藤原為長【有能な役人の藤原為長がブチ切れた理由とは】

藤原為長について

【名前】 藤原為長
【読み】 ふじわらのためなが
【法名】 不明
【生年】 不明
【没年】 寛和2(986)年
【時代】 平安時代
【位階】 従五位上
【官職】 陸奥守兼検非違使大尉兼左衛門府大尉
【父】 藤原雅正
【母】 藤原定方の娘
【同母兄弟姉妹】 藤原為頼・藤原為時
【配偶者】 藤原忠幹の娘
【子】 藤原通経・藤原公経・藤原信経・藤原頼経・文覚(『平治物語』国民図書 校注)・女子(大江通景室『豊原寺縁起』)
【家】 藤原北家良門流
【氏】 藤原氏
【姓】 朝臣

藤原為長の生涯

藤原為長の生い立ち

藤原為長は、藤原雅正の子として誕生する。

為長の誕生した年は不明である。

母は、藤原定方の娘と伝えられる(『尊卑分脈』)。

同母兄に藤原為頼、同母弟に藤原為時がいる(『尊卑分脈』)。

為長の幼少期や青年期の動静については一切が不明。

どのような経緯をして、官人となったのかは、よく判らない。

ただ、令外官の勘解由使として長期(12年間)に渡り職務をこなした実績を有しており、為長は、実務官人であったことが窺える。

『勘解由判官十二ヶ年』

(『小右記』国立国会図書館デジタルコレクション)

なお、勘解由判官は、四等官中の三等官に当たる。

その後、天元5(982)年2月、為長は、検非違使大尉に任命される。

検非違使庁
(検非違使庁)

こちらも、検非違使の四等官中の三等官と言う位置付けであった。

為長の検非違使としての働きぶりは、

『一道成業者』

(『小右記』国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う評価を得ていることからも判るように、為長は、官人として実務に秀でた極めて優秀な人物であったことが窺える。

因みに、同母兄弟の藤原為時は、永観2(984)年に蔵人となっている。

そして、寛和元(985)年4月には、為長は、陸奥守を兼任している。

藤原為長の寄進

永観2(984)年、元三大師として著名な良源が、延暦寺西塔に宝幢を建立しようと計画する。

延暦寺西塔
(延暦寺西塔)

しかし、資金が不足していた。

その良源に対して、藤原為長は書状を送る。

『奥州刺史藤爲長送書信』

(『慈慧大僧正傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

内容は、最近、国分寺から賊が金泥大般若経を盗み出して焼き、さらに、黄金を奪う事件が発生したものの、自分が無事に追捕したと言う。

そして、寺主の許可を貰って、

『得黄金卅二兩也』

(『慈慧大僧正傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

黄金32両を得たので、

『造塔不足之金』

(『慈慧大僧正傳』国立国会図書館デジタルコレクション)

その黄金32両を、不足している資金の足しにして欲しいと言うものだった。

そして、実際に、黄金を寄進している。

ただ、この寄進話は、一見すると美談のようであるが、そもそも国分寺の黄金である以上、いくら寄進の許可を得たと言っても国分寺に返納するのが本来のあるべき姿であろう。

藤原為長の和歌

藤原為長は、和歌の才もあったようで歌が二首残されている。

『たけくまの松を見つつやなぐさめむ君が千年の影にならひて』

(「捨遺抄」『捨遺和歌集』国立国会図書館デジタルコレクション)

この『捨遺抄』の歌は、『捨遺和歌集』では同母兄の藤原為頼が陸奥守の時の歌とされている。

しかし、この歌の題詞には、

『陸奥守にてくだり侍りける時、三條太政大臣餞り侍りしければ』

(『捨遺和歌集』国立国会図書館デジタルコレクション)

とある。

三條太政大臣の時期に、陸奥守だったのは、為頼では無く為長である。

『後拾遺和歌集』にも、為長の歌が一首掲載されている。

『松みれはたちうきものをすみの江のいかなる浪かしつこころなき』

(『後拾遺和歌集』国立国会図書館デジタルコレクション)

ただ、『後拾遺和歌集』については、勅撰集としての評価が低いことで知られる。

藤原為長、ブチ切れる

寛和2(986)年4月、藤原理兼が備前国御野郡にある鹿田荘で狼藉を働く事件が勃発。

備前国御野郡鹿田荘
(備前国御野郡鹿田荘)

このため、理兼の捕縛、及び、犯罪行為の解明のために、陸奥守兼検非違使であった藤原為長が鹿田荘へ派遣される。

さらに、鹿田荘からの運上米を検査した上で封印し京まで搬送する任務を託された。

『遣撿非違使左衛門大尉藤原爲長』

(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

しかし、為長は、理兼を捕縛し事件を解明することは無かった。

『不勤其節』

(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

即ち、現地へ赴いてからの為長は、検非違使として働くことは全くしなかった。

それどころか、運上米を検封する任務を放棄し、逆に、

『多責陵人民。及煩鹿田御庄。所徴取米。及二千餘石』

(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

荘園で働く人民を苦しめ、荘司に暴行を働き、鹿田荘から収穫された運上米2000石を略奪すると言う暴挙に出た。

もはや、鹿田荘での為長はブチ切れ、理兼以上のやりたい放題であった。

この為長の犯罪行為は、花山天皇の知るところとなる。それぐらい、為長が行ったことは酷かったのである。

6月、京に戻った為長は召し出され、

『備前國鹿田御庄濫行糺遣使也。而不勤其濫行。庄司并國内人民等。及二千石徴取之由』

(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

鹿田荘で行った数々の悪行について厳しい尋問を受けた。

そして、まず、

『所帯兵仗没官』

(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)

と言う処分を受けたのであるが、これ以降の処罰に関する記録は残されていない。

何故ならば、為長への尋問が始まった直後に『寛和の変』が勃発したからである。

藤原為長のまとめ

藤原為長は、優秀な官人であった。

その為長の運命を変えたのが、備前国御野郡鹿田荘での出来事だった。

鹿田荘は、藤原氏の氏長者が領有する荘園のひとつである。

鹿田荘から上がる収入は、藤原氏の氏神を祀る大原野神社で行われる二季祭(春季祭・秋季祭)の費用や、藤原氏の氏寺たる興福寺で挙行される法事の費用に使われると言う藤原氏一族にとっては重要な荘園であった。

大原野神社
(大原野神社)

興福寺
(興福寺)

その鹿田荘で、何故、為長が乱暴狼藉を働いたのか。

発端は、備前守の藤原理兼と鹿田荘の荘官・荘民との間で問題が生じたことにある。

これに、時の権力者は、関白太政大臣の藤原頼忠(小野宮流)が介入しようとして失敗。

このため、為長が検非違使として、理兼を捕縛するために派遣された。

系図を見れば判るが、為長と理兼は、従兄弟の間柄である。

為長に理兼を捕縛することが、果たして可能であったのだろうか。

いくら実務に長けた為長とは言え、従兄弟の理兼を捕縛するのは、苦痛であり、自らへの辱めであると受け取ったのではあるまいか。

これ以前の為長と頼忠の関係について知る絶好の史料がある。

それは、既述の『拾遺和歌集』の為長の歌である。

歌の題詞にある「三條太政大臣」とは、誰あろう頼忠のことを指す。

即ち、為長が陸奥守として陸奥国へ下る際には、頼忠がわざわざ餞別をする等、為長と頼忠の間柄は大変親しい関係でもあった(『拾遺抄』)。

因みに、『拾遺抄』は『拾遺和歌集』の原型となった私歌集である。

為長と頼忠の仲は極めて良好だったと思われる。

だが、近年、頼忠は、同じ検非違使の藤原師頼を推しつつあったように受け取れる気配もあった。

これらの事情から、頼忠の腹の内が、為長にもよく伝わっていたことであろう。

これがために、為長は、長年守り通して来た検非違使としての矜持を投げ捨て、理兼以上の乱暴狼藉に走ったのだとすれば、為長の行動の謎は解ける。

もっとも、理兼のみならず為長がブチ切れるほどに、鹿田荘の荘司と荘民があまりにも酷かったと言う可能性も無いわけではないが…。、

いずれにしても、藤原氏にとって大切な鹿田荘で、頼忠の派遣した検非違使がメチャクチャな行動に出たのであるから、氏長者たる頼忠の面目は完全に丸潰れである。

ただ、この結果、為長の相婿である藤原兼家が氏長者に相応しいとする気運が高まった。

こうして見ると、鹿田荘で生じた一連の騒動には、黒幕がいたのではないかと勘繰りたくもなって来る。

さて、鹿田荘から京に戻った為長を待ち受けていたものは、頼忠による糾問だった。

だが、為長に最終的な処分が下されることは無かった。

為長への糾問が開始された直後、兼家が、花山天皇を退位させて、懐仁親王を皇位に即ける(一条天皇)と言う政変を実行したからである。

一条天皇
(『一条天皇像(部分)』真正極楽寺所蔵 Wikimedia Commons)

その上で、兼家は、藤原氏の氏長者の地位を、鹿田荘の一件で藤原氏一族の求心力を失った頼忠から奪い取っている。

所謂『寛和の変』である。

為長の糾問と兼家の行動との関連性は不明である。

しかしながら、為長が「氏長者」としての頼忠の権威を失墜させた事実は、この政変劇に多少なりとも影響したようには思われる。

『寛和の変』で世情が騒然とする中、為長の消息は不明となる。

恐らくは、為長が没したからであろうと察せられる。

為長の死因は不明である。

自ら死を選んだのか、それとも口封じのために殺害されたのか。

兼家が光の当たる中心へと進み出る中、為長は光の影へと消えて行った。

為長の没後、長徳元(995)年正月、為長の子である藤原信経は蔵人となっている。

それは、為長が藤原氏の氏長者に相応しいと考えていたであろう兼家の子の藤原道隆が、藤原氏の氏長者だった時代のことであった。

藤原兼家の子孫が繫栄する礎には、藤原為長のような存在がいたことを忘れてはならない。

なお、源平の時代を生きた異色な人物として知られる文覚を、為長の子とする説がある。

藤原為長の系図

《藤原為長系図》

藤原良門┳利基━兼輔━雅正
    ┃       │
    ┃       ┝━┳為頼
    ┃       │ ┣為長━━━━┳女子
    ┃       │ ┃ │    ┗文覚
    ┃       │ ┃ ┝━━━━┳通経
    ┃       │ ┃ │    ┣公経
    ┃       │ ┃ │    ┣信経
    ┃       │ ┃ │    ┗頼経
    ┃       │ ┃ │
    ┃       │ ┃ └──┐
    ┃       │ ┃    │
    ┃       │ ┗為時  │
    ┃       │      │
    ┗高藤━定方┳女子      │
          ┗朝忠━━理兼  │
                   │
                ┌──┘
                │
藤原冬嗣━長良┳国経━忠幹━┳女子
       ┃      ┗女子
       ┃        │
       ┃        └──┐
       ┃           │
       ┗基経━忠平━━師輔━兼家
                   │
                   ┝━┳道隆
                   │ ┣道兼
                   │ ┗道長
                   │
藤原鷲取━藤嗣━高房━山蔭━━中正━時姫

藤原為長の墓所

藤原為長の墓所は不明。

為長所縁の場所となると、やはり備前国御野郡鹿田荘であろう。

鹿田荘は、現在の岡山大学病院を含む一帯に該当する。

JR岡山駅からも近い。

備前国御野郡鹿田荘跡
(備前国御野郡鹿田郡跡の地図)


藤原為長の年表

年表
  • 天元5(982)年
    2月
    検非違使に任命される。
  • 寛和2(986)年
    4月28日
    備前国鹿田荘に派遣される。
  • 6月19日
    糾問される。