渡辺糺について
【名前】 | 渡辺糺 |
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【読み】 | わたなべただす |
【通称】 | 内蔵介、内蔵助、権兵衛 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 元和元(1615)年 |
【時代】 | 安土桃山~江戸時代 |
【出仕先】 | 豊臣家家臣 |
【父】 | 渡辺民部少輔 |
【母】 | 正栄尼 |
【氏】 | 渡辺氏 |
渡辺糺の生涯
渡辺糺の生い立ち
渡辺糺の『大坂冬の陣』以前の経歴は、はっきりしない。
確かとされるのは、生母が、淀殿側近の正栄尼であると言うことである。
この正栄尼については、淀殿の子の豊臣秀頼の乳母とする説もあり、いずれにしても、母の「縁」に拠って、秀頼の家臣となったものと見られる。
渡辺糺と『大坂冬の陣』
慶長19(1614)年10月1日、『大坂冬の陣』が勃発する、
糺は、大野治長、薄田兼相等と軍議に参加している。徳川方の記録では、治長等と共に、豊臣氏内部の主戦派のひとりとして糺の名を挙げている。
10月11日、諸将の布陣地の決め方について、諸将の間に不満が高まっていることを考慮して、クジに拠る抽選を実施しようとした秀頼は策を立てる。
ところが、治長が勝手に自分の布陣地を決めたことに糺は怒り、治長と大口論を演じている。お互いに、その場で殺害しかねないほどの勢いであったものの、居合わせた諸将に取り押さえられた。
この様子を見ていた後藤基次が、「惜しいことだ。二人の悪党が互いに殺しあえば良いものを」と、口惜しがったと伝えられる。この基次の発言が事実であるか、どうかは不明であるが、いずれにしても、生母の権勢を背景にして成り上がった糺や治長は 豊臣軍中にあっても、諸将からは冷ややかに見られていたことが窺える。
11月2日、糺の配下の兵が、「母の養老料100両」を条件として、徳川家康の暗殺を請け負ったものの失敗に終わる。
26日、鴫野口方面の徳川軍は、上杉景勝部隊の受け持ちであったが、軍監の安藤正次、屋代秀正、伊東政世の各部隊が、上杉部隊を差し置き前進。こうして、安藤部隊が、この方面の戦端を開く。
豊臣軍は、木村重成部隊が安藤部隊へ対し迎撃に出る。さらに、後藤基次部隊が木村部隊の援軍に駆け付け、今福方面へ転進する。
代わって、鴫野の防衛に当たったのが、糺率いる渡辺部隊、木村宗明部隊、それに、秀頼親衛隊の七将率いる部隊等で、各部隊は、上杉部隊と激突。
渡辺部隊は、上杉部隊の須田長義隊を敗走させ、上杉部隊に奪われた柵を回復する。そのまま、糺は、勝ちに乗じて、上杉部隊の安田能元隊も撃破している。
苦境に陥った上杉部隊では、杉原親憲隊の鉄砲隊が、糺等の豊臣軍各部隊に対して乱射し銃弾を浴びせ掛ける。ここに、豊臣軍各部隊は数百人規模の犠牲を出したことで、その勢いが止まり、転進を余儀無くされた。
徳川軍では、鴫野方面に展開していた上杉部隊を後方へ下げて堀尾忠晴部隊を前方へ出す。糺は、堀尾部隊に射撃を加え、その前衛に攻め掛かるも、兵の損耗が激しく、遂に撤退する。
この時、糺は、最後まで戦線に踏み止まった、と言われる。その後、『大坂冬の陣』は、和睦停戦に至る。
渡辺糺と『大坂夏の陣』
豊臣軍と徳川軍との間に停戦が成立し和睦が成ったかに見えたが、徳川方が和睦条件を無視した堀の埋め立て等の横暴行為に出たために再戦となる。
『大坂夏の陣』である。
元和元(1615)年5月6日、糺は、「道明寺合戦」に出陣。
この合戦において、糺は、真田信繁、毛利勝永、大谷吉勝等と共に、後方隊に配される。正午頃、藤井寺に到着するが、既に、前方隊が徳川軍の前に崩壊した後であった。
糺は、真田部隊と共に、応神天皇陵方面へ展開。豊臣軍の伊達政宗部隊と対決する。
(大坂夏の陣「道明寺合戦」)
百戦錬磨を誇る精強を誇る伊達部隊との戦いでは、多大な犠牲を出したものの、一歩も退かず、信繁と共に、伊達部隊の前に立ちはだかった。
ところが、間もなく、八尾、若江方面の豊臣軍が壊滅したとの一報が届き、信繁率いる真田部隊は無念の撤退を行なう。
しかし、糺は、配下の兵二人と戦場に踏み止まり、伊達部隊に対して立ち向かった。
このような糺に、伊達部隊では鉄砲を持って応じた。糺は、その銃弾に向こう脛を撃ち貫かれる等の重傷を負い、やむなく撤退したものの、なおも、不自由な体で、茶臼山方面に布陣している。
真田部隊、大谷部隊と共に、徳川軍と最期の決戦に挑み、その壮絶な戦いぶりに、徳川家康も死を覚悟したほどであったが、武運僅かに及ばず敗北し、遂に大坂城に入る。
渡辺糺の最期
もはや歩くことさえままならない体となった糺は、大坂城に戻ると、母の正栄尼に対して、豊臣軍が最期の決戦において敗北した事実を告げ、自害を勧める。
この糺の言葉に、正栄尼は静かに頷き、糺が重傷を負っていることから、自刃し損ねることの無いように、見届けた上で、自らも自刃することを同意する。
そして、本丸千畳敷において、糺は、秀頼と淀殿の前に進み出て、これまでに受けた数々の恩義に対する感謝の言葉を奏上し、自分の次男と三男に止めを刺した上で、自刃して果てた。
介錯は、山本鉄斎が行なったと伝えられるが、この時、「糺の介錯用に」と、秀頼から鉄斎に対して、特別に切刃貞宗の脇差が与えられた、と言う。
糺の見事な最期を見守った正栄尼も自刃して、糺の後を追った。
渡辺糺とは
渡辺糺は、大野治長、木村重成等と共に、豊臣秀頼の側近衆を構成したひとりである。
けれども、他の側近衆に比べ、あまり知られていない。
とりわけ重成と比べると、知名度、人気度は雲泥の差がある。その原因のひとつには、戦場で討ち死にせずに、深手を負いながらも、大坂城に戻ったことにあるのかも知れない。
だが、糺が、「道明寺合戦」で重傷を負いながらも、そのまま戦場の露とならずに、必死の思いで大坂城へ戻ったのは、秀頼に対して、御礼と別離の挨拶を告げたかったからではないだろうか。
糺の最期も、重成等に劣らない「豊臣氏忠臣」の姿であろう。
また、一説には、「道明寺合戦」後、大坂城に戻り、秀頼に面会して、「豊臣家復興再起のために」と暇乞いして、近江国へ逃げ落ちたものの、秀頼が自刃したことを知り、立ち姿のままで切腹して果てた、とも言う。
忠義に殉じた壮絶な死に様である。
「男尊女卑」を掲げた徳川幕府治政下にあっては、「母方の縁故に頼って、豊臣氏重臣になった」として大野治長と共に、この渡辺糺は、殊更貶められて語られたが、その実像は、「豊臣氏家臣」として、忠義心に溢れた武将であった。
なお、糺が自刃した時、糺の嫡男は、嫡男の乳母が、その場から連れ出し、城下にある町屋の便所に隠れていたが、徳川軍に捕縛され、乳母共々酷い拷問を加えられたりした後に解放され、南禅寺の僧となったとも、さらに還俗して徳川氏に仕えたとも伝えられる。
渡辺糺の系図
《関係略図》 渡辺民部少輔 │ ├──────────糺 │ 正栄尼
渡辺糺の年表
<慶長19(1614)年>
9月22日、評定に参加。
10月1日、『大坂冬の陣』。軍議に参加。
10月11日、大野治長と口論。
11月2日、配下の兵、徳川家康暗殺に失敗。
11月26日、「鴫野合戦」。
<元和元(1615)年>
5月6日、「道明寺合戦」。
5月7日、「天王寺口合戦」。
5月8日、自刃。