平正盛【平氏政権の礎を作りし男!】

平正盛について

【名前】 平正盛
【読み】 たいらのまさもり
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 平安時代
【位階】 従四位下
【官職】 讃岐守・兵庫頭(『尊卑分脈』)・右馬権頭(『尊卑分脈』)
【職能】 北面の武士(院北面)
【父】 平正衡
【母】 不明
【兄弟姉妹】 平維盛(『尊卑分脈』)
【配偶者】 不明
【子】 平忠盛・平忠正
【家】 平家(六波羅家)
【氏】 桓武平氏(伊勢平氏)
【姓】 朝臣

平正盛の生涯

平正盛の生い立ち

平正盛は、平正衡の子として生まれる。

《平正盛と伊勢平氏》

高望王┳平国香━貞盛┳維将
   ┃      ┗維衡━正度┳貞衡
   ┃            ┣維盛
   ┃            ┣貞季
   ┃            ┣季衡
   ┃            ┗正衡━正盛
   ┣平良兼
   ┣平良将━将門
   ┣平良持
   ┗平良茂

桓武平氏の中では、正盛の家系は桓武平氏の中で傍流であり、なおかつ、伊勢国内に本拠を置いた平氏の中においても傍流に位置している。

伊勢国
(伊勢国)

父の正衡は、伊勢国内の東寺末寺の法雲寺を延暦寺の別院として法雲寺領を横領した人物として名を残している。実は正衡の名は、この横領事件の一件しか日本史上においては見えない。

なお、その正衡であるが『尊卑分脈』に拠れば、

『従四位下出羽守』

(『尊卑分脉』国立国会図書館デジタルコレクション)

であったと記載されている(官位を「従五位下」とするものもある)。

正盛は、平国香の6代目に当たる。

『國香より正盛にいたるまで、六代は諸國の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず』

(『平家物語 上 日本古典文學大系32』高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦 校注 岩波書店)

国香以来、受領の「イエ」ではあったが、殿上に昇ることは許されないと言う「イエ」で育ったのが正盛である。

生まれた「イエ」に拠って一生が左右され、未来も支配される社会に、正盛は、傍流として生きることで、様々な智慧や度胸のようなものを養っていったものと思われる。

平正盛と白河上皇

平正盛は、隠岐守として日本史に登場する。

正盛がいつどのようにして隠岐守になったのかは不明である。また、それ以前の官歴も不明である。

一方で、白河上皇の院近臣を務めていた藤原顕季・藤原為房にも仕えていたらしい。

こちらもいつ頃から顕季や為房に仕え始めたのか全くの不明である。恐らくは、正盛が私領を寄進する等して経済的な利益を提供することで、顕季・為房に接近したものと想像される。

ただ、隠岐国はそれほど豊かな経済力は保有していないことから、やはり、正盛の財政基盤はあくまでも伊勢国・伊賀国のいずれかであったのだろうと思われる。

そんな中、永長元(1096)年に、白河上皇が大事にしていた第一皇女の媞子内親王(郁芳門院)が亡くなる。

悲しみの淵に沈む白河上皇は出家し、媞子内親王(郁芳門院)の屋敷であった六条殿を媞子内親王(郁芳門院)の菩提を弔うための六条院とする。

六条院
(六条院)

正盛は、承徳元=永長2(1097)年、伊賀国の山田村と鞆田村等に存在する自らの領地から合わせて20町を六条院に寄進するのである。

伊賀国山田村
(伊賀国山田村)

伊賀国鞆田村
(伊賀国鞆田村)

この正盛の寄進に感じ入った白河法皇は、正盛を自らに仕える臣(北面の武士)として取り立てる。

なお、正盛が寄進した伊賀国山田村と同国鞆田村の土地については正盛の私領としているものの、山田村は伊勢神宮、鞆田村は東大寺が、それぞれ正盛が六条院に寄進した領地の本来の所有権を主張して訴えたが、白河法皇に退けられている。

『鞆田村者、為寺領玉瀧杣之内及數百歳、敢無異、爰備前守平正盛俄號有古券、寄進六條院御庄、申下宣旨、所押妨也』

(『東大寺文書』「大日本史料」東京大学史料編纂所)

これらの正盛の横領が事実とした場合、正盛は、父・正衡に倣ったのであろうか。

このようなことが可能性だったのは、正盛が、既述の通り院近臣であった藤原顕季や藤原為房等に接近していたことに加えて、白河法皇のお気に入りであった祇園女御とも親しかったからと言われる。

なお、六条院領となった鞆田荘の荘司職は、正盛の家人である平家貞が務めている。

この寄進を契機に、正盛は、白河法皇の権力を背景として、若狭守、さらに因幡守へと遷る。これは、実入りの大きい国の受領へと正盛を配すことで、そこからのバックリベートを白河法皇が計算したものであることは言うまでも無い。

同時に、正盛の「イエ」に属する郎党が「院の武力装置」として機能し始めたものと考えられる。

康和4(1102)年、尊勝寺造営に対して、正盛は堂宇を寄進し、若狭守重任の宣旨を得ている。

同年、正盛は、大中臣親定と荘園について相論している。

『可申内新立庄園事、若狭守正盛與□主親定□相論庄内事』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

正盛は、天永元(1110)年10月に、賀茂社・石清水社に塔を寄進しており、その功績で丹後守に任じられている。

『但馬、正盛(略)八幡御塔事』

(『殿暦』「大日本史料」東京大学史料編纂所)

『但馬、正盛(略)是依賀茂』

(『殿暦』「大日本史料」東京大学史料編纂所)

また、この年には、洛東・六波羅に、六波羅蜜堂を建立している。ここに、平氏と六波羅との繋がりが生まれる。

六波羅
(六波羅)

さらに、永久2(1114)年には、白河阿弥陀堂を寄進して、備前守に重任されている。

永久5(1117)年、白河法皇は藤原璋子を鳥羽天皇に入内させることを決め、11月に璋子のための家司(家政機関)を設置する。

正盛は、子の忠盛と共に、この璋子の家司の政所別当の一員に任じられる。なお、皇室(天皇家)・摂関家の武力装置たる源氏からは誰一人として選ばれていないことは特筆される。

このように、正盛は持てる財力を全て注ぎ込むかのようにして、常に白河法皇の望むものを提供することで、自らの躍進に繋げたのである。

平正盛の武威

嘉承元(1106)年7月、皇室(天皇家)・摂関家の武力装置であった源義家が死去する。

義家の嫡子・源義親が流刑に処されている中での義家の死である。しかも、その義親は、嘉承2(1107)年12月、流刑先の隠岐から出雲国に渡り目代を殺害する。

白河法皇は、因幡守であった平正盛を義親の追討使とする命令を下す。

この時、関白・藤原忠実は、出陣する正盛に対して良馬を贈っている。

正盛は義親追討の命令を受けると、急ぎ因幡国へ向かい、因幡国内から3000の兵士を動員して出雲国へ進軍を開始する。

この正盛の行動を聞いた義親は、出雲国の鰐淵山に砦を構え兵1000を配して正盛を迎撃する構えを取る。

正盛は、兵の数が優勢なこともあり、短期決戦での決着を図り、義親の籠る砦を攻め立てて僅か一度の合戦で攻略したとされる。

そして、正盛は義親を殺害したのである。

白河法皇からの命令を受けてから正盛は、数日の内に3000人を兵として動員し、しかも、数日で戦巧者の義親が籠る砦を攻略した上で、義親を捕縛し殺害したことになる。

しかし、果たして、僅か1ヶ月ほどで3000人を兵士として即時に徴発し、その兵士の鍛錬や武器・兵糧米の確保、それに、義親に関する情報収集等、正盛が如何にして「戦争」を戦ったのかと言う肝心のことは何も具体的には伝わっていない。

正盛から義親殺害の報告を受けた白河法皇は、正盛の入洛を待つこと無く、正盛を但馬守とする。

この院主導に拠る人事には、朝廷側からの反発も大きかったが、白河法皇は、それらを押し切ってしまうのである。

白河法皇が自らの院政の実現遂行手段として、源氏に代わる独自の「武力装置」たる平氏を如何に欲していたかが窺える。

そして、同月29日、討ち取った義親の頸を先頭にして京に入ると、正盛は熱狂的な歓迎を受ける。

『今日但馬守正盛随身源義親首入洛、仍密々爲見物候女車』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

『見物上下車馬夾道、凡京中男女盈滿道路、人人如狂』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

ところが、既述した通り、正盛の義親追討があまりにも不自然なほどに順調で、その後の恩賞も不自然であったことから、正盛の軍功に対しては疑惑が付いて回ることになる。

実際、後になって「源義親」を名乗る人物が各地で続々と出現する様になる。

このようなこともあり、正盛は、自分に向けられた疑惑を払拭するために一層の働きをしなくてはならなくなる。

平正盛の戦い

源義親を討伐した同じ年の天仁元(1108)年の4月のことである。

延暦寺の僧兵が比叡山を下って京に押し入ろうとするのを、平正盛は、源氏の兵と共に賀茂川沿いに布陣し、入京を拒んでいる。

『日吉神輿發向西坂下、神人衆徒數千人群集、爰又爲相禦、公家所指遣之檢非違使、並源氏、平氏、天下弓兵之士、武勇之輩數萬人、従法成寺東河原及松前邊、引陣給(結)黨相守不入』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

かくて、皇室(天皇家)・摂関家の武力装置であった源氏と並び、院の武力装置となったばかりの平氏も、正盛と白河法皇に拠って「武門の家」として確立されたのである。

そして、ここで思い出されるのは、正盛の父・正衡が、伊勢国内の東寺末寺の法雲寺を延暦寺の別院として法雲寺領を横領した事実である。

つまり、正盛には、正衡が延暦寺との間に結んだパイプを持っていたことを意味している。

先に述べた通り天永元(1110)年に、六波羅へ正盛は六波羅蜜堂を建立しているが、当時の六波羅蜜寺は延暦寺の末寺である。つまり、正盛は延暦寺との交渉が行える状態にあったことを裏付けるのではあるまいか。

この時に正盛が延暦寺と密かに交渉を行ったかどうかは不明である。だが、実際、延暦寺の僧兵たちは一戦も交えずに引き揚げている。即ち、正盛率いる平氏の軍勢が布陣したことで武力衝突は防がれたと言う事実のみが残されたのである。

正盛は、兵を損なうこと無く武名を挙げたと言える。

しかも、この後、源義家亡き後の源氏は繰り返される内部抗争に疲弊し、そこを白河法皇に付け込まれ、さらに弱体化して行くのである。

一方、平氏は、永久元(1113)年に正盛の子の平忠盛が検非違使として賊徒を捕縛した功に拠り従五位下に叙される等、着実にその力を伸ばして行くこととなる。

同年、清水寺別当の人事を巡って延暦寺と興福寺が紛糾する。その対立が武力衝突に及ぶ可能性が大きい状態となるや、正盛は検非違使として、源光国と共に、興福寺の僧兵の入洛を拒むために宇治・一之坂(西坂下)に赴く。

『丹後守正盛以下、天下武者源氏、平氏輩、皆爲禦南京大衆、所遣宇治一坂邊也』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

そして、睨み合いが続く中、双方の前に一頭の鹿が躍り出て来る。

これに興福寺の僧兵は「神の使い」として鹿を畏れたが、源平の陣営は、それを嘲り笑う風に、陣の中から一人の兵が進み出るや鹿を射る。

この兵に行いに、興福寺の僧兵たちは怒り狂い大騒動となる。ここを勝負時と見た源平の陣営は合戦に踏み出すのである(栗駒山合戦)。

栗駒山
(栗駒山)

その結果、

『南都大衆上洛之間、於栗駒山與官軍合戦、大衆百餘人被殺害』

(『天台座主記』「大日本史料」東京大学史料編纂所)

と言う具合に源平方が多くの僧兵を討ち取り、興福寺の僧兵を追い返すことに成功する。

元永2(1119)年には、京内の治安回復のため強盗を退治を命じられる。

『近日京中強盗毎夜不斷、仍被仰備前守正盛』

(『史料大成 中右記五』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

そして、同年、西国を荒らす海賊・平直澄を討伐するように命じられる。

『正盛蒙追捕宣旨』

(『史料大成 長秋記一』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

命令を受けた正盛は、直澄を討伐する。そして、正盛は、直澄の頸を持って帰洛する。だが、

『但正盛不具』

(『史料大成 中右記五』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

であったために、正盛の郎党が正盛に代わり直澄の頸を六条河原で検非違使に引き渡している。

この功績を以って、翌保安元(1120)年、正盛は、従四位下、そして、讃岐守となっている。

ただし、直澄を討伐して以降、正盛の官位・官職以外の動静については全く不明となっている。

直澄討伐後の正盛については、正盛の容体を示す

『不具』

(『史料大成 中右記五』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う記述から、合戦の最中に大怪我をしたか不慮の事故に遭ったかで四肢の一部を欠損し体の自由が効かなくなっていた可能性が高いように思われる。

もしかすると、晩年の正盛は寝たきりのような生活を過ごしていたのかも知れない。

ただ、それまでの白河法皇の期待に見事に応え続けた正盛の相次ぐ活躍は、「武門の家」としての平氏の地位を不動のものにしたと言える。

海賊平定と言う武功を最期とし、僅か20年ほどの活躍を残して正盛の姿は日本史の表舞台から消える。

平正盛とは

平正盛とは如何なる人物であったのか。

正盛が生きた当時、貴族社会が正盛のことをどう評していいたのか、それが判る言葉が残されている。

『正盛最下品者』

(『史料大成 中右記三』笹川種郎 矢野太郎 校訂 内外書籍株式会社 国立国会図書館デジタルコレクション)

「下品(げほん)」しかも「最下品」である。これが正盛を指す言葉である。

従来の朝廷政治では、平氏に、しかも傍流に過ぎない正盛に台頭する芽等は到底存在し得ない。既存の権力下に隷従しているだけでは、未来永劫、正盛に浮上等有り得ないのである。

澱んだ薄暗い空気の中で息を殺し時代を見つめていたのが若き日の正盛であったろう。

そんな正盛の前に、白河上皇が始めた「院政」と言う新しい政治体制が登場して来たのである。

この時代の変化を見逃すわけは無く、正盛は、院政と自らを結び付けることに全身全霊を傾ける。

院政に深く関わることで経済力を持ち、その経済力から得た「富」を惜しまず院政のために次から次へと投資し、さらに、強い経済力を持つことに成功したのが正盛である。

その経済力発展の裏付けとなったのが、平氏の武力であることは間違い無い。

上に対しては人が持つ限り無い欲望を逆手に取ることで自らの有利になるように物事を運ばせ、下に対しては理不尽な暴力に怯え震え上がらせることで自らに服従させると言う具合に、相手が持つ「人間の本性」を、正盛は、自らの才覚で自在に操ったかのように思われる。

正盛が目指したのは院政を背景とした「成り上がり」であったと言えるのではあるまいか。

ただし、それは「革命」のようなものでは無く、日本の「最下品」と蔑まれた武士たる平氏が、従前より存在し続ける既存の権力たる貴族社会に入り込むためのものである。

正盛の野望は、子の平忠盛が推し進め、孫の平清盛に拠って成し遂げられて行く。

一般に、平正盛について深く語られることは多く無い。

しかしながら、日本史上に及ぼした正盛の影響力は計り知れないと言える。

平正盛の系図

《平正盛系図》

平正度┳貞衡
   ┣維盛
   ┣貞季
   ┣季衡━盛光
   ┗正衡━正盛┳忠盛
         ┗忠正

平正盛の墓所

三重県津市にある置染神社に、平正盛の墓とされる宝篋印塔が伝わる。

置染神社
(置染神社)

平正盛の年表

年表
  • 永長元(1096)年
    8月7日
    媞子内親王(郁芳門院)、薨去。
  • 承徳元(1097)年
    10月14日
    白河法皇、六条御所を六条院とする。
  • 伊賀国山田村・鞆田村から20町を六条院に寄進する。
  • 康和4(1102)年
    7月21日
    尊勝堂・曼荼羅堂を造進。
  • 康和4(1102)年
    10月15日
    大中臣親定と荘園について相論。
  • 嘉承2(1107)年
    12月19日
    源義親追討使。
  • 天仁元(1108)年
    正月6日
    源義親を殺害。
  • 正月24日
    但馬守。
  • 正月29日
    源義親の頸を先頭にして入洛。
  • 4月1日
    源氏と共に延暦寺僧兵の入洛を防衛。
  • 天永元(1110)年
    10月12日
    丹後守。
  • 永久元(1113)年
    4月29日
    源光国と共に南都北嶺の衝突を防ぐ。
  • 4月30日
    備前守。
  • 永久5(1117)年
    11月26日
    従五位上。1
  • 元永2(1119)年
    5月6日
    京内の強盗を退治。
  • 5月26日
    正五位下。
  • 12月27日
    平直澄を討伐し帰洛。
  • 保安元(1120)年
    正月6日
    従四位下。
  • 12月14日
    讃岐守。