蘇我石川宿禰について
【名前】 | 蘇我石川宿禰 |
---|---|
【読み】 | そがのいしかわのすくね |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 古代 |
【父】 | 武内宿禰(建内宿禰) |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 波多八代宿禰・巨勢雄柄(小柄)宿禰・平群木菟(都久)宿禰・紀角宿禰・久米能摩伊刀比売・怒能伊呂比売・葛城長江曾津毘古(襲津彦)・若子宿禰 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 蘇我満智宿禰 |
【氏】 | 蘇我氏 |
蘇我石川宿禰の生涯
蘇我石川宿禰の生い立ち
蘇我石川宿禰の父は、
『建内宿禰という伝説上の人間』
(『飛鳥王朝の悲劇 蘇我三代の栄光と没落』大場弘道 光文社)
であり、父親が伝説である以上、その実在しない武内宿禰(建内宿禰)の子である蘇我石川宿禰を実在した人物と考えるのは到底難しい。
また、蘇我石川宿禰の「宿禰」は姓では無く単なる尊称に過ぎない。
なお、蘇我石川宿禰の末裔を名乗る石川木村が平安時代に行った上奏では、蘇我石川は「宗我宿禰」姓を下賜された(『日本三代実録』)としている。
『賜姓宗岳朝臣。木村言。始祖大臣武内宿禰男宗我石川。生於河内國石川別業。故以石川爲名。宗我大家爲居。因姓宗我宿禰』
(『日本三代實録』国立国会図書館デジタルコレクション)
貴族社会の深まった平安時代は出自の血統をより良く見せることが重要な時代であった。
蘇我石川宿禰、百済へ渡る
蘇我石川宿禰の行動として唯一『日本書紀』に残されている出来事がある。
それが、応神天皇3(272)年、百済王の辰斯王が応神天皇に対して非礼を行ったとして譴責するために、百済へ渡った話である。
『紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣して、其の禮无き状を嘖譲はしむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
このため、百済は、辰斯王を殺害して謝罪し、新しい王として阿花を王に立てたとする。
ただし、これらの内容が史実として到底認められないものであることは、周知の通りである。
因みに、この頃の倭(日本)は、葛城襲津彦が活動していた時期に当たる。
蘇我石川宿禰とは
蘇我石川宿禰は、蘇我氏の始祖とされている。
しかし、蘇我氏本宗家の蘇我稲目から蘇我入鹿に至るまでの4代が、この蘇我石川宿禰を自分たちの始祖として祀った形式は全く無い。
蘇我氏本宗家の始祖については、蘇我蝦夷が、皇極天皇元(642)年に、
『己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾の儛をす』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う『日本書紀』の記述から判るように、蘇我氏本宗家の当主は始祖の地を大和国と認識していたことがはっきりしている。ただし、同国葛城地方は、蝦夷の父である蘇我馬子所縁の地とされる。
この辺りは、初期ヤマト王権の中核であった葛城氏の後継としての蘇我氏を考える上で興味深いものがある。
蘇我氏本宗家の発祥地は、大和国高市郡とする見方が現在では有力である。
蘇我氏本宗家の始祖と河内国石川とは無関係なのである。
(河内国石川郡)
このことから、『乙巳の変』で本宗家が滅亡した後に、蘇我氏の主流となった蘇我氏傍流である石川氏が、自分たちの始祖として仮託し作り出した架空の人物こそが「蘇我石川宿禰」だったと考えられる。
蘇我石川宿禰の系図
《蘇我石川宿禰の系図》 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓ ┗甘美内宿禰 ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┣波多八代宿禰 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰 ┣蘇我石川(石河)宿禰━満智宿禰━韓子━高麗━稲目━馬子 ┣平群木菟(都久)宿禰 ┣紀角宿禰 ┣久米能摩伊刀比売 ┣怒能伊呂比売 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦) ┗若子宿禰
蘇我石川宿禰の年表
- 応神天皇3(272)年百済へ渡海し、百済王・辰斯王の非礼を譴責する。