目次
静御前について
【名前】 | 静御前 |
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【読み】 | しずかごぜん |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 平安~鎌倉時代 |
【職能】 | 白拍子 |
【父】 | 不明 |
【母】 | 磯御前 |
【配偶者】 | 源義経(妾) |
【子】 | 男子 |
静御前の生涯
静御前の生い立ち
静御前の母は、白拍子の磯御前であるが、静御前の誕生年や父については不明である。
白拍子とは・・・男装して舞う遊女のこと。『徒然草』には、藤原通憲が磯御前に舞を伝授したことが始まり、との記述があり興味深い。
静御前と源義経
静御前が源義経といつ出会ったのかは不明である。
義経が、源氏所縁の堀川館を拝領してからのことではないかと思われるが、定かではない。物語ではあるが『平家物語』中には、
『判官は磯禅師といふ白拍子のむすめ、しづかといふ女を最愛せられけり』
(『平家物語 下 日本古典文學大系32』高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦 校注 岩波書店)
と、堀川館で過ごしていた頃の静と義経についての記述がある。
静御前と源義経の逃避行
源義経は、平氏討伐に抜群の活躍を見せるものの、義経の兄の源頼朝が、義経が後白河法皇と結びつくことを畏れて、「義経討伐」の命令を出したことで、危機に陥る。
その状況下でも、静御前は、
『しづか申しける』『大路みな武者でさぶらふなる』
(『平家物語 下 日本古典文學大系32 』高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦 校注 岩波書店)
と、頼朝が放った刺客の土佐房昌俊が義経に迫っていることを察知する等、常に義経の傍らにあった、とされている。
一旦、都落ちして、再起を図る義経と行動を共にし、大物浦での出航に失敗した後も、義経の妻妾の中で唯一、静御前だけは義経の傍を離れなかったが、その義経も次第に逃げ道を失い遂には吉野に逃げ込むよりほか方策が無くなってしまった。
静御前と源義経の別離
その吉野は、女人禁制であるがために、静御前は、源義経と別れざるを得なくなる。
義経からと別れた静御前は、義経から与えられた金品を供廻の者に奪われた挙句、たった一人置き去りにされ、吉野の山を彷徨って蔵王堂に到着する。
そこで、京へ無事に帰れることと、何より義経が無事に逃亡出来るように祈願していると、老僧から何か奉納するようにせがまれてしまう。
断りきれなくなった静御前は、歌を謡う。
『在りのすさみのにくきだに在りきの後は戀しきに、飽かで離れし面影を何時の世にかは忘るべき。別れの殊に悲しきは親の別れ、子の別れ、勝れてげに悲しきは夫妻の別れなりけり』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
と、謡ったことから、静御前の正体が発覚してしまうが、吉野の者たちは、無常の世に翻弄される静御前を哀れみ、京の北白川へと逃す。
静御前と鎌倉
だが、静御前は京で捕縛されてしまい、北条時政から尋問を受ける。
やがて、文治2(1186)年には、頼朝の命令によって、母の磯禅師と共に鎌倉へ連行され詮議を受ける。実は、この時、静御前は、源義経の子を妊娠していた。
鎌倉では、安達清経の下に預けられて過ごす。
そして、その年の4月、頼朝から命じられ、鶴岡八幡宮で、舞を披露することとなるのである。京で評判となった一番の舞を、頼朝自身と鎌倉政権のために、身重の体で舞を奉納しろと言う命令である。
『しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
静は、頼朝の面前で舞いながら堂々と義経への想いを謡い上げた。これに頼朝は露骨に不快感を示したものの、頼朝の妻の北条政子が取り成す。
やがて、閏7月に義経の子を出産。男子であった。赤ん坊は、そのまま幕府の手に奪われ、由比ヶ浜で生まれたばかりの命を無残にも断たれる。
こうして、頼朝にとって、最早、用無しとなった静は、悲しみの内に京へ返されることとなる。
鎌倉を去る静を見送ったのは、政子と政子の娘の大姫であった。
京に戻ってからの静の正確な消息は、一切が不明である。
静御前とは
静御前は、物語上の静御前の方が実在感を持って語られることが多い。
有名な話に、京で旱魃が起こった際に、神泉苑で雨乞いを行い、100人の白拍子が呼び出され、次々と雨乞いの舞を披露したものの99人までが全く霊験が無かった。そして、最期のひとりとなった静御前が舞ったところ、たちまち俄かに愛宕山より雨雲が湧き出て、雨が三日も続き、京は旱魃の被害から立ち直った、とする話である。
だが、この話は前提として、静の立場を、
『内侍所に召されて、禄重き者』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
としている有様で到底信じるわけにはいかない。
超人的な武人の源義経に対して、静御前は超人的な舞の名手であったとする脚色と言える。静御前は、雨乞いでの「巫女」的性格、白拍子の「遊女」的性格、子を喪う「母」的性格、そして、何より義経の妾としての「妻」的性格等、様々な女性としての性格が込められた存在である。
その静御前が、日本史上に名を留める契機となったのが、鶴岡八幡宮での舞である。
時の最高実力者であり、最愛の義経の仇である源頼朝からの理不尽極まりない命令に対する命を賭した戦いでもあった。それは蟷螂の斧である。
しかしながら、この静御前の行動は、その後の日本人の、とりわけ権力者によって抑え付けられ苦しむ庶民たちや、逃れられない不条理な運命に晒された人々にとって闇の中の光明として、そしてまた、別れてもなお愛しい人を想う静の気持ちは、ままならない恋愛に悩む恋人たちの憧れとして、永く語り継がれて来た。
だからこそ、日本各地に「静御前伝説」は残り、日本史の記憶の中から消えることは無いのである。
『しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
「繰り返し、今もう一度、恋しい義経様と過ごしたあの愛しい時がやって来る、そんな術があれば良いのに」
『吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
「吉野の山の白く積もった雪を踏み分けて山奥に消えて行ったあの人のことを今も心から恋しく思います」
静御前は、愛しい人を想う恋人たちが、この世に存在する限り、その心の内に永遠に生き続けて行く女性であると言える。
静御前の系図
《関係略図》 父(未詳) ┃ ┣━━━━静御前 ┃ ┃ ┃ ┣━━━男子 ┃ ┃ 磯御前 ┃ ┃ 源義朝━━━義経 ┃ 河越重頼━━女子
静御前の年表
<文治元(1185)年>
11月17日、吉野蔵王堂に辿り着く。
<文治2(1186)年>
3月1日、鎌倉到着。
4月8日、鶴岡八幡宮で舞を披露。
閏7月29日、男子を出産するも殺害される。
9月16日、京都に戻る。