(長岡京時代)が置かれたこともあった。
少納言の扱う「小事」とは
少納言が行った主な「小事の奏宣」は以下の二点である。
まず、式部省(式部卿)、及び、兵部省(兵部卿)からの請求を受けて、官人への衣服の下賜、官人への塩や酒の下賜、官人への木の実の下賜に関する便奏・口奏を行うことである。
もう一つは、五位以上の官人への医薬品の供給について便奏・口奏を行うことである。
一見すると些細なことのようであるが、これら「小事」に関しては、上記の式部省・兵部省に加え、縫殿寮(中務省被管)・大膳職(宮内省被管)・典薬寮(宮内省被管)等との折衝が必要とされるもので、少納言には役所間を跨ぐ高い調整能力が求められたのである。
少納言の給与
禄令に拠り食封が支給された。
正当な理由を以って解官された場合や老齢や病気等で致仕した場合には、食封を半減した上で支給された。
【位田】 | 8町 |
---|---|
【資人】 | 20人 |
が支給され、他にも、季禄等が支給された。
※ 時代により職封等は変化した
少納言局の役職
《役職》 少納言(従五位下)3名 大外記(正六位上)1名 少外記(正六位上)1名 史生 20名
※ 官位は相当
少納言の変遷
少納言の萌芽
オオアマ王子(大海人皇子)がオオトモ大王(弘文天皇)を死に追い込んで王位(皇位)に即いて天武天皇となる。
その天武天皇は、政治スタイルとして「天皇親政」を採り、天皇と皇子等の皇親勢力に拠る独裁体制を構築したのである。
その中で、納言2名が天皇に近侍することになる。
少納言と令制
天武天皇の後継者となった皇后・菟野皇女(天智天皇皇女)は、藤原不比等を抜擢の上で政治を運営する。
持統天皇称制3(689)年6月29日に、『飛鳥浄御原令』が施行される。
大宝元(701)年3月21日、文武天皇が『大宝令』を制定。
職員令で少納言の定員は3名とされた。
少納言の定員
少納言の正官の定員は職員令で3名と規定されている。
しかし、平安時代、平城天皇は少納言の正官を1名増員し正官4名体制としている。
この平城天皇の措置は少納言が担当する仕事量の多さに比べて正官の数が少ないことに対応したものである。
だが、その数年後に、嵯峨天皇に拠って、増員された正官1名は削減され、元の正官3名体制に戻されている。
員外少納言と権少納言
定員外の少納言と言う意味で、員外少納言と権少納言は同義である。
奈良時代は大きく政治体制が動いた後に設置された例が目立つ。
藤原仲麻呂体制から道鏡体制へと移行した神護景雲元(767)年には、石川清麻呂が員外少納言となっている。
また、天武天皇皇統が断絶し天智天皇皇統の光仁天皇が即位した後にも、宝亀元(770)年の賀茂浄名、宝亀2(771)年の高賀茂諸雄が員外少納言となっている。宝亀8(777)年には、池田真枚が起用されている。
そして、長岡京時代には、員外少納言からと権少納言へと呼び名が変わり、延暦4(784)年に、藤原乙叡が権少納言に任命されている。
この乙叡以降、権少納言に任命された者はいない。
主な員外少納言・権少納言
【名前】 | 就任日 | 官名 |
---|---|---|
石川清麻呂 | 神護景雲元(767)年12月9日 | 員外少納言 |
賀茂浄名 | 宝亀元(770)年8月28日 | 員外少納言 |
高賀茂諸雄 | 宝亀2(771)年7月23日 | 員外少納言 |
池田真枚 | 宝亀8(777)年正月25日 | 員外少納言 |
藤原乙叡 | 延暦4(784)年正月27日 | 権少納言 |
少納言と『薬子の変(平城太上天皇の乱)』
少納言の運命を分けたのは、平安時代初期に勃発した『薬子の変(平城太上天皇の乱)』である。
平城太上天皇は、病気を理由に退位したものの病気が癒えたことで平城古京へ遷御する。
さらに、平城太上天皇は、畿内の各地から平城新宮を造営する目的で2500人を動員するのである。
これは「古代の南北朝」とも言える事態であって、朝廷が二ヶ所、所謂「二所朝廷」の危機を含むものであった。
同時に、かつて『壬申の乱』でもアメミコトヒラカスワケ大王(天智天皇)陵造成のためにオオトモ大王(大友皇子)が人夫を動員した際、オオトモ大王(大友皇子)と敵対するオオアマ王子(大海人皇子)が人夫の軍事転用を危惧して先に軍事行動を起こした例がある。
この時も、全く同じように時局は動いた。
平城太上天皇を敵視する嵯峨天皇は、先手を打つことを考える。
しかし、平安宮の太政官内で事を進めるのは平城太上天皇側への機密漏洩の可能性があるとして、嵯峨天皇直属の令外官を置いて事に当たろうとする。これが「蔵人所」である。
蔵人所が設置されると、その長たる蔵人頭には巨勢野足と藤原冬嗣が就いている。
- 大同4(809)年4月1日平城天皇、神野皇太弟に譲位の意向を表明。
- 4月13日神野皇太弟、即位(嵯峨天皇)。
- 4月14日高岳親王(平城太上天皇皇子)、立太子。
- 12月4日平城太上天皇、平城古京へ遷御。
- 12月23日橘嘉智子、嵯峨天皇の夫人となる。
- 12月27日畿内各地から平城新宮造営のために2500人が動員される。
- 弘仁元(810)年3月10日嵯峨天皇、「蔵人所」を設置。
- 6月28日平城太上天皇、観察使を廃止し参議を復活させる。
- 9月6日平城太上天皇、平城古京への遷都を指示。
- 9月13日嵯峨天皇、高岳皇太子を廃し、大伴親王を立太弟とする。
この『薬子の変(平城太上天皇の乱)』が嵯峨天皇側の勝利に終わると、嵯峨天皇は少納言が保有していた職務権限を蔵人へと漸次移管していく。
これに従い、少納言の役割は相対的に衰微して行くようになる。
その後の少納言
『薬子の変(平城太上天皇の乱)』以降、少納言が担っていた「奏宣」等の重要な職務を蔵人に奪われために、少納言は、すっかり閑職の様相を呈する。
やがて、少納言局における実務は、大外記・少外記が担当することとなる。
休めない少納言
少納言は侍従も兼任したりしているのに安い給料で大変ですね。
そうです。しかも、少納言が休むと太政官の仕事が進みませんでした。
少納言の休日とかはどうなっていたんでしょうか?
「申政」の日に少納言が1日でも休めば、その1日の休みを5日分の休みに換算してペナルティが課せられました。
キビシイッ~!
それだけ律令制本来の意味に限れば少納言は必要とされていたことの裏返しでしょうね。
有名な少納言
「少納言入道」っていましたね。
藤原通憲のことですね。出家した後の名前である「藤原信西」の名前の方が有名ですね。
どうしてまた「少納言」に「入道」が付いたんでしょう?
藤原信西は、高階家に養子に入り少納言まで進みましたが、家格から、それ以上の出世は難しいと言うことで藤原家に戻り出家したのです。そこから「少納言」と「入道」を合わせて「少納言入道」なんて言う呼び方をされました。
少納言の年表
- 持統称制3(689)年6月29日「小(少)納言」が設置される。
- 大宝元(701)年3月21日『大宝律令』制定。
- 神護景雲2(768)年正月1日朝賀の儀に少納言の椅子が設置される。
- 大同3(806)年8月1日平城天皇、少納言の定員を1名増員。
- 弘仁元(810)年3月10日嵯峨天皇、「蔵人所」を設置。
- 弘仁4(813)年10月25日嵯峨天皇、少納言の定員を1名削減。
受験のための「少納言」の覚え方
「少納言は商事会社勤務で奥さんの名前は鈴木ハン子さん」で覚えよう。
商事会社…小事奏宣
鈴木…駅鈴
ハン子さん…天皇御璽(内印)・太政官印(外印)