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木下吉隆について
【名前】 | 木下吉隆 |
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【読み】 | きのしたよしたか |
【通称】 | 半介・正元・吉種・吉俊 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 慶長3(1598)年 |
【時代】 | 安土桃山時代 |
【位階】 | 従五位下 |
【官職】 | 大膳大夫 |
【出仕先】 | 羽柴氏家臣・豊臣氏家臣 |
【父】 | 不明 |
【母】 | 不明 |
【氏】 | 木下氏 |
木下吉隆の生涯
木下吉隆の生い立ち
木下吉隆の出自に関しては一切が謎である。
「木下」姓を名乗っているが、木下家定等との関係は不明。また、いつ頃から羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣となったのかも不明である。
木下吉隆、「文武両道」の武将
木下吉隆の動静が見えるのは、秀吉が『賤ヶ岳合戦』において柴田勝家を破り、織田信長の後継者として天下に名乗りを上げた天正11(1583)年からである。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
言い換えれば、秀吉が優秀な人材を求めていた時期に、吉隆の動きが見られるようになる。
発行時期は不明ながら、村井貞勝と共に署名した北野社宛の朱印状等が出される等、吉隆は、右筆、または、奉行として秀吉に近い立場で活躍していたことが判る。
文禄元(1592)年の『文禄の役』の際にも、右筆として参加しているが、一方で兵1500を率いて馬廻衆組頭として名護屋城に布陣する等、武将としての一面も見せている。
木下吉隆と豊臣秀吉
文禄2(1593)年には、『文禄の役』で朝鮮で失態を演じて大友吉統(義統)が豊後国の領地を召し上げられると、旧大友領が豊臣家直轄領となると、その内から2万5000石(後に3万5300石)を与えられる。
ただし、これが、木下吉隆に所領として与えられたものなのか、それとも、秀吉の直轄領の一部の代官として任されたものなのかは、はっきりしない。吉隆と同時期に、太田一吉、垣見一直、熊谷直盛、木村清久等が、豊後国内の地域を分割する形で、それぞれ任されている。
同年10月には、従五位下、大膳大夫に叙任される。
こうして、文禄2年から同3(1594)年に掛けての吉隆は、秀吉からの信用も厚く、言わば、秀吉の「秘書室長」のような立場にあったものと見られている。
木下吉隆と『豊臣秀次事件』
だが、その木下吉隆の人生を大きく狂わせる事件が勃発する。文禄4(1595)年7月、秀吉は、謀反の動きがあるとして豊臣秀次を捕縛したのである。
秀次は尋問を受けるために聚楽第から伏見城下にある吉隆の屋敷に収監されることとなる。
この時、吉隆と秀次との間でどのようなやり取りが行われたのかは不明である。吉隆が秀次を自分の屋敷に留置したのは、秀吉の命令であるが、このことが、吉隆の運命を大きく変えることとなる。
秀次の高野山への追放が決まると、吉隆は、その移送任務を命じられる。こうして、同月8日、吉隆は、秀次を高野山へと連行する。
ところが、高野山に到着するや、吉隆も秀次の謀反に加担したとして捕縛されてしまうのである。そして、所領を没収された上で薩摩国への流罪に処され、島津義弘の監視下に置かれる罪人となる。
慶長3(1598)年3月、盛大な醍醐の花見を終えて間もなく、秀吉は吉隆に死を命じる。こうして、秀吉からの命令を受けた吉隆は、同月20日、自刃するのである。また、別説としては、島津氏の手で処刑されたとも伝えられる。
木下吉隆とは
木下吉隆は、豊臣秀吉が天下統一を行う過程において主として事務方で活躍した人物と見られる。
その吉隆は、文禄4(1595)年の『豊臣秀次事件』を原因として失脚してしまう。この吉隆の失脚については、石田三成が吉隆を秀吉に讒言したことが原因とする説もある。
しかし、三成の讒言と言うよりも、文禄2(1593)年に、豊臣秀吉の後継者である拾(豊臣秀頼)が誕生したことが大きく影響した結果と見た方が自然ではないだろうか。
秀吉の政治的な後継者として関白の秀次がいる一方で、豊臣家の後継者として拾が誕生したことで、後継者が二重に存在することとなったのである。二重の後継者を一本化する新体制の構築過程で、豊臣家の従来の体制を支えて来た吉隆には、家中、諸大名の支持も集まりやすく、吉隆がキャスティングボードを握りかねない状況でもあった。秀吉としては、これを看過する訳にはいかなかったのではないだろうか。
そして、もうひとつは、吉隆の出仕時期が不明であることに象徴されるように、吉隆は、秀吉の人材登用策の中で集められた「中途採用組」であった点も関係しているように思われる。
既に、文禄4年頃の時点では、三成や大谷吉継、加藤清正、福島正則と言った子飼いの人材が秀吉の下で、秀吉個人を崇拝し絶対的な忠誠を誓う「生え抜き組」として、あらゆる場面で充分に活躍出来るほどになっていたことも影響していたものと思われる。
これらの理由から吉隆は失脚し粛清されたのではあるまいか。
豊臣家内部の後継者問題、豊臣家家臣団の性質の変化等が、木下吉隆の人生を大きく揺るがしたと言えよう。しかしながら、主君の豊臣秀吉から理不尽な遠流に処されても従い、さらに秀吉から死を命じられても、それを受け入れた吉隆は、悲劇の人であったと同時に真の忠義の人であったと言えるのではないだろうか
木下吉隆の系図
不明。
木下吉隆の年表
- 文禄元(1592)年4月12日『文禄の役』。
- 文禄2(1593)年8月3日豊臣秀吉に拾(豊臣秀頼)が誕生する。
- 10月3日従五位下、大膳大夫。
- 文禄4(1595)年7月3日『豊臣秀次事件』。
- 7月8日豊臣秀次、高野山へ追放。
- 7月15日秀次、自刃。
- 慶長3(1598)年3月20日自刃(または、処刑)。