築山殿【「悪女」とされた徳川家康正室・築山殿の真実とは】

築山殿について

【名前】 築山殿
【読み】 つきやまどの
【別名】 築山御前・駿河御前(『柳営婦女伝系』)・瀬名姫
【通称】 御台所(『改正三河後風土記』)・北方(『改正三河後風土記』)
【法名】 西光院殿政岸秀真大姉・清池院殿潭月秋天大禅定法尼
【生年】 不明
【没年】 天正7(1579)年
【時代】 戦国~安土桃山
【職能】 徳川家康正室
【父】 関口義広(『武徳大成記』『源流総貫』)説・関口氏広(『瀬名家譜』)説・関口親永(『徳川実紀』『改正三河後風土記』『源流総貫』)説・関口氏縁(『玉輿記』)説 各説あり
【母】 今川義元の娘説・今川義元の養妹説・今川義元の伯母説 各説あり
【兄弟姉妹】 妹(『玉輿記』)
【義兄弟姉妹】 今川氏真
【配偶者】 徳川家康
【子】 徳川信康・亀姫
【家】 関口家(今川家傍流)
【氏】 清和源氏
【姓】 朝臣

築山殿の肖像

築山殿
(『築山殿像(部分)』西来院所蔵 Wikimedia Commons)

築山殿の生涯

築山殿の生い立ち

築山殿は、関口義広の娘とされる。

築山殿の出自については、『武徳大成記』に「關口刑部少輔義廣女」とされている。

徳川幕府の公式記録『徳川実紀』では、

『親永が女』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、築山殿を関口親永の娘としている。

また、『改正三河後風土記』でも、

『親永の息女を以て神君の北方にぞ定らる則ち義元の姪にて後に築山殿と申せし』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う内容で、築山殿を親永の娘としている。

『源流総貫』では、築山殿の出自は「關口親永或作義廣女」とされており、親永と義広の名が併記されている。

築山殿の出自に関しては、別の説に、

『關口刑部大輔氏縁の女也』

(『玉輿記』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、築山殿の父として関口氏縁の名も挙げられている。

《関口氏縁系図》

今川国氏┳基氏━範国━範氏━範泰━範政━範忠━義忠━氏親━義元
    ┗経国━顕氏━兼氏━満幸━満興━教兼━政興━氏縁
     (関口氏)

さらに、『瀬名家譜』では、築山殿の出自を「關口刑部少輔源氏廣女」としている。

いずれも関口氏であることは間違い無いようであるが、名はバラバラである。

《関口氏・瀬名氏と今川氏本宗家の関係》

    ┏範政━範忠━義忠━氏親┳氏輝
    ┃           ┗義元
    ┃
    ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                           ┃
今川国氏┳基氏━━━━━範国┳範氏━━━━━範泰━━━┛
    ┃         ┗貞世(了俊)━貞臣(瀬名氏)
    ┗経国(関口氏)

以上のように、築山殿の出自や系譜に関しては、江戸時代の時点で、既に相当混乱しており明確では無い。

このようないきさつから、築山殿の実名も不明である。

『武徳大成記』に拠れば、築山殿の父とされる関口義広(あるいは関口親永)は、持船城(『武徳大成記』には「遠州持舟城」とあり所在地は遠江国とされている)2万4000石の城主で、今川氏本宗家の傍流であったとされる。

持船城
(持船城跡)

そして、義広が駿河国庵原郡瀬名郷を領していたことから、その娘は「瀬名姫」と称されたと言う。

駿河国庵原郡瀬名郷
(駿河国庵原郡瀬名郷)

築山殿の生母については、諸説あるが、いずれの説も築山殿の生母を清和源氏の今川家出身の女性としており、それも今川義元所縁の女性である可能性は高いようである。

《築山殿の母である可能性が高い今川家の女性たち》

今川義忠┳氏親┳氏輝
    ┃  ┣彦五郎
    ┃  ┣玄広恵探
    ┃  ┣象耳泉奬
    ┃  ┣義元━━┳氏真
    ┃  ┃    ┗女子(母?)
    ┃  ┣氏豊
    ┃  ┗女子(母?)
    ┃
    ┗女子(母?)

築山殿の誕生した年も不明である。

そして、築山殿は、一般には、今川義元の養女に迎えられたとされている。

『駿州太守今川治郎大輔源義元卿の御養女』

(『柳營婦女傳系』国立国会図書館デジタルコレクション)

しかし、『御外戚伝』には、「養女未審」と記されており、築山殿が義元の養女では無かった可能性もある。

また、そもそも築山殿が義元の養女であったとしても、それは、松平元信(徳川家康)の妻とする目的のためだけに養女としたものであるのか、それとも何か別の事情で元々養女となっていたのかは不明である。

従って、築山殿が義元の養女となった確かな時期は判らない。

ただ、近年、義元が弘治3(1557)年頃から永禄元(1558)年までに、嫡男の今川氏真に対して家督を譲っていると言う見方が有力である。

このことから、氏真の家督相続が成立し、その立場が不動のものとなってから、義元が大御所として養女を迎えた可能性も考えられる。

築山殿と松平元信(徳川家康)

築山殿は、弘治3(1557)年正月、松平元信(後の徳川家康)と婚姻する(『徳川実紀』では弘治2年)。

徳川家康
(『徳川家康像(部分)』大阪城天守閣所蔵 Wikimedia Commons)

『徳川実紀』では、その婚姻が行われた日を、元信が元服し今川義元から「元」の字の偏諱を受けた日のこととする。

『二郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

元信は、三河国の松平広忠の子で、当時、尾張の織田家と駿河・遠江の今川家の強国に挟まれ翻弄される弱小勢力に過ぎない松平家が生き残るために、東海の雄たる大々名の今川家へ送られた人質であった。

元信にとっては、義元の養女と婚姻したことで、義元とは義理の父子関係となったことを意味する。

もっとも、築山殿からすれば、今川家家臣団の譜代重臣家との婚姻では無く、明日の扱いがどうなるかもはっきりしないような貧相で冴えない人質との婚姻であることから「貧乏クジ」を引いたと思ったことであろう。

なお、築山殿と元信の駿府での住居にあった池泉庭園の築山が美しかったことに因み、「築山殿」と呼ばれたとされる。

『御住居、築山泉水最奇巧、故名焉』

(『幕府祚胤傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

ただし、「築山殿」の由来には別説もあって、

『岡崎城内、築山曲輪有之、此御有築山、之唱皆准之』

(『幕府祚胤傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

『別殿を城中築山といふ所に建つ。由て築山御殿と曰ひ、又築山御前と稱す』

(『静岡縣人物志』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、岡崎城内にあった曲輪の築山に因むとも言われる。

また、後に築山殿が住んだ三河国岡崎の地名に由来するとされる。

『この地が總持寺の築山領であったことから、岡崎の人々は瀬名姫のことを「築山殿」と称した』

(『徳川家歴史大事典』「徳川家女性総覧 築山殿」阿井景子 新人物往来社)

これらの別説に従えば、駿河国にいた頃には「築山殿」とは呼ばれておらず、三河国に赴いた後に「築山殿」と呼ばれたことになる。

婚姻してから2年後の永禄2(1559)年3月、築山殿は、元信との間に男児・竹千代(松平信康)を出産する。

『二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

徳川信康(松平信康)
(『松平信康像(部分)』勝蓮寺所蔵 Wikimedia Commons)

後の元信(家康)が多くの女性との間ですぐに肉体関係を持ち、たくさんの子を為していることから勘案すると、婚姻当初、築山殿は元信との肉体関係を拒んでいた可能性も考えられる。

翌永禄3(1560)年3月(9月とも)には、長女(亀姫)を出産する。

築山殿と『桶狭間合戦』

築山殿が亀姫を出産した永禄3(1560)年に、築山殿の人生を大きく狂わせる事態が生じる。

この年の5月、今川義元は大軍を率いて駿河国を出発し、三河国西部から尾張国との国境へと進出。夫の松平元康(元信から改名)も、この戦役に先鋒として参加していた。

こうして意気揚々と進軍していた義元であったが、尾張国の織田信長から義元の命だけを狙った一点集中の攻撃を受け、遂に討ち取られてしまったのである(『桶狭間合戦』)。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

『毛利新介義元を伐臥頸をとる』

(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)

桶狭間
(桶狭間)

義元を喪って混乱した今川軍は撤退を余儀なくされた。

ところが、元康は、これ幸いと三河国にそのまま留まり岡崎城で自立し、今川家の支配から離脱してしまったのである。

『家康ハ岡崎之城へ楯籠御居城也』

(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)

岡崎城
(岡崎城)

ここに、築山殿は、夫に見捨てられた哀れな存在となる。

今川氏真と築山殿は、義兄弟姉妹の間柄ではあるが、それも義元が存命していればの話である。

同年6月、義元の葬儀が行われたものの、果たして、この葬儀に「義元の養女」である築山殿が参列したのかどうかは不明である。

いずれにしても、今川家中における築山殿は「裏切り者の妻」として、何より「元康に対する人質」として扱われ冷遇されたのではないかと容易に想像される。

かつて「人質の妻」であった築山殿は、今度は自分自身が「人質」となってしまったわけである。

幼い我が子を抱えた築山殿が、どれほど不安だったことであろうか。

ただでさえ神経をすり減らす思いを強いられる築山殿を嘲笑うかのように、元康は、永禄5(1562)年正月には、今川家の仇である信長との間に『清州同盟(織徳同盟)』を結んでしまう。

この直後、氏真が東三河への攻撃を開始するものの元康の前に敗北。さらに、築山殿の立場は悪くなってしまう。

同年、元康の家臣である石川数正の働きで、築山殿と子供たちと、元康の捕虜となっていた今川家の武将との間で人質交換が成立。

『北方若君二方と鵜殿が子二人を取替ん』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

この直後、元康は、今川家との手切れを通告する。

これがために、築山殿の父の関口義広(『改正三河後風土記』では、関口親永)は、その責任を負わされて、氏真に切腹させられる。

築山殿が抱く元康に対する憎悪の念は如何ばかりであったことだろうか。

また、三河国岡崎衆の中から今川家に差し出されていた人質11名も串刺しの刑等に処された。

この時から岡崎衆の中にも元康に対して複雑な感情を抱くようになった者もいたと思われる。

築山殿と織田信長

駿河国駿府から三河国岡崎へ移った築山殿であったが、岡崎城中には住まなかったと言う。

築山殿が岡崎城中に入らなかったことについては、松平元康の意向であったのか、それとも築山殿の意志であったのかは不明である。

一般には、元康が築山殿を嫌い城内での同居を避けたと言われるが、築山殿の立場からすれば、むしろ夫婦同居を忌み嫌ったのは、築山殿の方だったように思われる。

かくして、築山殿は、岡崎城下の西岸寺を住居にしたとされる。

『桶狭間合戦』以降、築山殿は落ち着くことが無かったが、これで、ようやく落ち着けるかに思われた。

だが、築山殿に心の平安が訪れることは無かった。

永禄6(1563)年、織田信長の娘の織田五徳(徳姫)と松平竹千代(松平信康)の婚約が成立する。

『六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

今川義元の仇であり自分の人生を狂わせた信長の娘が、自分の大切な息子の嫁となるのである。築山殿は怒り心頭であったのではあるまいか。

その上、さらに築山殿を逆上させるような行動を元康が取る。

同年、元康が、義元からの偏諱を捨てて、名を「家康」と改める。さらに、永禄9(1566)年、家康は、松平姓を改め、徳川姓とし、清和源氏を僭称したのだ。

築山殿からすれば、今川家から受けた恩義を捨てた上に、三河の土豪に過ぎない松平氏が、由緒正しい今川家と同じ清和源氏を僭称すると言う家康のやり方には激しい反発を覚えたことであろう。

そして、永禄10(1567)年5月、織田家から五徳(徳姫)が輿入れして来る。

信康と五徳(徳姫)との夫婦仲は良かったとされるが、なかなか子供が出来る気配は無かった。

翌永禄11(1568)年、家康は、武田晴信と連携し、今川家領内への侵略を開始し、遠江国引馬城(曳馬城)を攻略。

この年、家康と築山殿の関係について、

『此の年關口氏と離婚す』

(『静岡縣人物志』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、築山殿が家康の下から追放されたとする説もある。ただし、この築山殿の離縁説に関する典拠は不明。

元亀元(1570)年には、東部戦線に近い引馬城を浜松城と命名し新たな本拠と定めた家康は、岡崎城から浜松城へと移動する。

浜松城
(浜松城)

岡崎城を家康は信康に任せた。築山殿も信康と共に岡崎に留まる。

先の築山殿離縁説では、岡崎城を任された信康は、

『母を思念して已むこと能はず。其の伊勢に在るを聞き、迎へて城中に同居せんことを請ふ』

(『静岡縣人物志』国立国会図書館デジタルコレクション)

たことから、家康も、これを認めたとする。

そして、築山殿は、家康の身の回りの世話をさせるため自分の代わりに侍女を浜松城へと送る。

永禄12(1569)年5月、今川氏真は、今川領の西部戦線から迫る家康に対して掛川城を明け渡す。ここに、東海一を誇った大名家としての今川家は終焉の時を迎えた。

領国を喪失した氏真は、北条家(後北条家)の庇護を受けていたが、その後、元亀2(1571)年頃から天正3(1575)年頃までに家康の庇護を受けるようになり、浜松に居住する。

さて、築山殿の侍女で家康の世話をしていたお万が、やがて、家康と肉体関係を持つようになり、天正2(1574)年、遂に妊娠する。

これを知った築山殿は怒り、真冬にお万を全裸にして、浜松城二の丸曲輪にある庭の木に縛り付けたとされる。

『お萬の方懐妊有しに、奥方築山殿嫉妬ふかき故、お萬の方を赤はだかになし、庭の樹木にしばりおかれし』

(『玉輿記』国立国会図書館デジタルコレクション)

この時は、本多重次が、お万を救い出したと言う。因みに、お万の子が結城秀康である。

ただし、この話は真っ赤な嘘と考えられる。

築山殿は、ずっと三河国岡崎城に居り、そう簡単に遠江国浜松城へ出向ける訳が無い。

岡崎城から浜松城まで駆け付けて、その足で、全裸にして丸出しとなったお万を木に縛り付ける折檻を終えたら、また、すぐに岡崎まで帰って来る等、もはやホラー映画かコントであろう。

天正3年5月、織田徳川連合軍と武田軍との間で『長篠合戦』が行われる。

この合戦における信康の活躍は目覚ましく、その戦いぶりを見た武田勝頼は、

『三河には信康といふ小冠者のしやれもの出來り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

と評している。

敵軍の大将が認めるほどの優れた力量を持つ次代の家督たる信康の生母である築山殿が、この期に及んで、お万に嫉妬する意味が不明である。

さて、信康と五徳(徳姫)との間には、ようやく天正4(1576)年に登久姫、翌天正5(1577)年には熊姫が誕生した。

築山殿と織田五徳(織田徳姫)

松平信康と織田五徳(徳姫)との間は仲睦まじいものであったと言う。

ここから築山殿の「悪女伝説」が開始される。

息子夫婦が仲睦まじいことに対して、築山殿は、快く思っておらず、信康に五徳(徳姫)の悪口をあれやこれやと吹き込み、夫婦仲を引き裂くことに懸命になったと言うのだ。

『妬ましく常に其間に入交り彼是讒言のみ仰られ御夫婦の御中をさまたげさせ給ひける』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『築山殿、ゆへ有て讒言有により、奥方信長の御息女と御中惡敷、御離縁有』

(『玉輿記』国立国会図書館デジタルコレクション)

そして、築山殿の讒言のために、遂には「離縁」と評されるほどに、信康と五徳(徳姫)との間は次第に疎遠なものとなって行ったとされている。

まるで往年のテレビ番組『2時のワイドショー』内の人気コーナー「嫁姑相談」の一場面のようである。

さて、武田晴信亡き後、武田家の後継者に定められた武田信勝の後見人となった武田勝頼(信勝の父)は、『長篠合戦』で織田徳川連合軍の前に大敗北を喫して以降、その勢力が著しく退潮へと向かっていた。

いつのことか明確では無いが、ある時、築山殿が病気となった。

『わづらハせ給ひ』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

すると、岡崎城下に、甲斐国からやって来た唐人医師の減敬と言う者がいた。

『甲州より來りし減敬と言唐人あり此者醫を業とし』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

そこで、この減敬を召し寄せ、築山殿の近くに置いて治療に当たらせたところ体調が良くなった。

このことが縁で、築山殿は、減敬を信用するようになったとされる。

ところが、この減敬が武田勝頼の手の者であった。

これについて、『徳川実紀』は、

『勝頼が詐謀にやかゝりたまひけん』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、全てが勝頼の仕掛けた謀略であったとしている。

減敬から築山殿の信任を得たことを知らされた勝頼は「三郎信康殿が武田方に味方し織田信長と徳川家康を討伐した暁には、信康に織田領から一ヶ国を与える。その上で、築山殿を、先般妻を亡くした小山田兵衛(小山田高重)の後妻とする」と言う内容の起請文を築山殿に密かに送る。

この密書の内容に、

『築山殿には悦給ふ事大かたならず』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

であったと言う。

ところが、これら一連の出来事は、五徳(徳姫)から信長に、信康の日頃の暴力的な振る舞いと共に、

『築山殿のまさなき事ども委しく御文』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

として告げ口されることとなる。

築山殿の最期

織田五徳(徳姫)が父の織田信長に送った告発文は思わぬ展開を見せる。

信長は、徳川家康が安土城天主完成祝いへ差し向けた使者の酒井忠次(大久保忠世が同行したとも、奥平信昌が同行したとも)に対して、五徳(徳姫)からの告発文の真偽を問う。

なお、『三河物語』では、忠次が五徳(徳姫)の告発文を届けたとする。

『信康之御前様より、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条書き立被成て、坂(酒)井左衛門督(忠次)に持たせ給ひて、信長へ遣し給ふ』

(『三河物語 葉隠 日本思想大系26』斎木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

これに忠次が答え切れなかったことから、信長は、五徳(徳姫)の告発が真実であると判断して、家康に「築山殿と徳川信康の処分」を命じたとされる。

『是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

信康は、岡崎を追い出される形で、大浜、遠江国の堀江、さらに、二俣城に送られて、大久保忠世の監視下に置かれた。

一方、築山殿は、家康から浜松城へ呼び出され、8月25日、家康の差し向けた使者と共に岡崎城を出発する。

築山殿は、家康に対して信康の身の潔白を訴えたいと言う一心で、浜松城へ向けて急ぎ出発した。

だが、この時、家康は、築山殿の迎えに差し向けた者たちに築山殿を浜松までの道中において殺害するように命じていた。

『奉命殺害』

(『幕府祚胤傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

築山殿が岡崎を出発した日から東海地方は雨が降り出し、数日間、雨は降り続いた。

『午刻より雨降』

(『家忠日記』国立国会図書館デジタルコレクション)

降り続いた雨がようやく上がった29日、家康からの命令を受けた野中重政は介錯人として、岡本時仲は介添えとして、石川義房は検使として、遠江国敷知郡小藪郷において、築山殿を殺害したのである。

『三郎主母公も於濱松被生害』

(『當代記』国立国会図書館デジタルコレクション)

小藪郷
(遠江国敷知郡小藪郷)

刎ねられた築山殿の頸は、直ちに安土城の信長の下へ届られ、首実検を受けたと言う。

しかし、同時代の最も信用のおける史料である『信長公記』には、そのような記述は残されていない。

また、そもそも首実検をしたとしても、信長以下、どれほどの数の織田家中の家臣が築山殿の顔を識別出来たのであろうか。大きな疑問は残る。

さて、築山殿の殺害が滞り無く終わったと言う報告を受けた家康は勝手なもので、

『女の事なればはからひ方も有べきか』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

と、今度は家康の命令を実行した者を責める。

即ち、

『女の事なれば尼となし何方へか落し』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

て築山殿の命を救うことも出来のではないか、と言うのである。

これがために、重政は、主である家康から汚れ仕事を押し付けられたにも関わらず、さらに蟄居にまで追い込まれた。

なお、築山殿の最期について、『伊奈氏家譜』だけは、「築山殿被入水」と伝えており、築山殿は自ら入水自殺したとしている。

築山殿が殺害された翌日の30日には東海地方で地震が起こった。

『晦日 申刻地震』

(『家忠日記』国立国会図書館デジタルコレクション)

それは、最愛の我が子である信康の行く末を思う築山殿の慟哭であったのかも知れない。

築山殿のまとめ

江戸時代に、築山殿を評した言葉が現在に伝わる。

それは、

『築山殿惡人』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『生得惡質嫉妬深き御人也』

(『玉輿記』国立国会図書館デジタルコレクション)

『是無類の惡質嫉妬深き婦人也』

(『柳營婦女傳系』国立国会図書館デジタルコレクション)

と言うもので、どれも散々なものである。

しかも、「神君」とされた徳川家康の正室に対する評価である。

近代においても、

『行儀の宜しからぬ女性にて、久しく空閨を守るに堪えず』

(『徳川家康 上 岩波文庫 33-120-3』山路愛山 岩波書店)

と、築山殿は、人格そのものを否定されている始末である。

神君家康を尊び、築山殿を卑しめることは、徳川幕府が治政の根幹とした男尊女卑の朱子学に適うことであるのかも知れないが、日本史上、ここまで悪く言われた女性も珍しい。

そもそも築山殿が「悪人」として殺害されるきっかけになったとする織田五徳(徳姫)が織田信長に送った告発文の内、築山殿を告発する内容は到底真実と思えない部分が多い。

『三郎殿と吾身の中をさまざま讒して不和し給ふ』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

これは単なる嫁姑問題であろう。

信長が問題としたのは、築山殿が、

『勝頼が詐謀にやかゝりたまひけん』

(『徳川實紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

点にあったと、徳川幕府の公式書『徳川実紀』はしている。

『築山殿すゝめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し三郎殿妾にせられ』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

ここで言う日向大和守は、日向時昌とされるが、果たして実在したのかどうかも不明。

『築山殿甲州の唐人醫師減敬といふ者と密會』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

これなどは、奈良時代の称徳天皇と、その称徳天皇の病を治した巨根伝説で有名な道鏡との醜聞の焼き直しでしかないと言えよう。なお、減敬が巨根であったかどうかは伝わっていない。

そして、築山殿は処刑されたにも関わらず、減敬が処分を受けたとする記録は残されておらず、この点からしても実在の人物だったのかどうかも怪しい。

『築山殿をば小山田といふ侍の妻とすべき約束の起證文書て築山殿へ送る』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

果たして、三河国と遠江国の領主の妻で、その後継者の母である築山殿が、武田家の重臣とは言え侍身分に過ぎない小山田兵衛の後妻となって一体何の得になるのであろうか。

ここまで、築山殿をバカにした話も無いであろう。

そもそも、この築山殿が武田勝頼の計略に掛かったとする説であるが、その発端は、築山殿が病気となったことにある。

つまり、築山殿が元気でピンピンしていたならば、勝頼は何の謀略も果たせず、減敬はただの町医者で生涯を終えたのだろうか。

ならば、勝頼が間諜でも使い毒を盛って、築山殿を病気にしたのであろうか。それほどに、三河国の岡崎城は警備の緩い腑抜けた城であったのだろうか。

武田家が築山殿を標的にして謀略を仕掛けたと言うのは、所謂「信康事件」の原因と理由の後付けのように思われて仕方がない。

さらに、この五徳(徳姫)から信長への告発文は、一般には「12ヶ条」あったとされるが、徳川家の家督を揺るがせた12ヶ条であるにも関わらず、どういうわけか12ヶ条の正確な内容の全ては伝わっていない。

史実として、実際に「五徳(徳姫)から築山殿に関する告発」自体が存在したのかどうかも怪しい。

史料としての信憑性は低いが逸話を集めた『常山紀談』では、

『信長より叛逆の志有りて勝頼に内通し、二股の城へ甲斐の兵を引き入るべきとしの三郎謀あり』

(『常山紀談』国立国会図書館デジタルコレクション)

として、信康が武田家との内通の首謀者となっており、その全容について、

『此の事は酒井左衛門尉よく存知たり』

(『常山紀談』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、酒井忠次が知っていたとしている。

信長が問題視したのは、信康であって、築山殿では無い。

こうして見ると、『築山殿事件』の核心的なキーパーソンは、信康と酒井忠次に絞られる。

そして、もうひとり重要な人物がいる。

それは、今川氏真である。

氏真が家康の庇護を受け浜松で暮らすようになってから、築山殿の所謂「悪女伝説」が始まる。果たして、単なる偶然であったのだろうか。

庇護を受ける立場に成り下がっても、氏真は、大名としての今川家の再興を目指していた。

築山殿は今川義元の養女とは言え、母方は今川家に繋がる。つまり、今川家の血は、築山殿の子である信康にも受け継がれている。

この視点から見れば、信康は徳川家当主となっても、今川家の旧臣にとっては「主」として比較的抵抗なく受け入れられ易く、氏真にとって邪魔な存在であった。

言い換えると、氏真が今川家の再興を目指す上で、排除すべき存在が築山殿と信康だった。

そして、酒井忠次の立場から見てみると、家康が東進し今川家の旧領である遠江国を併呑して行くにつれて、当然、今川家の旧臣たちを徳川家が抱え込む状況となっていた。

加えて、今川家旧臣が築山殿と信康を今川家に繋がる存在と認識すればするほど、三河の徳川家譜代(松平家譜代)に代表される忠次から見れば、それは極めて危険なものでは無かったか。

下手をすれば、将来、信康が当主となった徳川家が今川家旧臣に占められる可能性も有り得る。

やはり、忠次から見ても、築山殿と信康に何らかの手を打ちたいと思うのは当然であろう。

『忠次兼々信康君を恨み奉る事とも多かり』

(『改正三河後風土記』国立国会図書館デジタルコレクション)

ここに、氏真と忠次の利害が一致する。

氏真と忠次が是が非でも排斥したいのは、信康である。

ただ、信康が家康の嫡子であり、しかも、有能で武勇優れた稀代の人物である以上、単に排斥してしまうことは後世に「不忠」として残ってしまい簡単には出来ない。

そこで、信康排斥のスケープゴートとされたのが築山殿では無かったか。

信康と武田家との内通が史実であったか否かは不明であるが、世間と後世に対して、築山殿を仲立ちとして武田家と信康が内通したとの評判が伝われば良いのである。

そう考えれば、忠次が信長の糾問に対して、お家の大事であるにも関わらず、築山殿と信康の潔白を答え切れなかったとする理由が見えて来る。即ち、消極的に答えないと言うことは積極的に認めたと言うことなのだ。

歴史は、その筋書き通り「築山殿を介して信康は武田家と通じた」と伝わって来た。

かくして、築山殿は徳川家に害する「悪人」「悪女」に仕立て挙げられたのだと言えまいか。

築山殿は、女性とはしては異例とも言える斬首に処された。

既述の通り『伊奈氏家譜』だけが、築山殿は自ら死に臨んだとする以外は、全ての伝承は斬首に処したとしている。

築山殿は何故自ら死を選ばなかったのか。

それは、恐らく愛する我が子の信康に一目会うまでは自らの命を終えることはしないと決心していたからに違い無い。

そして、信康に会うことが叶ったならば、その時は、家康に対して、自らの命と引き換えに信康を守ろうとしたのではあるまいか。

あるいは、信康のためならば家康と刺し違える覚悟であったのかも知れない。

それこそは、正統な清和源氏の血を引く武家の女性たる築山殿の最期の戦いとなるはずであった。

母として命を投げ打ち最期に臨もうとした築山殿は、果たして、江戸時代の諸書が伝えるような「悪女」だったのであろうか。

築山殿
(『築山殿像(部分)』西来院所蔵 Wikimedia Commons)

築山殿の系図

《築山殿系図》

関口義広
 │
 ┝━━━築山殿
 │    ↓
今川氏   ↓
      ↓
     (養女)
      ↓
今川義元=築山殿
      │
      ┝━━━┳信康
      │   ┗亀姫
      │
松平広忠━徳川家康

築山殿の墓所

築山殿の亡骸は、敷智郡富塚の西来禅院に葬られた。

現在の曹洞宗寺院西来院である。

西来院には、築山御前霊廟である月窟廟に築山殿が祀られている。

西来院
(西来院)

『掛川志』に拠ると、築山殿の頸を刎ねる役目を果たした野中重政は、築山殿の墓前に石灯籠を奉納したと言う。

また、その重政の子孫と思われる野中氏が、享保8(1723)年と文政7(1824)年に、築山殿の墓前に石灯籠を寄進している。

織田信長に送られた築山殿の頸は、返還後、祐伝寺に首塚を築き納められたと言う。

『遊伝寺記』に拠ると、無念の最期を遂げた築山殿の霊を鎮めるために神明神社が建立されている。

築山殿の年表

年表
  • 弘治3(1557)年
    正月15日
    松平元信と婚姻。
  • 永禄2(1559)年
    3月6日
    嫡男・竹千代(信康)、出産(7日説あり)。
  • 永禄3(1560)年
    3月18日
    長女・亀姫、出産(9月説あり)。
  • 5月19日
    『桶狭間合戦』。
  • 5月23日
    元康、岡崎入城。
  • 6月5日
    義元葬儀(臨済寺)。
  • 永禄5(1562)年
    正月15日
    『織徳同盟』成立。
  • 捕虜交換で元康の下へ”。
  • 3月
    三河国岡崎へ到着。
  • 永禄6(1563)年
    3月2日
    竹千代と織田五徳(徳姫)との婚約成立。
  • 7月6日
    元康、家康と改名。
  • 永禄9(1566)年
    12月29日
    家康、「徳川」と改姓。
  • 永禄10(1567)年
    5月27日
    信康、織田五徳(徳姫)と結婚。
  • 元亀元(1570)年
    6月
    家康、浜松城へ進出。信康が岡崎城主に。
  • 天正7(1579)年
    6月4日
    家康、岡崎入城。
  • 7月16日
    信長、築山殿と信康の殺害を家康に命令。
  • 8月3日
    家康、岡崎入城。
  • 8月25日
    築山殿、岡崎城を出発。
  • 8月29日
    殺害される。
  • 延宝6(1678)年
    4月1日
    法名追号。