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前田利春について
【名前】 | 前田利春 |
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【読み】 | まえだとしはる |
【別名】 | 前田利昌 |
【通称】 | 蔵人・縫殿助 |
【法名】 | 休岳道機 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 永禄3(1560)年 |
【時代】 | 戦国時代 |
【出仕先】 | 織田弾正忠家・前田家本宗 |
【職能】 | 尾張国荒子城城主 |
【父】 | 前田利隆 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 前田右馬允 |
【配偶者】 | 竹野氏(長齢院妙久) |
【子】 | 前田利久・前田利玄・前田安勝・前田利家・前田良之(佐脇良之)・前田秀継・女子(寺西九兵衛室) |
【養子】 | まつ |
【家】 | 荒子前田家(前田家分家) |
【氏】 | 前田氏 |
前田利春の生涯
前田利春の生い立ち
前田利春は、前田利隆の子として生まれる。
ただし、利春の父とされる利隆に関してははっきりとした経歴や系譜が不明となっている。このため、利春を以って実質的な前田家の始祖とする見方もある。
婚姻時期は不明ながら、妻には、竹野氏の娘(長齢妙久)を迎えている。
子供には、前田利久・前田利玄・前田安勝・前田利家・前田良之(佐脇良之)・前田秀継等がいる。
ただし、これら利春の子たちが全て竹野氏の娘(長齢院妙久)を母とするのかは不明である。
前田利春と織田家
前田利春は、天文年間(1532~1555)には、林秀貞(林通勝)の組下とされている。
ただし、利春の居城とされる荒子城は、前田家本宗(前田与十郎家)が城主として入っていたことから、当時の利春は前田家本宗に仕える重臣、あるいは、城代クラスの立場であったと考えられる。
《天文年間の荒子城》 尾張国守護 斯波義統 ↓ 尾張国守護代 織田信友(織田大和守家) ↓ 奉行 織田信秀(織田弾正忠家) ↓ 家臣 林秀貞 ↓ 土豪 前田家本宗(前田城・荒子城) ↓ 分家 前田利春(荒子城)
前田家本宗は、前田城を拠点としていた一族である。
(前田城跡)
利春の代の荒子前田家は、尾張国下四郡の三奉行のひとりであった織田信秀(織田弾正忠家)の家臣である林秀貞(林通勝)に、前田家本宗を通して臣従していたことがわかる。
(前田城と荒子城との位置関係)
因みに、利春と信秀は、ほぼ同世代と考えられ、新しい考えを持った信秀の姿に、利春は大いに感じ入るところがあったのかも知れない。
ただ、利春と信秀に直接の面識があった可能性は極めて低いように思われる。
利春の妻の長齢院妙久の姉妹は篠原一計と婚姻し娘をもうけていたが、一計が亡くなったことで、高畠直吉と再婚することになる。
その際、利春は、行く宛の無くなった妻方の姪に当たるまつを養女として迎える。
直吉は、尾張国守護斯波義統の家臣筋とも言われる人物であり、そのような強力なコネを持つ人物と義兄弟となれるのであれば、まつを養女として引き受けるのも容易いことだったのかも知れない。
天文19(1550)年のことである。
《まつと荒子前田家》 前田利春 │ ┝━━━━━━━━┳利家 │ ┗まつ(養女) │ ↑ 竹野氏┳━━女子(長齢院妙久) │ ┃ │ ┃ 篠原一計 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━━━━━━━まつ ┃ │ ┗━━女子 │ 高畠直吉(再婚)
まつは、後に四男・前田利家の妻となる。
前田利春と織田信長
天文20(1551)年、前田利春は、四男の前田利家を織田信長の近習として出仕させている。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
また、五男の前田良之(佐脇良之)も信長に出仕している。
この辺りは、信長の老職であった林秀貞(林通勝)から信長に近習する同年代の若者の出仕を求められ前田家本宗を通して行われたものだった可能性もある。
ただ、当時の信長は、
『三郎信長公を例の大うつけよと執々評判候』
(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)
と言う有様であったので、利春が信長の将来性を見込んで進んで息子たちを出仕させたものなのか、出仕を迫られたために渋々出仕させたものなのか、利春の考えを知る史料は残されていない。
利春が信長に出仕させている息子たちが、四男・五男と言うところを見ると、後者であった可能性が高いようにも考えられる。
ところが、信秀が没して以降の天文23(1554)年になって、今川義元が軍勢を西三河へ動かしたことで事態は急変する。
この義元の動きを受け信長は、今川軍に対し、織田弾正忠家中のほぼ全兵力を使い攻撃を加えることに決めたのである。
そして、織田弾正忠家中の全兵力を動員することで、兵力が手薄となる尾張国の防備を、信長は妻・濃姫の実家である美濃国の斉藤氏に任せることにする。
この信長のあまりにも大胆とも無謀とも言える考えに、秀貞(通勝)は弟の林美作守と共に猛烈に反発する。
そして、秀貞(通勝)と美作守の兄弟は、信長の下で出陣することを拒否し、組下の前田家本宗の荒子城に籠もることになる。
『林新五郎其弟林美作守不足を申立林與力あらこの前田與十郎城へ罷退候』
(『信長公記』国立国会図書館デジタルコレクション)
(荒子城跡)
利春が前田家本宗を通して組下となっていた秀貞(通勝)は、織田弾正忠家の家督後継者として、信長よりも、信長の同母弟である織田勘十郎(織田信勝・織田信行)を強く推していた人物である。
実際、この後、織田弾正忠家中は、家督相続を巡り家中を二分する紛争が生じるが、その信長と勘十郎(信勝・信行)との争いの中で、利春が、いかに行動したのか?その一切は不明である。
前田利春と前田家
織田信長と織田勘十郎(織田信勝・織田信行)との対立は、遂に武力衝突に至る。
『稲生原合戦』の勃発である。
合戦は、数の上では劣勢であった信長が勝利を収める。
この結果、詳細な理由は不明であるが、後の展開から推測するに、前田家本宗は荒子城から放逐され、信長から前田利春に荒子城が与えられたようである。
恐らく、前田利家の活躍の賜物であろうと考えられる。
その利家は、永禄元(1558)年に、まつと婚姻する。こうして、荒子前田家は順風満帆に進むかと思われた。
ところが、永禄2(1559)年、利家は、信長の不興を買い出仕停止となってしまう。
利春は、利家の将来を案じながら、永禄3(1560)年に死去する。
前田利春のまとめ
前田利春は、日本史上では「前田利家の父」と言うこと以外には具体的な事績がはっきりしない人物である。
前田氏は、美濃国安八郡から尾張国愛知郡に移住したとも言われる一族である。
そうして、尾張国に拠点を築いた前田家本宗の下で前田家の分家(荒子前田家)の当主であった利春は、前田家本宗の人物を城主に迎えながら、その配下で荒子城に入っていたものと見られる。
それが、織田弾正忠家家督争いの内紛における前田利家の働きの結果、利家の父である利春が荒子城の城主に据えられたと思われる。
荒子城の城主となってからも利春の具体的な動静は一切見えて来ない。
だが、利春が利家を織田信長の近習として差し出したことで、荒子前田家の分家としての命運を一気に変えてしまったのである。
そして、利春は、その後も大きな過失を犯すこと無く、与えられた尾張国荒子の所領2000貫を守り抜き、その所領を子の前田利久に伝えたのである(利久は、利春の死後に信長から迫られ、前田家家督を利家に譲る)。
戦乱の時代、大小に関わらず多くの領主がそうであったように、前田利春もまた無事に所領を子に伝えると言う本懐のために生きた人物であることに間違いないのである。
前田利春の系図
《前田利春系図》 前田利隆┳利春━━┳利久 ┃ ┣利玄 ┃ ┣安勝 ┃ ┣利家 ┃ ┣良之 ┃ ┣秀継 ┃ ┣女子 ┃ ┗女子 ┗右馬允
前田利春の墓所
居城だった荒子城の近くにある寺院・観音寺に前田利春は眠る。
(観音寺)
利春が存命だった天文5(1536)年に、観音寺の多宝塔が再建されている。この再建が、利春に拠るものか、前田家本宗に拠るものか、確かなことは判らない。
ただ、この多宝塔は、利春の時代から今日まで伝わる多宝塔で重要文化財の指定を受けている。
利春と前田利家が、その目にしたであろう多宝塔を現在を生きる我々も見ることが出来る。
前田利春の年表
- 天文7(1538)年四男の利家、誕生(異説あり)。
- 天文19(1550)年まつを養女に迎える。
- 永禄元(1558)年利家、まつと婚姻。
- 永禄3(1560)年7月13日死去(10月説あり)。