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織田勘十郎(織田信勝)について
【名前】 | 織田勘十郎(織田信勝) |
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【読み】 | おだかんじゅうろう(おだのぶかつ) |
【別名】 | 織田達成・織田信成・織田信行 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 弘治3(1557)年 |
【時代】 | 戦国時代 |
【出仕先】 | 織田氏一門 |
【職能】 | 末森城(末盛城)城主 |
【父】 | 織田信秀 |
【母】 | 土田御前(土田政久の娘) |
【同母兄】 | 織田信長 |
【異母兄弟姉妹】 | 織田信広・織田信包・織田信治・織田信時・織田信興・織田秀孝・織田秀成・織田長益・織田長利・織田市・織田犬 等 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 津田信澄 |
【氏】 | 織田氏 |
織田勘十郎(織田信勝)の生涯
織田勘十郎(織田信勝)の生い立ち
織田勘十郎(織田信勝)は、織田信秀の子として誕生する。
勘十郎の生母は土田御前で、同母兄に織田信長がいる。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
正確な誕生年は不明。諱についても巷間使われる「信行」は良質な史料に見えず、近年では「信勝」が使われるようになっている。
このように、史料に恵まれていないこともあって、勘十郎の幼少期の出来事や元服の時期等についても全く不明と言わざるを得ない状態である。
織田勘十郎(織田信勝)、末森城城主となる
天文21(1552)年、織田信秀が、その居城・末森城(末盛城)で亡くなると織田勘十郎は末森城を相続した。
(末森城跡)
信秀存命中に、勘十郎がある程度の政務をこなしていたのではないかとする説が近年では出されており、もし、そうであるならば、織田家(織田弾正忠家)の家督は「長子相続」と言う形で織田信長に担保されていたわけでも無かったことになる。
実際、信秀の葬儀でも、かの有名な仏前に投げつけた焼香の代表されるように信長の非常識な振る舞いに対し、
『きちんとした肩衣・袴をお召しになって、礼にかなったご作法』
(『信長公記(上)』太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)
の勘十郎は、家中の評判が良かった。
このような状況下、勘十郎には付家老として織田家(織田弾正忠家)中でも武断派で有力家臣であった柴田勝家・佐久間盛重が付けられた。
勘十郎が、この時期の自らの位置をどう見ていたのか?それを伝える史料は無い。
弘治元(1555)年に、異母弟の織田秀孝(喜六郎)が、叔父で守山城城主・織田信次の家臣たちにより誤殺されると、怒りに任せた勘十郎は守山城下を焼き払ってしまうという激しい一面もあった。
この時、信長は秀孝が誤殺されたのは「秀孝に非があった」としている。
また、この頃から織田氏家督を、「大うつけ」の信長ではなくて勘十郎に相続させようという動きが、林秀貞・林美作守・勝家らの間で出て来るようになる。
織田勘十郎(織田信勝)、織田信長と対決する
弘治2(1556)年5月26日、林美作守は織田信長暗殺を企画するが、林秀貞に諌止され中止する。しかし、林兄弟の暗躍により尾張国下四郡内で反・信長工作が進む。
そして8月、織田勘十郎は、秀貞や柴田勝家らに擁立されて、織田氏家督を巡って謀反を起こす(『稲生原合戦』)。
(稲生原合戦場跡)
数の上で合戦を優位に運ぶかに見えた勘十郎軍であったが信長軍の奮戦も凄まじく、遂に合戦は信長軍の勝利に終わる。
しかし、稲生原での合戦が敗北してもなお、勘十郎は末森城に篭城し徹底抗戦の構えを見せた。信長も、勘十郎側の城を攻囲し圧力を加え続けた。
この様相に、母・土田御前が信長に詫びを入れたことで特に赦され一命を助けられる。
織田勘十郎(織田信勝)、織田信長に騙し討ちされる
織田信長の前に敗北した織田勘十郎は、なおも家督を目指した。
軍事的には龍泉寺に築城し、外交的には尾張国上四郡を支配する織田伊勢守家の織田信安と連携することで信長への抵抗を試みている。
その上で、津々木蔵人を重用し信長への謀反を企てていた。
このような勘十郎の節操の無さを見て遂に柴田勝家は勘十郎に見切りをつけ、信長に勘十郎の謀反計画を密告したのである。
弘治3(1557)年、信長は病に臥し一切の公務に就かなかった。
信長の病状を心配し案じる土田御前や勝家らの熱心な勧めを受け、勘十郎は清須城に信長を見舞う。
(清須城跡)
しかし、清須城北櫓にて、信長の命令を受けた河尻秀隆等の手で殺害される(別説では切腹したともされる)。
信長の病気は仮病であり、信長が巧みに仕組んだ計略の前に勘十郎は命を落としたのであった。
織田勘十郎(織田信勝)とは
織田勘十郎(織田信勝)は、当時(戦国時代)の社会的通念に適った人物であった。
織田信秀没後の家督後継者に、「うつけ者」の織田信長では無く、同母弟の勘十郎を擁立しようと家臣たちが考えるのも無理は無かった。
同時に、この頃、尾張国統一戦に奔走していた信長にとっても、同母弟である勘十郎は信頼出来る片腕として活躍を期待していたはずであった。
つまり、「反・信長派」と「信長派」の双方から期待される存在が勘十郎だった。
だからこそ、信長は、土田御前の執り成しがあったにせよ『稲生原合戦』で勘十郎を赦したのである。
しかし、勘十郎が尾張国上四郡の織田伊勢守家と結んだことで信長は自らの作り上げようとする世界から勘十郎を永遠に排斥することを決めた。何故ならば、勘十郎が生き続ける限りは反・信長勢の旗頭として利用されるからである。
同母兄の織田信長を「うつけ」として嘲っていたものの、「家督」と言う地位に執着し、自分のことを褒め称える周囲の声に我を忘れた時、皮肉なことに織田勘十郎自身が「うつけ」となっていたのである。
織田勘十郎(織田信勝)の系図
《関係略図》 織田信秀 │ ┝━━━━┳信長 │ ┗勘十郎━━津田信澄 │ │ 土田御前 │ │ 明智光秀━女子
織田勘十郎(織田信勝)の年表
- 天文21(1552)年3月3日織田信秀、末森城で死去(天文18、20年説あり)。
- 弘治元(1555)年6月守山城下を焼き払う。
- 弘治2(1556)年8月24日『稲生原合戦』。
- 弘治3(1557)年11月2日殺害される。