濃姫【有名人なのに謎だらけ!織田信長の妻!】

濃姫について

【名前】 濃姫
【読み】 のうひめ
【法名】 不明(「養華院」説あり)
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 戦国時代
【父】 斎藤利政(斎藤道三)
【母】 不明
【異母兄弟姉妹】 斎藤義龍 等
【配偶者】 織田信長
【子】 無し
【氏】 斎藤氏

濃姫の生涯

濃姫の生い立ち

濃姫は、斎藤利政(道三)の娘として生まれる。

濃姫は、実名も誕生年も没年も全く未詳の女性である。

濃姫と言う呼び名も「美濃の姫」程度のもので、便宜的な呼び名でしか無いが、他には「斎藤氏」以外に呼び方が無い。『美濃国諸旧記』では実名を「帰蝶」としているが、濃姫の生きた同時代には実名を「帰蝶」とする確かな史料は存在していない。

濃姫の母は、小見の方と言われる。この小見の方については、「明智光継の娘」とも「明智光綱の娘」ともされるが、こちらも、後世の軍事物や小説等の信用の出来ない創作物と巧妙に入り組んで伝えられるもので、はっきりしない。

誕生年としては、天文4(1535)年とする説があるものの確証的では無い。

濃姫、「うつけ者」に輿入れする

天文17(1548)年、紛争状態にあった美濃国の斎藤利政と尾張国の織田信秀との間に、平手政秀の努力で講和が成立する。

その講和条件のひとつとして、利政の娘の濃姫を、信秀の子である織田信長に輿入れさせることとなった。濃姫が信長に輿入れすることとなった要因は、利政と信秀との間に、成立した講和の条件のひとつとしてであった。即ち「政略結婚」である。

濃姫の婚姻に関しては、天文15(1546)年に土岐頼純の室となったとする説がある。この婚姻も、斎藤利政と頼純との講和条件のひとつであったとされており、濃姫は、利政にとって「政治の駒」に過ぎなかったとも見受けられる。なお。頼純は、濃姫が輿入れした翌年に亡くなっている。

こうして、天文18(1549)年、濃姫は織田信長に輿入れする。

濃姫が信長の下へ輿入れした時期は、天文18(1549)年の春とされる。別説として、講和成立直後の天文17(1548)年のこととも言われ、濃姫は輿入れの正確な時期もはっきりしないのが実情である。

当時の信長は那古野城を拠点としており、濃姫は那古野城に入ったものと思われる。

那古野城
(那古野城跡 写真は名古屋城)

信長との新婚生活であるが、当時の信長の生活について『信長公記』は、朝夕には乗馬し、春から秋までは水泳で肉体を鍛え、さらに、兵法や弓・鉄砲を学び軍事学を身につけることに勤しんでいたようである。

一方で、この時期の信長は、髪は茶筅曲げ、半袴、体にいろいろぶら下げ、町中の路上で飲食し、連れの肩にぶら下がって歩くと言う姿で領内を出歩いていたことから「大うつけ」「うつけ者」と呼ばれていた。

信長のうつけぶりを見て濃姫がどう思ったのか?何も史料は残されていないが、案外、父の利政に通じるところを感じ取ったかも知れない。

濃姫の父・斎藤利政と織田信長

濃姫の輿入れから間もなく、織田信長の父の織田信秀が死去する。

織田信秀の没年に関しては、「天文18(1549)年」・「天文20(1551)年」・「天文21(1552)年」等の諸説がある。

「反美濃」路線から「親美濃」路線へと舵を切った信秀の死は、織田家(織田弾正忠家)中に不穏な動きがあった可能性も推測されるところであるが、そのような状況下、濃姫がどう過ごしていたのかを知る史料は無い。

そして、信秀の死の直後、斎藤利政は、織田氏との同盟を継続する意味があるかどうか、また、婿である信長の調査も兼ねて信長と正徳寺で会見している。

この会見の結果、利政は信長の人となりに一目置くこととなる。そして、家督を子の斎藤義龍に譲り、自らは出家し「道三」を号する。

ここに尾張国も美濃国も世代交代したのである。

その後の濃姫

斎藤利政(道三)は、弘治2(1556)年4月、斎藤義龍に討たれるが、この時、織田信長は利政救援のために美濃へ向け出兵している。だが、信長の援軍は間に合わなかった。

利政の死後、濃姫は、利政の肖像画を描かせて、美濃国の常在寺へ納めた上で供養したとする説もあるが確証は無く、さらに、これ以降、濃姫には、このような伝承すら無くなる。

こうして、父の斎藤利政の最期と共に、濃姫もまた日本史の表舞台から姿を消したのである。

濃姫とは

濃姫は、戦国時代の女性として知名度は抜群に高い。

だが、それは映画やドラマ、小説で創り出された濃姫であって、濃姫の実像は全くの不明である。濃姫が広く知られるのは、「織田信長の妻」となったからに過ぎない。

このため、古来から様々な書物や記録の中に、濃姫の実像が捜し求められて来た。

『言継卿記』中の「信長本妻」を指して、これを濃姫のことを意味すると見る説もある。しかしながら、公家社会では、源師子のように「嫡子を出産した妻」のことを「本妻」と表記する例が見られることから、『言継卿記』の記述を以って、濃姫とするのは無理があると言われる。

ただし、この「信長本妻」の記述がある永禄12年には、信長の嫡男の生母である生駒氏は既に亡くなっている。

『氏郷記』中の「信長公御台」や、今井宗久の手紙に書かれた「信長御台」のことを、濃姫と解釈する説も出されているが、そもそも、当時、濃姫を「御台」と呼んだ確かな史料が存在していない。

また、大徳寺総見院墓地にある「養華(院)」と刻まれた石塔を濃姫の墓とする説もあり、この説では、慶長17(1612)年に没したことになる。だが、これも石塔以外の確かな史料に濃姫の法号を養華院とする史料が無い。

「父の斎藤道三の死と共に里へ送り返された悲劇の濃姫」、「夫の織田信長と共に生き本能寺で最期を迎えるまで戦い続けた濃姫」、「世の移ろいに身を置いて徳川家康が江戸に幕府を開くのを見届けた濃姫」等々・・・濃姫については諸説ある。

史実の濃姫が、どのような女性であったのかは謎である。

けれども、多くの日本人の心の中に、それぞれの濃姫が存在し続ける限り、濃姫もまた様々な姿で生き続けるのである。

濃姫の系図

《関係略図》

 斎藤道三━━濃姫
  │     │
  │     └───┐
  │         │
  ┝━━━━義龍   │
  │         │
 稲葉氏        │
            │
 織田信秀       │
  │         │
  ┝━━━┳信長   │
  │   ┃││   │
  │   ┃│└───┘
  │   ┃└────┐
  │   ┃     │
  │   ┗勘十郎  │
  │         │
 土田氏        │
            │
        ┌───┘
        │
        ┝━━━━━━┳信忠
        │      ┣信雄
        │      ┗五徳
        │
       生駒氏

濃姫の年表

年表
  • 天文17(1548)年
     
    斎藤氏と織田氏との間に講和成立。
  • 天文18(1549)年
     
    織田信長に輿入れ。
  • 天文21(1552)年
    3月3日
    織田信秀、死去。
  • 天文22(1553)年
    4月
    斎藤利政、信長と会見。
  • 天文23(1554)年
     
    斎藤利政、家督を斎藤義龍に譲る。
  • 弘治元(1555)年
    11月
    斎藤利政(斎藤道三)、義龍と義絶。
  • 弘治2(1556)年
    4月20日
    斎藤利政(斎藤道三)、義龍に討たれる。