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寒松院 (山之手殿)について
【名前】 | 寒松院 (山之手殿) |
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【読み】 | かんしょういん (やまのてどの) |
【法名】 | 寒松院殿宝月妙鑑大姉 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 慶長18(1613)年 |
【時代】 | 戦国~江戸時代 |
【父】 | 不明 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | 真田昌幸 |
【子】 | 村松殿(小山田茂誠の室)・真田信之(真田信幸)・真田信繁 |
寒松院 (山之手殿)の生涯
寒松院 (山之手殿)の生い立ち
寒松院(以下、山之手殿)の確かな誕生年は不明である。
山之手殿の出自は諸説あり、はっきりしない。有名な出自説としてあるのが「菊亭晴季の娘」とする説である。
《「菊亭晴季の娘」説の場合の系図》 武田信虎━晴信 │ ┝━━━義信 │ └───────┐ │ ┏公忠━実冬━公冬━実量━公敦━実香━公頼┳━━実綱 │ ┃ ┣━━女子 │ ┃ ┃ │ │ ┃ ┃ 細川晴元 │ ┃ ┃ │ ┃ ┣━━三条夫人 │ ┃ ┃ │ │ ┃ ┃ └───────┘ ┃ ┃ ┃ ┗━━女子 ┃ │ ┃ 本願寺顕如 ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ 閑院公実┳三条実行━実房━公房━実親━━━━━公親━実重━公茂━実忠━━━┛ ┣通季━━━公通━実宗━西園寺公経━━実氏━公相━━┓ ┣実能 ┃ ┗璋子 ┃ │ ┃ 鳥羽天皇 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗実兼┳━菊亭(今出川)兼季━━実尹━公直━実直━公行━実富━教季━┓ ┣━鏡子 ┃ ┃ │ ┃ ┃ 伏見天皇 ┃ ┃ ┃ ┣━禧子 ┃ ┃ │ ┃ ┃ 後醍醐天皇 ┃ ┃ ┃ ┗━瑛子 ┃ │ ┃ 亀山天皇 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗公興━季孝━公彦━━━晴季━┳季持 │ ┗山之手殿 │ │ │ └┐ │ │ └───┐│ ││ 武田信虎┳晴信 ││ ┗女子 ││ │ ││ └───┘│ │ 真田幸隆┳信綱 │ ┣昌輝 │ ┗昌幸 │ │ │ └────┘
系図を見る限りでは、山之手殿と真田昌幸との婚姻が、あまりにも不釣合いで唐突過ぎるように思われる。
また、山之手殿を公家出身とする他の説では、「正親町実彦の姪」説等がある。『小県郡御図帳』に記された「京之御前様」を寒松院に見立てて、京の公家出身の女性、おしくは、公家所縁の女性とする説もある。
しかし、『小県郡御図帳』の書かれた年代は一切不明であり、さらに、それだけの婚姻関係があるのであれば、昌幸なら京の公家たちとの間にパイプを築きそうなものであるが、その痕跡すら一切無い。それらの点から見て、公家出身説には疑問がつきまとう。
また、武田晴信が昌幸のことをお気に入りだったために、わざわざ正親町家の女性を自身の養女にした上で、昌幸と婚姻させた、とする説もあるが、小姓に過ぎない昌幸に、そのようなエコヒイキをすれば、たちまち武田家中の結束が乱れるのではなかろうか。
次に有名な説としてあるのが「宇多(宇田)頼忠の娘」説である。
《「宇多頼忠の娘」説の場合の系図》 真田幸隆┳信綱 ┣昌輝 ┗昌幸 │ ┝━━┳村松殿 │ ┣信幸(信之) │ ┗信繁(幸村) │ │ │ └──────┐ │ │ 宇多頼忠┳山之手殿 │ ┗女子 │ │ │ 石田正継━三成 │ │ 大谷吉継━女子 │ │ │ └──────┘ 《真田氏と宇多氏との婚姻関係》 真田幸隆┳信綱 ┣昌輝 ┗昌幸━━━女子 │ 宇多頼忠┳頼次 │ ┃ │ │ ┃ └────┘ ┃ ┗女子 │ 石田正継━三成
この「宇多(宇田)頼忠の娘」説に関しては、昌幸の娘と宇多頼次との婚姻関係との混乱から生じたもの、と疑問視する説がある。
続いて、武田氏家臣間の婚姻とする「遠山右馬助(右馬亮)の娘」説がある。
《「遠山右馬助(右馬亮)の娘」説の場合の系図》 真田幸隆━┳信綱 ┣昌輝 ┣昌幸 ┃ │ ┃ └───┐ ┃ │ ┗女子 │ │ │ ┌───┘ │ │ │ 遠山右馬助━山之手殿 │ │ │ └───┘
遠山右馬助は、武田軍団の中では、騎馬10騎、足軽30人を抱える足軽大将であった。
当時、武田晴信の小姓であった昌幸には、最も有り得そうな婚姻である。ただ、昌幸の妹が遠山右馬助の室となったとする説もあり、その婚姻関係は詳らかで無い。なお、遠山右馬助は、武田氏滅亡後に徳川氏に出仕したとされる。
これらの説は、いずれも確定的で無く、研究者の中でもそれぞれに説があり、山之手殿の出自は、現段階では、不明と言わざるを得ない。また、象徴的なことは、どの出自説にしても、山之手殿の一族が、昌幸の人生と深く関わった形跡が見られないことである。
寒松院 (山之手殿)と真田昌幸との婚姻
山之手殿は、永禄7(1564)年頃、真田源五郎(真田昌幸)と婚姻。この当時の昌幸は、武田晴信の小姓であった。このため、甲府で暮らす。
山之手殿は、最初に長女(村松殿。宝寿院)を出産。次いで、永禄9(1566)年に、長男の信幸を出産。さらに、永禄10(1567)年に、次男の信繁を出産している。なお、信繁の誕生年については、元亀元(1570)年説等の別説もある。
なお、山之手殿の傍には、矢沢頼綱の母が寄り添い、山之手殿の信幸や信繁等の出産や育児にも関わったとされる。
《真田氏と矢沢氏との関係》 海野棟綱┳真田幸隆┳信綱 ┃ ┣昌輝 ┃ ┗昌幸┳信幸 ┃ ┗信繁 ┃ ┗矢沢頼綱━頼幸(頼貞) ※ 系図には諸説あり
また、源五郎は、この年、武藤氏の名跡を継いで「武藤喜兵衛」として自立している(武藤氏の名跡を継いだ時期については諸説ある)。
天正3(1573)年5月に、武田軍と織田・徳川連合軍との間で行われた『長篠合戦』において、喜兵衛の二人の兄(真田信綱、真田昌輝)が戦死したことで、喜兵衛が真田氏の家督を相続する。喜兵衛は、「真田昌幸」と名乗るようになる。
こうして、昌幸は、家督を継いだことで、真田郷に拠点を置き、やがて、上野国への侵略に深く関わって行く。しかし、山之手殿と子供たちは人質として従来通り甲府で暮らすこととなる。その後、武田勝頼が新府城を築くと新府城に移っている。
寒松院 (山之手殿)と真田家の苦悩
天正10(1582)年2月、織田軍が武田領内への侵略を開始。
山之手殿は、信幸、信繁等の子供たち、さらに、家来衆等300人と共に新府城に居たが、迫る織田軍を前にして、3月3日、武田勝頼の命令で、新府城から真田領内に向けて脱出する。
この時の脱出先は、真田郷、岩櫃城、沼田城等、様々に伝えられ、脱出の様子も種々あり、どれが正しいか不明であるが、いずれにしても、山之手殿も死を覚悟するほどの脱出行であったことだけは間違いなかったようである。
『寒松院殿御事蹟』等には、脱出行が困難続きだった様子等が伝えられている。脱出行の最中、山之手殿は、頼綱の母とそれぞれに「五行をば その品々に 返すなり 心問はれる 山の端の月」「死出の山 月のいるさを しるべにて 心の闇を 照らしてぞ行け」と、辞世の句を交わしているほどである。
天正13(1585)年、昌幸は、徳川家康と一戦を構える。『神川合戦』、所謂『第一次上田合戦』の勃発である。この合戦を行うに当たり、昌幸は、上杉景勝に降っており、その際、人質として信繁を上杉方の海津城に預けている。
ところが、天正14(1586)年に、山之手殿が人質として海津城に在城していることが判明している。このことから、信繁が真田軍の将として『神川合戦(第一次上田合戦)』に参戦し、その信繁の代わりとして、山之手殿が上杉氏への人質として送られた、とする説がある。
その後、昌幸が豊臣秀吉の下に入ると、秀吉の命令に従い、天正17(1589)年頃に、山之手殿は、秀吉の本拠地である上方に人質として住まうようになる。
上方での人質生活は、信幸と信繁の叙任や、信繁が大谷吉継の娘(竹林院)を正室に迎える等、華やかな生活を過ごしたこともあったようである。
やがて、豊臣体制の護持を図る石田三成と、豊臣体制からの政権簒奪を目論む徳川家康との対立が激化し軍事衝突に発展して行く。
その流れの中で、山之手殿は、慶長5(1600)年7月30日、大坂城下で、石田三成方の人質となる。この時は、大谷吉継の保護下に置かれる。これ以前に、信幸は、自身の正室の小松殿を沼田城に戻している。
また、昌幸と信繁は、三成に付くか?徳川に付くか?で、信幸と分裂したが、山之手殿が、この事実をいつ知ったのかは定かでは無い。
9月15日に行われた『関ヶ原合戦』の直前に、山之手殿は、竹林院と共に、昌幸の重臣である河原綱家に依って、大坂城から救い出され、徳川軍の捕縛の手から免れた、と言われる。
なお、綱家は河原隆正の子であって昌幸の従兄弟に当たる人物で、昌幸と信繁が、信幸と袂を判った「犬伏の別れ」にも立ち会ったとされている。
寒松院 (山之手殿)、夫・昌幸との生き別れ
石田三成方に付いた真田昌幸と真田信繁は、徳川秀忠部隊を大いに翻弄した。
しかし、関ヶ原において三成方は敗北。戦後処理の結果、12月13日、昌幸と信繁は紀伊国九度山へ配流となる。一方、家康に付いた信幸には、8万8000石を加増され、信濃国上田領と上野国沼田領で計11万5000石が加増される。
夫と二人の息子の明暗に、山之手殿が何を思ったか。記録は何も残されてない。
昌幸が九度山に流されても、山之手殿は昌幸に同行することは無く信濃国上田に残っている。この上田残留が、山之手殿の考えだったのか?昌幸に指示に拠るものだったのか?それは不明である。
ただ、昌幸は、九度山への配流は禁固刑のような軽い処分で済まされるものと受け取っていた節もあり、すぐに家康から赦免されて上田に帰れると予想していたために、山之手殿には上田への残留を指示した可能性もある。
しかし、これが二人の最期の別離となった。
慶長16(1611)年6月4日、昌幸が配流先の九度山で失意の内に死去。その昌幸の三回忌の年に当たる慶長18(1613)年6月3日、山之手殿は、その生涯を終える。
寒松院 (山之手殿)とは
寒松院(山之手殿)については未詳の部分が多い。
ただ、ひとつ言える確かなことは、真田昌幸の妻として「真田家」を守って、時代の荒波を生き抜いた、と言うことである。
そして、真田信之(信幸)の母として「真田氏」の家名を現在にまで引き継がせ、真田信繁の母として「真田氏」の武勇を現在にまで語り継がせたのである。
出自に様々な伝承が伝わる寒松院であるが、その最期に、もうひとつの伝承が残されている。
その伝承とは、「寒松院の死は、夫の真田昌幸の三回忌を無事に終えてから自害した」と言うものである。寒松院が最期に遺した伝承は「武士の妻」の鑑としての立派な最期であった。
同時に、人は出自に拠って左右されるもので無く、どう生きたかに拠ってのみ、その人生を後世に評価されるべきものであることを示しているかのようである。
寒松院の死の翌年、真田信繁は、豊臣秀頼からの誘いに応じ、徳川家康に立ち向かうことを決意する。
寒松院 (山之手殿)の系図
《関係略図》 大谷吉継━━━━━━━竹林院 │ ┝━━━┳大助 │ ┣大八 │ ┣梅 │ ┣あぐり │ ┣かね │ ┣菖蒲 │ ┗女子 │ └─────────┐ │ 堀田興重━━━━━━━女子 │ │ │ ┝━━━━菊 │ │ │ └────────┐│ ││ 本多忠勝━━━━━━小松殿 ││ │ ││ ┝━━━┳信政 ││ │ ┗信重 ││ │ ││ └────────┼┼┐ │││ 真田昌幸 │││ │ │││ ┝━━━━━━━━┳村松殿 │││ │ ┣信幸━━━信吉 │││ │ ┃ │ │││ │ ┃ └───────┼┼┘ │ ┃ ││ │ ┃┌────────┘│ │ ┃│┌────────┘ │ ┃││ │ ┗信繁━━━之親 │ ││ │ │└────────┐ │ │ │ 寒松院(山之手殿) │ │ │ │ ┝━━━━市 │ │ │ 高梨内記━━━━━━━女子 │ │ ┌─────────┘ │ ┝━━━┳御田姫 │ ┗幸信 │ 羽柴秀次(豊臣秀次)━女子 ※ 系図は諸説あり
寒松院 (山之手殿)の年表
<永禄9(1566)年>
長男の信幸を出産。
<永禄10(1567)年>
次男の信繁を出産。
<天正3(1573)年>
5月21日、『長篠合戦』。
<天正10(1582)年>
3月11日、武田勝頼、自刃。
<天正13(1585)年>
『神川合戦(第一次上田合戦)』。
<慶長5(1600)年>
9月15日、『関ヶ原合戦』。
12月13日、昌幸と信繁、紀伊国九度山へ配流。
<慶長16(1611)年>
6月4日、昌幸、死去。
<慶長18(1613)年>
6月3日、死去。