(『美福門院得子像(部分)』安楽寿院所蔵 Wikimedia Commons)
目次
美福門院得子(藤原得子)について
【名前】 | 美福門院得子(藤原得子) |
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【読み】 | びふくもんいんとくこ・びふくもんいんとくし・びふくもんいんなりこ(ふじわらのとくこ・ふじわらのとくし・ふじわらのなりこ) |
【院号】 | 美福門院 |
【法名】 | 真性空(真浄空・真性定) |
【生年】 | 永久5(1117)年 |
【没年】 | 永暦元(1160)年 |
【時代】 | 平安時代 |
【位階】 | 従三位 |
【官職】 | 鳥羽天皇皇后 |
【父】 | 藤原長実 |
【母】 | 源方子(越後尼公。源俊房の娘) |
【異母兄弟姉妹】 | 藤原顕盛・藤原時通・藤原長輔 等 |
【従兄弟姉妹】 | 藤原家成・藤原伊通・源師仲・藤原宗子(藤原忠通室) 等 |
【配偶者】 | 鳥羽天皇 |
【子】 | 叡子内親王・八条院(暲子内親王)・近衛天皇(体仁親王)・高松院(姝子内親王) |
【養子】 | 重仁親王(崇徳天皇皇子)・守仁親王(後白河天皇皇子) |
【養女】 | 藤原呈子(藤原伊通の娘) |
【家】 | 藤原北家(末茂流) |
【氏】 | 藤原氏 |
【姓】 | 朝臣 |
美福門院得子(藤原得子)の生涯
美福門院得子(藤原得子)の生い立ち
藤原得子は、永久5(1117)年に、白河法皇の院近臣である藤原長実の娘として、母の源方子の屋敷である八条第で誕生する。
(八条第跡)
そう言う意味では、美福門院得子(藤原得子)こそが「京都を代表する女性」と言えるのかも知れない。
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なお、三条烏丸第で誕生したともされる。
『三條烏丸第。件家故長實卿家也。美福門院降誕之地也』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
《美福門院得子(藤原得子)の父・藤原長実の関係系図》 藤原房前━魚名 │ ┝━末茂┳総継━(略)━━━隆経━顕季┳長実 │ ┃ ┣家保 │ ┃ ┣顕輔 │ ┃ ┣覚顕 │ ┃ ┗顕宗 │ ┃ │ ┗沢子 │ │ │ ┝━━━光孝天皇 │ │ │ 仁明天皇 │ 藤原宇合━女子
得子の曾祖母に当たる藤原親子は、白河法皇の乳母である。
その親子の子である藤原顕季は乳母子として、乳兄弟となる白河法皇に近侍する。
顕季は、藤原氏の主流から外れていた藤原実季(藤原北家閑院流)の養子に入り込み、国司を歴任し受領としての経済的な力を得て、公卿にまで登った人物として知られる。
《美福門院得子(藤原得子)の祖父・藤原顕季の関係系図》 藤原親子(乳母)=貞仁親王(白河天皇) │ ┝━━━━━━━顕季 │ ↓ 藤原隆経 ↓ ↓ ↓(養子) ↓ 藤原実季=====顕季 │ ┝━━━━━━━苡子 │ 藤原睦子
その顕季の子が長実である。長実も、30年近い受領生活を経て、従三位へ進み公卿となっている。
平安時代の院政期に台頭した新興勢力「院近臣(院の近臣)」が得子の背景と言えよう。
ただ、元々はどう頑張っても四位か五位が昇進の限界とされる「諸大夫」の家格でしかない。
一方、得子の母は、源方子である。
この方子は、
『母北の方は源氏の堀河のおとゞの女におはしける』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあるように、村上源氏の祖で左大臣を務めた源俊房の娘である。
《美福門院得子(藤原得子)と村上源氏の関係系図》 村上天皇━具平親王━源師房 │ ┝━━俊房━方子━得子 │ 藤原道長━尊子
得子から見れば母方の血筋を辿ると、摂関期の栄耀栄華を極めた藤原道長に辿り着く。
ちなみに、白河天皇の皇后である藤原賢子は、得子の従叔母となる。
さらに、得子の祖父である顕季の義姉妹の藤原苡子が鳥羽天皇の生母と言う関係である。
《美福門院得子(藤原得子)と藤原苡子の関係系図》 源師房 │ ┝━━━┳俊房━━方子━得子 │ ┗顕房 │ │ │ ┝━━賢子 │ │ ↓ │ 源隆子 ↓ │ ↓ 藤原尊子 ↓ ↓ ↓ ↓(養女) ↓ 藤原師実━━━━━━賢子 │ ┝━━━━━堀河天皇 │ │ │ ┝━━━鳥羽天皇 │ │ 藤原親子(乳母)==白河天皇 │ │ │ ┝━━━━━━━━顕季 │ │ ↓ │ 藤原隆経 ↓ │ ↓ │ ↓(養子) │ ↓ │ 藤原実季======顕季 │ │ │ ┝━━━━━━━━苡子 │ │ │ │ │ └──────┘ │ 藤原睦子
「平安時代」と言う乱倫の時代を生きた多くの貴族が何らかの「血」のしがらみを持つように、得子もまた「血」のしがらみを持つと言えよう。
さて、小さい頃から得子は、抜きん出て美しかったと言う。
このことから、長実は殊更、得子を「鍾愛」し、常々「そこらのつまらない人物の妻にはしない」と語っていたと伝えられる。
『たぐひなくかしづき聞えて。たゞ人にはえゆるさじ』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
長実は、得子を藤原公教と婚姻させたいと願い、その得子を妻にしたいと思っていたのは源有仁であった。
《美福門院得子(藤原得子)と婿候補の関係系図》 藤原顕季━┳長実━━━得子 ┗女子 │ ┝━━━公教 │ 藤原公実━┳実行━━━女子 ┗璋子 │ │ 後三条天皇━輔仁親王━源有仁
長実の人物像を見ると、権中納言にまで就いた人物ではあるものの、その才覚については、
『未曾有無才之人昇納言』
(『中右記』国立国会図書館デジタルコレクション)
と「未曾有の無才」即ち「かつて無いほどの前代未聞の無能」と評されるほど散々な言われようをされており、そこからは、政治的な能力に欠け、ただただ「院近臣」としての立場に頼るのみの人物であったことが窺える。
なお、得子の乳母には、藤原親忠の妻の伯耆が付けられている。
《美福門院得子(藤原得子)と乳母・伯耆の関係系図》 藤原道長━頼通━━━師実━━┳師通 │ ┗賢子(養女) │ │ │ ┝━━━━堀河天皇━━━鳥羽天皇 │ │ │ 白河法皇 │ ┝━━━忠教 │ │ 藤原永業━女子 │ │ ┝━━━━親忠 │ │ │ ┝━━━━━加賀 │ │ │ 伯耆(乳母)=得子 │ 藤原清綱━女子
得子の乳母も長実が白河法皇の院近臣としての立場であることから選ばれたように思われる。
美福門院得子(藤原得子)と藤原璋子の因縁
(『待賢門院璋子像(部分)』法金剛院所蔵 Wikimedia Commons)
藤原得子が誕生した永久5(1117)年の12月には、白河上皇の養女である藤原璋子が鳥羽天皇に入内している。
得子の父である藤原長実の母(得子から見て祖母)と、璋子の父である藤原公実の母(璋子の祖母)は、共に藤原経平の娘で姉妹である。
即ち、得子と藤原璋子は、祖母同士が姉妹の間柄と言うことになる。
《美福門院得子(藤原得子)と待賢門院璋子(藤原璋子)の関係系図》 藤原顕季 │ ┝━━━長実━得子 │ 藤原経平┳女子 ┗女子 │ ┝━━━公実━璋子 │ 藤原実季
得子と璋子の生涯を俯瞰した場合、得子と璋子、この二人の間には、どこか因縁めいたものが感じられる。
なお、璋子は、白河上皇に差配で摂関家の藤原忠通との婚姻が図られたが、璋子の性的醜聞を知る忠通の父の藤原忠実が忌避している。
(『藤原忠通像』宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
美福門院得子(藤原得子)、鳥羽上皇に入侍する
保安4(1123)年正月、鳥羽天皇は、顕仁親王に譲位(崇徳天皇)。崇徳天皇は、2月19日に即位している。
天治元(1124)年11月、崇徳天皇の母である藤原璋子に「待賢門院」号の宣下が行われる。
そして、大治2(1127)年9月、鳥羽上皇と待賢門院璋子の間に雅仁王(雅仁親王)が誕生する。
その2年後の大治4(1129)年7月、白河法皇が崩御。
絶対的な権力を有していた白河法皇が不在となったことで時代は大きく動き出す。
藤原得子の異母兄弟である藤原顕盛と藤原長輔は、白河法皇の院近臣であったが、白河法皇が崩御した後に、鳥羽上皇の院政が始まると、白河法皇の院近臣たちは排斥されることとなり、その権勢は弱体化することとなる。
こうした中で、摂関家も白河法皇との間で悪化した天皇家(皇室)との関係回復を模索し始める。
具体的には、大治5(1130)年2月、藤原忠通の娘である藤原聖子が崇徳天皇の后として立后する。
さらに、長承2(1133)年6月には、藤原忠実の娘で、忠通の同母姉である藤原勲子が鳥羽上皇に入侍すると言った具合である。
《摂関家の婚姻系図》 藤原忠実┳忠通━━━聖子 ┣頼長 │ ┗勲子 │ │ │ 白河法皇━鳥羽上皇━崇徳天皇
大きく時代が動こうとする中、8月19日、得子の父である藤原長実が死去する。
得子は、長実から二条万里小路第を相続するが、二条万里小路第こそは、長実が鳥羽上皇に対して、院御所として貸し出し提供していた邸宅であった。
(二条万里小路第)
このことから、これを契機に、得子は、鳥羽上皇に近侍するようになったのでは無いかとする説がある。
ただ、鳥羽上皇自身は、二条万里小路第を御所としては、それほど気に入ってはいなかったように窺える節も見える。
一方、長実の死に先立つ、7月に、得子の家政機関が設置され、藤原家成や平忠盛等が得子の家司となったと見られることから、長実の存命中の春頃には、得子が入侍していた可能性も考えられる。
『院女御々方有所始事云々、家司尾張守顕盛朝臣、駿河守忠能朝臣、伊豫守忠隆朝臣、播磨守家成朝臣、備前守忠盛朝臣、美作守顕能朝臣』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
『家司
忠隆朝臣、伊豫、御後見、忠弘朝臣、右馬頭、顕盛朝臣、家成朝臣、播磨守、忠盛朝臣、備前、顕能朝臣、美作守、朝隆、右衛門權佐、沙汰人
職事
宗成朝臣、權左中辨、顕親朝臣、侍従、憲俊、少将、光家、侍従、俊通、雅國、泰兼』
(『中右記』国立国会図書館デジタルコレクション)
得子の鳥羽上皇への入侍は、鳥羽上皇の乳母子で、近臣である藤原顕頼が、妻の藤原俊子(名は忠子とも)を通して行なったものであると考えられており、実際、得子の後見人は、顕頼であった。
《藤原顕頼関係系図》 鳥羽天皇┳崇徳天皇 ┗後白河天皇 │ 藤原顕頼 │ │ │ ┝━━━┳光頼 │ │ ┣惟方 │ │ ┣成頼 │ │ ┣祐子 │ │ ┃ │ │ │ ┃ │ │ │ ┃ │ │ │ ┃ ┝━━━滋子 │ ┃ │ │ ┃ └──────┐ │ ┃ │ │ ┗頼子 │ │ │ │ 藤原俊子 │ │ │ │ 藤原頼長━━師長 │ │ 平正盛━━━忠盛━━━清盛 │ │ │ 平知信━━━時信━━━時子 │ │ │ └──────┘
なお、顕頼は、待賢門院璋子の中宮職の一員でもあり、このことで後に、得子の入侍を怨んだ崇徳天皇から厳しい処分を受けることとなる。
得子が鳥羽上皇の寵愛を受け始めたと見られる時期に、先に述べたように実は右大臣の源有仁が得子を狙っており、
『右大臣密通給なむや』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
死を目前にした長実の気掛かりとなっていた。
美福門院得子(藤原得子)に牙を剥く待賢門院璋子(藤原璋子)
長承3(1134)年3月、前年に鳥羽上皇に入侍していた藤原勲子(藤原忠通の同母姉)が、鳥羽上皇の皇后となり、名を「泰子」と改める。
同年8月、藤原長実の妻の源方子が、長実の菩提を弔うために造塔供養を行なっている。
この時期になると、藤原得子は鳥羽上皇から絶大な寵愛を得ていることが方子の言葉から窺える。
『對越後尼公(略)鍾愛女子有院寵』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
こうして、得子が鳥羽上皇の寵愛を独占したことで、待賢門院璋子は不遇となるが、これは、決して、得子の責任では無い話なのである。
しかし、このことで、待賢門院璋子を生母とする崇徳天皇は、得子の兄弟三人を始めとして、得子の一族、及び、得子に近い所謂「得子派」に対して、激しい憎しみを抱き、苛烈な仕打ちを加えることとなる。
(『崇徳天皇像』宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
『兄弟骨肉皆以似勘當、兄三人』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
まず、得子の一族の藤原長輔の昇殿を停止する。
『長輔朝臣被停近習』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
次に同じく藤原時通・藤原長盛等の国務への関与を禁じる。
『備後守伯耆守停國務』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
その上で、得子の姉の財産を没収すると言う手段に打って出るのである。
『姉故金吾妻家地庄園資財雑具併被収公』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
また、得子の入侍を進めた藤原顕頼に至っては邸宅を没収されてしまっている。
『顕頼卿住所雖納、被召取用物』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
まさに待賢門院璋子からの無慈悲かつ一方的な報復と言えよう。
このように、得子に関係する人々は、待賢門院璋子と崇徳天皇から理不尽な大弾圧を受けた。
これに対して、鳥羽上皇の寵姫に過ぎない得子に為す術は、何ひとつとして無く、ただただ涙を堪えて耐えるしか無かった。
そんな得子を支えたのが、鳥羽上皇の愛であった。
『鳥羽院ハ長實中納言ガムスメヲコトニ最愛ニヲボシメシ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
得子と鳥羽皇上の絆がますます強固で揺るぎないものとなる有様に、待賢門院璋子と崇徳天皇、そして、その取り巻きたちはキレまくる。
保延元(1135)年5月、北野の馬場で騎射が行なわれた際、鳥羽上皇の皇后である藤原泰子(勲子から改名)の女房衆も見物に出かけたが、それを知った待賢門院璋子の女房衆は、同じ場に居合わせることを拒否して見物を中止している。
『皇后宮女房、至雑仕等、行向見物云云、仍女院女房見物申停舉』
(『長秋記』国立国会図書館デジタルコレクション)
待賢門院璋子と泰子の間も憎しみに満ちていたのである。
もはや、待賢門院璋子とその待賢門院璋子を取り巻く女房衆は、周囲に対する「憎悪」のみで生きていると言っても過言では無いほどの状態に自分たちを追い込んでいた。
そのような殺伐とした空気が漂う中の12月4日、得子は、叡子皇女を出産する。
『今日未時院寵人平産、件人故長實中納言女也、爲世間大慶也、女子云々』
(『中右記』国立国会図書館デジタルコレクション)
叡子皇女は、生まれて間もなく皇后である泰子の養女とされる。
何故、泰子が叡子皇女を養女に迎えたのかは不明である。
鳥羽上皇が、待賢門院璋子に苛め抜かれる得子を心配して、得子と泰子を近付けたとも考えられる。
泰子にしても、得子と泰子の弟である忠通の妻に当たる藤原宗子が得子の従姉妹であることや、かつて、天永2(1111)年に、長実が忠通に対して経営所料を寄進したこともあり、泰子には、得子への親近感があったのかも知れない。
また何より泰子自身が、鳥羽上皇へ入侍して以来、自分よりも家柄の低い待賢門院璋子から一方的に敵視され「摂関家のプライド」を傷付けられていたことも、得子に接近する要因となったのであろう。
ここに、孤独に置かれ敵意に晒され続けていた得子は、摂関家出身の泰子と連携することで、今までに無い心の平安を得るのである。
美福門院得子(藤原得子)、女御となる
保延2(1136)年4月には、得子は従三位となり、女御に等しい待遇を得る。そして、叡子皇女に対して、内親王宣下が為される。
この年の12月、藤原頼長が内大臣に就任する。
後に頼長は、待賢門院璋子と並んで、得子にとって最大の敵となる人物である。
翌保延3(1137)年4月、得子は、暲子皇女を出産する。
『今日午時許、號院女御人故長實中納言女也、平産女子、爲世間誠大慶也』
(『中右記』国立国会図書館デジタルコレクション)
さらに同月、叡子内親王は准三宮とされ、12月には、叡子内親王の着袴の儀が行なわれる。
この年、鳥羽上皇は、得子の里第として八条第を修築し、以後、京内での自らの御在所とする。
保延4(1138)年4月、暲子皇女に、内親王宣下が為される。
この年、右大臣の藤原宗忠が病気を理由に出家し、右大臣を辞職する。
『二月廿六日依病出家』
(『公卿補任』国立国会図書館デジタルコレクション)
この後、久安5(1149)年までの長きに渡り右大臣は不在であった。言い換えれば、時代を動かしていたのは「院近臣」たちであったことを意味する。
そして、保延5(1139)年5月、得子は、鳥羽上皇待望の皇子である体仁王を出産する。
『玉のおのこ宮うまれさせたまひ』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
このように、得子は、次々と鳥羽上皇との間に子を為す。いかに鳥羽上皇から愛されていたかが判る。
体仁王の乳母には、藤原清隆の妻の藤原家子(藤原忠通の従姉妹)が起用されている。
《美福門院得子(藤原得子)と藤原清隆の関係系図》 白河法皇 │ ┝━━━━堀河天皇━━━鳥羽天皇 │ │ │ ┝━━━━━体仁王 │ │ ↓ │ 藤原得子 ↓ │ ↓ 藤原師実┳賢子(養女) ↓ ┗師通━━━┳忠実━━━━━忠通 ↓ ┗家政━━━━━家子(乳母)=体仁王 │ 藤原清隆 │ 平正盛━━━┳女子 ┗忠盛
因みに、清隆は、そもそもは待賢門院璋子の院別当であった。
ところが、周囲に得子派の人々が増えるに従い、清隆は掌を返したかのように、得子への接近を図って来たのである。
言わば「節操の無い裏切り者」であっても、得子は受け入れた。
ここに、得子の人としての「器」の大きさが窺え、そのような得子の下には、これ以降も次々と人が集まって来るようになる。
そして、6月27日、体仁王は、崇徳天皇の中宮で、未だ子に恵まれていなかった藤原聖子(藤原忠通の娘)の養猶子とされた。
『みかどの御養ひ子例なきこととて』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
前例の無いことであった。
これは、得子の身分が皇后や女御では無いために行なわれたもので、体仁王の将来の即位を見据えてのものであった。
そして、さらに、聖子の実父の忠通にとっても、体仁王を娘の養猶子とすることは、極めて有意義なことでもあった。
また、聖子の父と言う立場からしても、この当時、崇徳天皇が聖子よりも法印信縁の娘で女房である兵衛佐に心を寄せ寵愛していたことに対する複雑な感情があったものと思われる。
先に、生母である待賢門院璋子を差し置いて、得子が鳥羽上皇から寵愛を受けたと言う理由で、得子の一族に酷い大弾圧を加えておきながら、自分自身は正妻以外の女性を溺愛しまくりの崇徳天皇であるが、この時、自らの行いの矛盾に気が付いていたのであろうか。
加えて、先に述べたように、得子と妻の宗子が従姉妹であること、さらに過去における忠通と長実の良好な関係は、忠通をして、得子と結ぶ要因となっていたものと考えられる。
得子からすれば、泰子(藤原忠通の姉)に続き、聖子(藤原忠通の娘)とも連携したことを意味する。即ち、摂関家との連携強化である。
7月16日、体仁王に親王宣下が為される。
同月28日には、泰子に対して、「高陽院」号が宣下される。
そして、8月17日、体仁親王は立太子し、次の皇位が約束された。
すると、頼長が体仁親王の東宮傅に任命され、清隆が同じく東宮亮に任命される。
頼長が東宮傅に起用されると言う人事の背景には、高陽院泰子が取り成した可能性が窺える。
これを機会に、得子と頼長との間を改善することが、体仁親王が治める将来の世のためになると、高陽院泰子は考えたのではあるまいか。
また、得子も頼長の学識には一目置くところであり、自分と頼長との関係が良くなくても、体仁親王のことを思い東宮傅として認めたものと思われる。この辺りは、得子の人としての度量の大きさが窺えるところである。
一方で、このような得子と頼長の関係修復の動きを不快な気持ちで見ていた人物がいる。
忠通である。
忠通は、この後、得子と頼長の離間策をあれこれと練ることとなる。
同月27日、得子は、皇太子の生母として女御となる。
『御母女御の宣旨かぶりたまふ。ねがひの御まゝなり』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
大臣家出身で無い女性が、女御となるのは、異例中の異例の出来事であった。
この人事は、先に皇后であった泰子が女院(高陽院)となったことで、「皇后」位が空位となっており、先の泰子への院号宣下は、近い将来の得子の立后とセットで為されたものであることがわかる。
つまり、得子が近い将来「皇后」に立つことを前提としての女御である。
美福門院得子(藤原得子)、国母として立后する
藤原得子は、保延6(1140)年2月、鳥羽上皇と共に熊野参詣に出る。
(紀伊国熊野)
これ以降、得子は、春になると、鳥羽上皇と共に、しばしば熊野を参詣するようになる。
もっとも、鳥羽上皇は、別途、待賢門院璋子との参詣も、しばしば行なっており、巷間言われるような「得子が寵愛を背景にして待賢門院璋子を排斥した」とするのは大きな誤りである。
9月2日、崇徳天皇に第一皇子である重仁王が誕生する。
重仁王の生母は兵衛佐であった。
『一宮(重仁)の御母の兵衛佐ときこえ給し』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
兵衛佐局は、既述の通り法印信縁の娘で、その血筋も明らかでは無く身分の低い女性であった。
このため重仁王は、崇徳天皇の第一皇子ではあるものの、そのままでは皇位に即くこともままならぬ単なる庶子でしか無いため、得子の養子とされたものである。
この時、重仁王の乳母となったのは、得子の従兄妹の家成の従兄妹に当たる藤原宗子であった。
《美福門院得子(藤原得子)と藤原宗子の関係系図》 源俊房━━方子 │ ┝━━━得子 │ 藤原顕季┳長実 ┗家保 │ ┝━━━家成 │ 藤原隆宗┳女子 ┗宗兼━━━宗子 │ 平正盛━━忠盛(得子家司)
この宗子は、伊勢平氏で得子の家司でもある平忠盛の室であり、後に「池ノ禅尼」の名で知られることとなる女性である、
こうして、崇徳天皇の皇子である重仁王は、得子派の掌中に置かれたとも言えよう。
なお、得子は、重仁王を大切に扱ったらしい。その証拠に、かつて、得子を苛め抜いた崇徳天皇が、重仁王の養母に得子が就くことに対して拒絶した形跡は見られない。
しかし、重仁王が誕生したことについて、崇徳天皇の中宮である藤原聖子は、近い将来に発生するであろう諸問題を考慮し「好ましく無いこと」として危惧している。
『おのこ君うみいだし給へれば。中宮にはまだかゝるともなきに。いとめづらしくいとゞやすからぬつまなるべし』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
永治元(1141)年2月21日、得子は、歓喜光院を造営し、鳥羽上皇臨席の下で落慶供養を行う。
同月25日、鳥羽上皇と石清水八幡宮へ参詣する。
(石清水八幡宮)
そして、3月7日、得子は准三后となる。
翌8日、鳥羽上皇と共に八条第を出て鳥羽殿へ入り、10日になって、鳥羽殿東御堂で鳥羽上皇は出家する。
(鳥羽殿跡)
5月5日には、高陽院泰子が落飾する。
ここに、高陽院泰子が「妻」としての役目を終えたことで、高陽院泰子と得子との連携は、さらに緊密なものとなって行く。
8月4日、鳥羽法皇は、得子と暲子内親王に安楽寿院領を譲り、得子領・暲子内親王領に対する課税を免除としている。
そして、11月8日、得子は、寿子皇女を出産する。
12月2日、重仁王に対して、親王宣下が行なわれる。
この親王宣下に、崇徳天皇は、我が子である重仁王の皇位と自らの将来の院政が約束されたものと解釈したことであろう。
その上で、同月7日、崇徳天皇は、体仁親王に譲位する。
『御年三つにして位ゆづり申させ給ふ』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
ところが、この時の宣命に、体仁親王は崇徳天皇の「皇太子」では無く、「皇太弟」と記されていた。
『宣命ニ皇太子トゾアランズラントヲボシメシケルヲ、皇太弟(ト)カゝセラレケル』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
このことに崇徳上皇は衝撃を受ける。院政を行えるのは「今上帝の直系尊属」のみなのである。
つまり、この宣命は、崇徳上皇の「院政」を完全に否定したものであった。このため、崇徳上皇は、鳥羽法皇のことを、ひどく怨んだ。
そして、こうするように鳥羽法皇を動かし仕組んだのは得子に違い無いと勘繰り、 崇徳上皇と待賢門院璋子の母子は、得子のことを一層激しく憎むようになる。
事実、待賢門院璋子の乳母子の法橋信朝は、日吉社で得子を呪詛した罪で捕縛されている。
(日吉大社)
12月27日、体仁親王が即位(近衛天皇)。
ここに、得子は、天皇生母、即ち、国母を以って立后することとなり、鳥羽法皇の皇后となるのである。
『御母女御殿皇后宮に立たせ給ふ。御とし廿五にや』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
この時、藤原忠子が、得子の宣旨となっている。
康治元(1142)年正月、得子を呪詛したとして、待賢門院判官代の源盛行と、その妻の津守嶋子が土佐国へ流罪となる。
『散位源盛行。并妻津守島子。及従女等配流事。右中辧源雅綱傳宣。件盛行夫婦於廣田社室前集巫女等鼓舞跳梁。尋其意況。奉呪咀國母皇后云々』
(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
このように、待賢門院璋子派は、かつて、得子に加えた酷い仕打ちの報いを受けるかのように、次々と粛清されて行くのである。
これらの粛清は、得子が主導したものと言うよりも、かつて、待賢門院璋子派に弾圧された者たちが、待賢門院璋子と崇徳上皇の先行きが無いことを確信した上で、得子の威光を利用して行ったものであろう。
そして、2月26日、自らが負うべき全ての責任から逃れるかのように現世を捨てて、待賢門院璋子は出家する。
この時期、得子は、藤原清隆の四条第を御所としていた。
既に述べたように、清隆は、かつて待賢門院璋子の院別当であった人物で、その清隆の屋敷で、待賢門院璋子の凋落を、得子がどのような思いで眺めていたのかを伝える史料は残されてはいない。
美福門院得子(藤原得子)と新たな火種
康治2(1143)年6月、雅仁親王に守仁王が誕生する。
生母である藤原懿子(藤原経実の娘)が急逝したため、守仁王は、藤原得子の養子に迎えられる。
守仁王は生来利発な皇子であったが、この後、得子の薫陶を受け、
『末の世の賢王』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
とも呼ばれるほど優れた人物に育つこととなる。
守仁王の乳母には、藤原俊子が起用された。
《守仁親王の乳母・藤原俊子》 藤原経実━懿子 │ ┝━━━守仁王→→ │ ↓ └─────┐ ↓ │ ↓ 鳥羽天皇┳崇徳天皇 │ ↓ ┗後白河天皇 │ ↓ ││ │ ↓ │└────┘ ↓ │ ↓ ┝━━━憲仁王 ↓ │ ↓ 藤原顕頼 │ ↓ │ │ ↓ ┝━━━┳光頼 │ ↓ │ ┣惟方 │ ↓ │ ┣成頼 │ ↓ │ ┣祐子━━━滋子 ↓ │ ┗頼子 ↓ │ ↓ 藤原俊子(乳母)=←←←←←←←←←←←←
このことで、守仁王と乳兄弟となった藤原惟方が得子に近付くようになる。
また、懿子の弟の藤原経宗が、同じく得子に接近するようになり、やがて、得子の家司の別当となっている。
《藤原懿子と藤原経宗》 藤原道長━頼通━師実┳師通 ┗経実 │ ┝━┳懿子 │ ┗経宗 │ 藤原公成━実季━公実━公子
こうして、惟方と経宗の二人は、以後、得子に引き立てられることとなる。
8月6日、白河押小路殿に、得子が造営していた金剛勝院が落慶する。
(白河押小路殿)
この年、忠通に長男の藤原基実(近衛基実)が誕生する。
忠通は男子に恵まれ無かったため、天治2(1125)年に、異母弟の頼長を順養子としていた。
この背景には、忠通の父の藤原忠実が、忠通よりも弟の頼長を可愛がり、頼長を後継者にしようと考えていたことがある。
しかし、基実が誕生したことで、忠通は、基実に全てを相続させようと思うようになる。このことが、忠通をして、さらに得子へと接近させるのである。
天養元(1144)年2月、得子が造営していた光堂が落慶する。
3月7日、皇太后の聖子と共に双林寺で和歌会を開催。
因みに、得子の乳母である伯耆の娘の加賀は、得子に女房として仕えているが、女流歌人としての才能もあり、後に、この加賀が藤原俊成と婚姻し、誕生したのが藤原定家である。
《美福門院得子(藤原得子)と藤原俊成・定家の関係系図》 藤原俊成 │ ┝━━━定家 藤原親忠 │ │ │ ┝━━━━━加賀 │ 伯耆(乳母)=得子
このように、得子の周囲には、和歌のサロンが形成されており、多種多様な人々との交流を得子が持っていたことが窺える。
5月8日、白河北殿が焼失する。
(白河北殿)
この白河北殿の再建は平忠盛が請け負い、早くも10月には、復興された白河北殿に鳥羽法皇と共に得子も入っている。
そして、同月28日、重仁親王の着袴の儀が、得子の白河押小路殿で行なわれる。
この頃、頼長は、得子のことを「諸大夫の女」と呼んで蔑んでいる状態にあった。このことから、得子と頼長との対立は修復不可能なものとなっていた。
もっとも、頼長の兄の忠通も、最初は得子を「諸大夫の女」と呼び蔑んでおり、利害関係から手のひらを返して得子と結び付いたのである。頼長も忠通もどっちもどっちと言える。
ただ、そのような忠通であっても、近付いてくれば拒まず話し合うのが得子であった。
久安元(1145)年3月、得子に仕える女房の春日局(美福門院春日)が、鳥羽法皇との間に女子を出産する(頌子皇女)。
かつて得子を苛め抜いた待賢門院璋子と同じ立場に得子も置かれたわけである。
しかしながら、得子が春日局(美福門院春日)に対して辛く当たったとか、春日局(美福門院春日)やその一族を冷遇するような苛めを行ったとする史料は一切無い。
それどころか、得子は、春日局(美福門院春日)と共に、鳥羽法皇を愛し続けることを是とした。
その証拠として、得子の陵墓の造成された場所が、春日局(美福門院春日)が鳥羽法皇の供養のために建立した寺院に寄り添っていることが挙げられる。このことからも、得子と春日局(美福門院春日)の二人の間には鳥羽法皇への愛を通して固い絆があったことが垣間見える。
そして、これらの事実から窺えるのは、得子は、不条理に自分を苛め抜いた待賢門院璋子の立場を深く理解し、待賢門院璋子に対しては心から同情しており、自らは待賢門院璋子のような悲しい女性にはなるまいと決心していたのではあるまいかと言うことである。
その得子の真意を知ってか知らずか、8月22日、待賢門院璋子が崩御する。
得子の入侍以来、得子のことをひたすら散々に苦しめ続けて来た待賢門院璋子の死であった。
久安2(1146)年3月19日、得子は高松殿へ入る。
『皇后宮始行啓新造高松第』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
(高松殿跡)
10月4日、近衛天皇から今は亡き外祖父に当たる長実に対して正一位左大臣を追贈し、外祖母の源方子に正一位が贈られる。
『外祖父權中納言卿贈正一位並左大臣。外祖母源方子贈正一位』
(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
久安3(1147)年、左大臣の源有仁が死去。
『二月三日出家。同十三日薨』
(『公卿補任』国立国会図書館デジタルコレクション)
先の右大臣と同じく、久安5(1149)年に、藤原頼長が左大臣に任命されるまで、左大臣は置かれなかった。
久安4(1148)年正月、顕頼が死去する。
『民部卿藤顕頼卿。煩癱疽之病萬死也』
(『本朝世紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
顕頼は、得子の鳥羽法皇入侍に動いた人物であると同時に、頼長の妻の藤原幸子の伯父でもあった。
得子には恩人であり、その死を悼んだものと想像される。
6月、頼長は、自分の養女とした藤原多子(藤原公能の娘)の近衛天皇への入内工作を行う。
翌7月、得子は、従兄妹に当たる藤原伊通の娘の藤原呈子を養女とする。
この時の得子の真意は不明であるが、当時、呈子を得子が養女としたのは、雅仁親王の室にするためとの噂が流れた。
同月、法性寺最勝金剛院の落慶供養に、鳥羽法皇・近衛天皇・暲子内親王と共に列席する。
12月8日、叡子内親王が薨去する。
この叡子内親王を出産してから得子の人生は、大きく浮上して来たようなものであることから、得子の悲しみは、とても大きく深いものであったと想像される。
久安5(1149)年3月20日、延勝寺の落慶供養に鳥羽法皇・聖子と共に臨席する。
8月3日、得子に対して「美福門院」号の宣下が為される。この時、平忠盛が美福門院別当となっている。
同月10日、美福門院得子は、白河殿から内裏へ向かう。
この時仕立てられた美福門院得子一行の華麗な行列は、鳥羽法皇も見物に出るほどのものであった。この行列で美福門院得子に付き従った公卿の中には、家成や伊通の姿もあった。
11月9日、暲子内親王と熊野参詣する。
久安6(1150)年正月、近衛天皇は、忠通を加冠役、頼長を理髪役として、東三条第において元服する。
(東三条第跡)
同月10日、頼長の養女である多子が遂に近衛天皇に入内する。さらに、同月19日、多子は女御となる。
ここに至り、忠通の頼長に対する憎しみは相当なものであった。2月11日、忠通は、美福門院得子が養女としていた呈子を、自分の養女とする。狙いは、呈子の入内であった。
この呈子入内の動きに関しては、忠通の画策とする説、そして、養女とは言え憎き頼長の娘が、我が子の近衛天皇に入内したことに激しい嫌悪感を覚えた美福門院得子の画策とする説がある。
恐らくは、美福門院得子と忠通の両者の思惑が一致し、連携して進められたのであろう。
この動きに焦ったのが忠実と頼長である。
そこで、頼長は、呈子入内前に、多子を立后させようと動く。即ち、2月20日に、鳥羽法皇に対して、自身の引退をちらつかせて嘆願し、23日には、忠実が鳥羽法皇と美福門院得子に対して、多子の立后を依頼している。美福門院得子に依頼するとは、随分とふざけた話ではあるが、25日になって、多子立后が確約される。
同月27日、聖子に対し「皇嘉門院」号が宣下される。
美福門院得子は、3月5日、法皇と共に熊野参詣へ出発する。
多子の立后問題や呈子の入内問題が渦中の最中であっただけに、この旅行中に、二人の間にどのような話し合いが交わされたか、気になるが、それは不明である。
3月14日、多子が立后する。
しかし、翌4月21日には、呈子が近衛天皇に入内し、28日には女御となり、6月22日には中宮となるのである。多子と呈子との格の違いは、あっという間に無くなったのである。
このように、美福門院得子は凄まじい巻き返しを見せた。
近衛天皇にとって、呈子は母である美福門院得子の養女であり、しかも血縁的にも近しい存在であることから、自ずと呈子の方を寵愛するようになって行く。
9月10日、美福門院得子は、鳥羽法皇と四天王寺に参詣する。
『天王寺に詣でて念仏百万遍を満すことは往生業としてはなはだ功徳があるとする思想』
(『日本古代の国家と仏教』井上光貞 岩波書店)
が院政期に流行しており、出雲聖人が百万遍念仏を行う際等には、美福門院得子も鳥羽法皇と共に四天王寺に度々参詣した。
(四天王寺)
同月26日、忠実は、忠通を義絶する。
『入道大相國(忠實)取藤原長者印并朱器大盤。渡左大臣(頼長)。此間喧嘩多端』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
そして、忠実は、忠通から東三条第を取り上げる。この時、忠実の武力装置として働いたのが、源為義たちである。
この状態に、貴族たちは混乱することとなるが、美福門院得子は、忠通に深く同情し、さらに連携を進めることとなる。
ここに至り、貴族社会は、「忠実=頼長」派と「美福門院得子=忠通」派に分断されたのである。
もっとも、美福門院得子自身は、もはや旧勢力と言える摂関家の忠通のみを頼みとしたわけで無く、元々は新興勢力たる院近臣を自身の権力の背景としていたことを忘れてはならない。
政治の趨勢が混沌とする中、心の平安を求める美福門院得子は、10月2日に、法勝寺において金泥一切経を供養している。
『美福門院於法勝寺供養金泥一切経』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
12月2日には、重仁親王の元服が小六条院で行われる(『百錬抄』は、12月1日とする)。
(小六条院)
同月8日、忠通が摂政を辞任し関白となり、13日、守仁王が美福門院得子の下で白河北殿において着袴の儀を行なう。
仁平元(1151)年正月、頼長が内覧となる。ここに「忠通の関白」と「頼長の内覧」が同時に出現する。
政治が緊迫化する中、美福門院得子は、3月5日、鳥羽法皇と共に、春の恒例行事とも言える熊野参詣に出発する。
6月に入り、内裏四条東洞院殿が放火のため焼失する。
(四条東洞院殿跡)
さらに、7月、家成の家人が頼長の使用人に暴行を加える事件が発生する。
そして、9月になると、頼長は家成への仕返しとして、家成の屋敷を襲撃するのである。この一連の騒動に、鳥羽法皇は、頼長への絶望感を覚えるようになる。
同月、美福門院得子は、鳥羽法皇と二人で共に四天王寺を参詣している。
その同じ月、忠通は、頼長が天皇の譲位計画を企図していることを上奏する。
翌10月、内裏小六条殿が放火のため焼失してしまう。相次いで内裏が焼失したために、11月、近衛天皇は忠通の近衛殿へ入る。
この年、内裏が放火のために焼失する事件が相次いだが、これは忠通の謀略であったと言われる。
つまり、近衛天皇を自分の近衛殿に確保することを目的としたもので、頼長の天皇譲位計画の機先を制する動きであった。
それに何よりも、忠通の近衛殿は、中宮呈子の本拠地であり、そこに近衛天皇が遷ることに拠って、皇后多子の立場を一層弱体化することを狙ったのである。
そして、この忠通の謀略を許可したのは、美福門院得子であった可能性も考えられる。
また、同年には、守仁王が叔父の覚性法親王の下へ入門し仁和寺で出家している。
(仁和寺)
仁平2(1152)年3月、鳥羽法皇50歳の慶賀の儀が鳥羽南殿で開催される。
(鳥羽南殿)
同月19日、美福門院得子は、鳥羽法皇と熊野参詣へ出発する。
9月には、鳥羽法皇は、美福門院得子と高陽院泰子を連れて四天王寺に参詣している。
『一院高陽院美福門院参詣天王寺。左大臣已下扈従』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
10月になると、呈子に妊娠した兆しが見えたと言うので、
『中宮令着懐妊御帯、自美福門院得子有御沙汰』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
美福門院得子は、呈子に腹帯を着けさせている。
そして、呈子が出産のために内裏を退出すると、
『被始行御祈等、自美福門院、等身御佛五體』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
安産を祈願し、美福門院得子は、等身仏5体を奉納している。
だが、この呈子の妊娠は、翌年になって実体の無かったものと判明する。
仁平3(1153)年5月、鳥羽法皇が病に臥す。
6月には、近衛天皇が体調を崩し、日毎に衰退して行く。
9月になると、近衛天皇の眼病を理由として、皇位を守仁王に譲るように、忠通が鳥羽法皇に奏上する。
忠通が頼長と同じように、我が子・近衛天皇を皇位から下ろすと言い出したことについて、美福門院得子は、どう思ったことであろうか。
久寿元(1154)年6月19日、美福門院得子は、鳥羽法皇、崇徳上皇・統子内親王と共に高松殿へ入り、待賢門院供養のための十座講説に出席。そして、同月26日に、白河殿へ帰る。
それから一ヶ月後の7月24日、今度は美福門院得子が病に臥す。
8月18日、寿子皇女に対して、内親王宣下が為され、寿子内親王は、「姝子内親王」と改名する。
9月10日、鳥羽法皇は、高陽院泰子と共に四天王寺へ参詣し、同月29日、鳥羽の馬場殿で騎馬見物をする。
久寿2(1155)年2月、春日祭へ出発する藤原師長一行を、鳥羽法皇と共に見送る。
この年、近衛天皇の病状は悪化して行くばかりであった。
5月、かつて待賢門院璋子の院別当を務め、美福門院得子が生母である近衛天皇の乳父となった藤原清隆が出家する。
『中納言清隆卿遁世、年六十四、日來不食、病悩危急之至云々』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
この清隆の出家は、近衛天皇が病気が重篤な状況となっており、その病気平癒を祈願するために出家したとも解釈出来る。
7月18日、近衛天皇の容態が悪化したため、美福門院得子は、その日の夕方に天皇のもとへ駆け付けている。
『今夕美福門院有入内御幸』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
だが、美福門院得子の病気平癒の祈りも届かず、23日、近衛天皇は崩御する。
『天皇於近衛殿崩御』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
『世の中はやみにまどへつ心ちしあへるなるべし』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
鳥羽法皇は、藤原公教・源雅定等を、鳥羽殿に召集して、後継者選択の議定を行なう。
その際、美福門院得子を深く愛する鳥羽法皇は、
『誠にや侍りけん女院(美福)の御事のいたはしさにや。姫宮(八條院)を女帝にやあるべきなどさへ計らはせ給ふ』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
『近衛院崩御之時、後白川院は、帝位韵外に御しけり、八條院をや女帝にすゑ奉るべき』
(『古事談』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、美福門院得子を母とする暲子内親王を女帝として擁立することを諮るほどであった。
この時、頼長が押し掛け議定への参加を求めたが、先に頼長の妻(藤原幸子)が死去しており、その服喪期間であったために「穢れ」を理由に参加を拒絶されている。
本来であれば、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が、皇位継承の候補者となるはずであった。ただ、生母の身分の問題は如何ともし難いものがあった。
それに、重仁親王の養母である美福門院得子は、同じく自身が養母となっている守仁王を強く推した。
『美福門院の御養ひ子にて。近衞のみかどの御かはりおぼしめして。この宮に位を譲らせ給へらん』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
美福門院得子は、守仁王の即位を強く望んだのである。
重仁親王が皇位に即くと言うことは、崇徳上皇の院政が開始されることを意味する。かつて、崇徳上皇から自身の一族に対して、不条理な言い掛かりに近い大弾圧を受けた美福門院得子にとって、そのような悪夢を繰り返すことだけは避けねばならなかったのである。
この当時、美福門院得子の下に属する公家や武家は、かつて弾圧を受けた当時とは比べようも無いほどに多くを数えるようになっており、そのような情勢で彼らの多くが崇徳上皇から弾圧を受ければ、これを恨みに思う者たちが決起し戦乱が起きかねない状況であった。
美福門院得子は、彼らと彼らの家族、そして、彼らに仕える者たちを守らねばならなかった。
そのためには、美福門院得子の考えである「守仁王を皇嗣とする」ことが、この時期の最良の策と言えた。
こうして、議定の方向としては、美福門院得子の希望通り、守仁王への皇位譲渡へと進むのであるが、守仁王が、実父である雅仁親王を飛び越して即位することは尋常なことでは無いとして、守仁王が即位するまでの間の「つなぎ」として、雅仁親王の即位が決まる。
ただ、この一連の議定には「美福門院得子の意向(守仁王の即位)」が考慮されてはいるが、美福門院得子自身が関与したわけでは無い。
かくて、翌24日、守仁王が皇位に即くまでの中継ぎとして、雅仁親王が践祚する(後白河天皇)。
(『後白河天皇像』宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
『有讓位事、新帝御所高松殿』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
天皇が代替わりしたことで、頼長の内覧は停止される。しかし、通常において、摂政・関白・内覧は、新天皇から改めて任命されるものであり、この時点での頼長に不満は無かった。
ところが、いくら日数を経ても、頼長が内覧に任じられる気配は一向になかった。
8月15日には、鳥羽法皇から美福門院得子に対して、鳥羽北殿・同南殿・得長寿院・宝荘厳院が譲渡される。
(鳥羽北殿)
(得長寿院跡)
同月27日、近衛天皇の崩御は、頼長の呪詛に依るものとする噂が流れる。
『呪咀ナリト人イゝケリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
噂は、忠実と頼長が近衛天皇を呪詛して愛宕山中にある天公像の目に釘を打ち付けさせた、と言うものである。
『宇治の左府、近衛院を呪詛し奉らるゝ』
(『古事談』国立国会図書館デジタルコレクション)
この噂は、鳥羽法皇を激怒させることとなり、以後、高陽院泰子を通して頼長が、どれほど弁明を申し入れても、一切聞き届けられることは無かった。
ここに、美福門院得子を激しく攻撃して来た頼長は、失脚するのである。
9月23日、還俗した守仁王に親王宣下が行なわれ、守仁親王は立太子する。
この頃までに、待賢門院得子の兄で、なおかつ頼長の妻の幸子の父であって、頼長に近しい存在と目されていた藤原実能は、恥も外聞も無く、美福門院得子の下へ擦り寄り、守仁親王の東宮傅となっている。実能は、後白河天皇の伯父と言う立場でもあった。
東宮大夫には、美福門院得子の姉妹の夫である藤原宗能が就いた。
なお、頼長が東宮傅の職を激しく希望していたが、相手が美福門院得子では、叶わぬ望みでしか無かった。
10月26日、後白河天皇が即位。
以後、後白河天皇は、美福門院得子に対して、朝覲行幸を行なう等、皇位に即けてくれた謝意を込めて、最大級の敬意を表することとなる。
『朝覲の行幸美福門院にせさせ給ふ。誠の御子におはしまさねども。近衞のみかどおはしまさぬ世にも。國母になぞらへられておはします』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
年末の12月9日には、守仁親王の元服が行なわれる。
そして、長年、美福門院得子と共にあった高陽院泰子が、同月16日に薨去する。
高陽院泰子は、美福門院得子と忠通の間を仲介しただけで無く、美福門院得子と忠実・頼長の間をも仲介する役割を持っていた。
その高陽院泰子が薨ったことで、忠実と頼長は完全に窮地に陥る。
美福門院得子(藤原得子)と『保元の乱』
保元元(1156)年3月、鳥羽法皇の病状が悪化する。
6月12日、美福門院得子は、落飾(法名「真性空」)する。
『女院今夕可有御遁世』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
『美福門院御出家』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
『女院は法皇の御やまひのむしろに御ぐしおろさせ給へりき』
(『今鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
同月21日に、鳥羽法皇の容態は重篤となる。
この時、北面の武士たちは、
『サテキタヲモテニハ、武士爲義、清盛ナド十人トカヤニ祭文ヲカゝセテ、美福門院ニマイラセラレニケリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
と、美福門院得子に対して忠誠を約する誓文を提出している。
鳥羽法皇が危篤となった状態下の院政、及び、朝廷を統括し得る存在は、美福門院得子のみだったのである。
7月2日、鳥羽法皇は崩御。
『今日御瞑目之間、新院臨幸、然而自簾外還御云々、渡御々塔之間、又臨幸』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
鳥羽法皇の危篤を聞き駆け付けた崇徳上皇は、御簾の外に待機させられるだけで、鳥羽法皇の死に目に会うことも叶わなず帰るより他無かった。
それについては、
『鳥羽院最後にも、惟方を召して、汝許ぞと思ひて被仰也。閉眼之後、あな賢、新院にみすなと仰事ありけり。如案新院見と被仰けれど、御遺言の旨候とて、掛廻不奉入云々』
(『古事談』国立国会図書館デジタルコレクション)
「崇徳上皇に朕の最期を見せるな」と言う鳥羽法皇の遺言が存在していたためとされる。
何故、鳥羽法皇が我が子の崇徳上皇を忌み嫌ったのか?
その原因については、説話集の『古事談』が
『人皆知之歟、崇徳院は白川院御胤子云々、鳥羽院も其由を知食して、叔父子とぞ令申給ひけり』
(『古事談』国立国会図書館デジタルコレクション)
と伝える。
即ち、崇徳上皇が、実は、白河法皇と待賢門院璋子の間に出来た皇子だったからとされる。
《白河院と待賢門院璋子の関係系図》 美福門院得子 │ ┝━━━━━近衛天皇 │ 白河天皇━堀河天皇━鳥羽天皇 │ │ │ ┝━━━━━後白河天皇 │ │ │ 待賢門院璋子 │ │ │ ┝━━━━━崇徳天皇 │ │ └─────────┘
つまり、鳥羽法皇から見れば、崇徳上皇は自分の祖父と自分の妻の間に出来た子であり、崇徳上皇は実は「叔父」であり、世間的には「子」であると言う「叔父子」なのである。
しかも、このことは、当時の人々、皆が知っている「公然の秘密」であった。
ただ、この「叔父子」については、説話集『古事談』のみが記す話であって、他に確認は出来ない。
このことから、「鳥羽法皇に崇徳上皇のことを悪く吹き込んだのは美福門院得子である」とする主張もある。
しかしながら、この「鳥羽法皇に崇徳上皇のことを悪く吹き込んだのは美福門院得子である」と言う話は、当時の公家の日記や説話集・軍記物等をどこをどう探しても一切出て来ない。美福門院得子に罪を負わせる主張こそ、男尊女卑に囚われた古臭い下衆の勘繰りであろう。
とにかく、鳥羽法皇は、ある時期から崇徳上皇に対して「肉親の情」を全く抱いておらず、「嫌悪」の感情でしか見ていなかったことだけでは事実と言える。
その後、後白河天皇と崇徳上皇との間に対決ムードが高まり、両者の間に戦闘を回避することが不可能となって行く。
そして、7月8日、『保元の乱』が勃発。
この合戦で、美福門院得子は、
『母后ノ儀』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
を以って、後白河天皇方の象徴に祭り上げられ、美福門院得子の下に、後白河天皇方に組する勢力が結集する形となっていることは、注目されるべき点である。
合戦直前になると、後白河天皇は、藤原公教・藤原光頼の2名を、美福門院得子の下へ派遣し、美福門院得子に軍事行動に関する裁断を仰いでいる。
この時、美福門院得子の下へ派遣された光頼は、顕頼の子であるので、美福門院得子とは、かねてから親しい間柄であったと思われ、後白河天皇は美福門院得子を第一と考えていたことが見える。
その結果、鳥羽法皇の遺詔を基本として、源義朝・源義康・源頼政・平信兼・平実俊を、後白河天皇方の主な戦力とすることを決した。
その上で、美福門院得子は、
『故院の御遺言也、内裏へまいるべし』
(『保元物語 平治物語 日本古典文學大系31』永積安明 島田勇雄 校注 岩波書店)
として、
『鳥羽院遺詔』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
の存在を持ち出し、平清盛へ使者を送り、清盛を後白河天皇方の陣営へと直々に召集している。
この清盛の召集は、鳥羽法皇の遺言としているが、実際は、美福門院得子の決断である。
清盛は、家成を介して、美福門院得子派として働いた平忠盛の子であり、さらに、忠盛は美福門院得子の院司を務めた人物である。
彼ら伊勢平氏が持つ本当の実力を知っている美福門院得子だからこそ下せた英断と言える。
かくて、後白河天皇方と崇徳上皇方は武力衝突に至る。結果、7月11日、後白河天皇方が勝利を収め、この日、忠通には、氏長者の宣下が為された。
14日には、流れ矢に当たり重傷を負った頼長が死亡。翌15日に、崇徳上皇方の藤原教長・藤原成澄・藤原家長・藤原盛憲・藤原経憲が、東三条殿で拷問を受ける。
その拷問で、頼長の外戚であり家司の盛憲と、その弟の経憲が、かつて、近衛天皇と美福門院得子を呪詛していたことが判明する。
戦後処理として、16日、重仁親王は仁和寺へ送られ、23日になって、崇徳上皇は讃岐国へ配流となる。
そして、この戦乱は、
『源爲義已下被行斬罪。嵯峨天皇以降不行之刑也。信西之謀也』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあるように、戦争犯罪人に対する刑罰として、藤原通憲(信西)が中心となって死罪を適用することが決められ執行された。
9月20日、鳥羽金剛心院内に新御堂が供養される。
(鳥羽金剛心院)
この新御堂は、亡き鳥羽法皇が生母のために供養するようにと言う遺言に従ったものであるが、この時期における供養に関しては、
『美福門院有御沙汰也』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
とされていることから、『保元の乱』で恐慌に陥った人心の安定を美福門院得子が図ったものとも受け取れる。
ましてや、日本では既に刑罰としては廃止されたに等しい「死刑」と言う残酷な極刑が数百年ぶりに執行されたのである。政治の差配ひとつで命を奪われる現実が目の前に出現したことに恐れおののく人々の心の安寧を、美福門院得子が第一に考えたのは当然であろう。
美福門院得子にとって、守仁親王が治める世は平穏無事でなくてはならないのである。
翌保元2(1157)年から美福門院得子は、所有していた紀伊国那賀郡荒川荘(阿良川荘)において過ごすようになったとする伝承がある。
(紀伊国那賀郡荒川荘)
それは、同荘に拠点を置く平野氏・奥氏のそれぞれの家伝が伝えるところの
『保元二年美福門院荒川の隠棲に當り供奉し』
(『和歌山県那賀郡誌 上巻』国立国会図書館デジタルコレクション)
荒川荘に帰ったと言う伝承である。
ただ、実際の美福門院得子は、隠棲どころか守仁親王の即位について京で精力的に動いており、この伝承は、同荘に美福門院得子が別業を造営し、その地に滞在する時もあったと言うことを意味するものなのかも知れない。
保元3(1158)年に入ると、美福門院得子は、後白河天皇の守仁親王への譲位について、後白河天皇の乳父の信西(藤原通憲)と極秘裏に交渉を重ねる。
鳥羽殿で船遊びが行われた際も、
『信西入道等造進御船、主上并皇后宮兩方女房乗船』
(『兵範記』国立国会図書館デジタルコレクション)
接触を重ねている。
この譲位交渉の駆け引きの中で、美福門院得子は、京を離れて紀伊国那賀郡荒川荘の別業に身を引き、あえて京にパワーバランスの不安定な状況を作り出すことで、交渉事を有利に進めようとした可能性もあったのではないかと思われる。
結果、8月11日、後白河天皇が譲位し、守仁親王が践祚する(二条天皇)。
(『二条天皇像』宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
美福門院得子の願いが成就した瞬間であった。
ただし、この交渉事は、美福門院得子と忠通との連携を警戒した信西(藤原通憲)の策謀か、あるいは、これ以上、謀略好きの忠通を関与させると事態がさらに混乱するとの美福門院得子の危惧からなのかは不明であるが、忠通は、直前まで、後白河天皇が譲位することを知らなかった。
そのためか、忠通は、守仁親王が践祚した日、自らの抗議の意を表明するかのように、関白と氏長者を、実子の藤原基実(近衛基実)に譲っている。
この後白河天皇から守仁親王への譲位が行われる直前の8月8日には、
『去夜美福門院御所、進物所人寝死』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
と言う出来事もあり、実際、不穏な情勢も含んでいたのである。
こうした情勢下の12月には、守仁親王が即位する(二条天皇)。
美福門院得子(藤原得子)の入寂
二条天皇が即位すると共に、二条天皇の側近として藤原惟方と藤原経宗が台頭し出す。
惟方と経宗のように、美福門院得子を後ろ盾とする「天皇親政」派が形成される一方で、表立って動きこそしないものの、後白河上皇を中心とする「上皇院政」派が、その対抗勢力として存在し、両者は、静かな緊張関係に入っていく。
かつて、蜜月関係にあった美福門院得子と後白河上皇の関係が周囲の流れで徐々に対立関係へと変化して行くのである。
平治元(1159)年2月、姝子内親王は、二条天皇の中宮となる。
この時期の美福門院得子は、鳥羽天皇の菩提を弔うために菩提心院を建立している。
同時に、美福門院得子には「ある覚悟」があったようで、3月に御懺法が結願を迎え、7月には東寺に命じて高野山金剛峯寺に空海直筆書等を奉納させている。
さらに、同月、令旨を以って、高野山へ紀伊国那賀郡荒川荘を寄進した上で、一切経3607巻を寄進し、六角経蔵を建立している。
『美福門院令旨
被美福門院令旨云以紀伊国荒川庄永令寄進金泥一切經蔵』
(『和歌山県那賀郡誌 上巻』国立国会図書館デジタルコレクション)
続いて、安楽寿院新塔建立のためにも荘園を寄進している。
(安楽寿院)
11月には、金剛峯寺に対して12ヶ条の令旨を出す。
美福門院得子の「ある覚悟」とは、自らの「死」への覚悟ではなかったか。この頃、美福門院得子は自身の体調の変化を感じていたのであろう。
ところが、平清盛が一門と共に熊野参詣に出かけ京の軍事バランスが崩れた状況下の12月9日、信西(藤原通憲)に反抗する勢力が決起する。所謂『平治の乱』の勃発である。
この『平治の乱』は、天皇親政派と上皇院政派の中で、信西(藤原通憲)に不満と反感を抱く者が中心となって引き起こした。
一時期、美福門院得子も上皇院政派で叛乱部隊の主力である藤原信頼や源義朝の軍勢に軟禁される。
かつての『保元の乱』では、「主役」を演じた美福門院得子も、今回は、戦乱に巻き込まれる立場となったのである。もっとも、後白河上皇も巻き込まれた立場であった。
しかし、清盛の帰京を契機に、叛乱部隊に参加していた天皇親政派の藤原惟方と藤原経宗が清盛に接近したことで戦況は一変する。
『平治物語絵巻』では、美福門院得子は、二条天皇等と共に、六波羅へと避難したとする。
『平治物語絵巻』「六波羅へ避難する美福門院得子」(出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp/ をもとに加工作成 )
乱の結果、天皇親政派が政局の主導権を握る。
その月の29日、美福門院得子の八条第へ二条天皇が行幸するが、
『美福門院ノ御所八條殿ヘ行幸』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
(八条第)
その際、二条天皇の輿は、
『清盛朝臣已下着甲冑。供奉御輿前後』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあるように、衣の下に武装した平清盛等が前後に付いて警護した。
これ以降、
『清盛率いる平家も二条親政の安定に尽力する』
(『北条義時』岩田慎平 中公新書2678 中央公論社)
ことになる。
『保元の乱』『平治の乱』と言う二つの戦乱は、美福門院得子の下へ二条天皇と平清盛が集うことで収束する。
『サテコノ平治元年ヨリ應保二年マデ三四年ガ程ハ、院・内、申シ合ツゝ同ジ御心ニテオミジクアリケル』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
表面上は、美福門院得子を要として、清盛率いる平氏一門が院のみならず、天皇家(皇室)を合わせた唯一の武力装置となったことで、各方面がまとまり平穏な日々が訪れたように見えた。
ところが、この平穏も水面下では長くは続かなかった。
翌永暦元(1160)年2月になると、後白河上皇が動き出す。後白河上皇は、清盛に命じて、信西(藤原通憲)に組した天皇親政派の惟方と経宗を捕縛する。
この際、後白河上皇は、二人に死罪を適用しようとしたが、忠通の諫止に拠って、惟方を長門国へ、経宗を阿波国へ、それぞれ流罪としている。
ここに、上皇院政派が静かに政局の掌握に乗り出す。
同時に、清盛も野心を抱き邁進し始めるのである。
この事態に、美福門院得子の動きは窺えない。
この頃、二条天皇の中宮であった姝子内親王が、二条天皇の内裏を退出し、美福門院得子の白河押小路殿で暮らしていた。美福門院得子は、姝子内親王のことで手一杯だったものと思われる。
言い換えれば、美福門院得子が動けないのを見て取ったからこそ後白河上皇が蠢き出したと言える。
そして、8月19日、姝子内親王が重病のため自らの死を覚悟して出家する。
娘の辛い姿を、美福門院得子がどのような思いで見つめていたのか。それを伝える記録は残されていない。
11月23日、白河押小路殿において、美福門院得子は、波乱万丈の人生を終える。満43歳であった。
(白河押小路殿跡)
美福門院得子の死は、母として娘・姝子内親王の身代わりとなって命を捧げたかのようでもある。
美福門院得子の亡骸は、翌24日、鳥羽東殿に運ばれた上で荼毘に付される。
『今夜美福門院御葬送、自押小路殿、渡鳥羽東殿云々』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
そして、美福門院得子の遺言に従い、美福門院得子の遺骨は、兄弟の備後守時通(藤原時通)の手に拠って、12月6日、高野山に納められた。
『美福門院御骨奉渡高野御山、依御遺言也』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
美福門院得子と言う絶対的な要を失った京は、天皇親政派と上皇院政派が争いを始め、遂には、武士の世の出現を見ることとなる。
それは、門閥主義の貴族社会の男たちから「諸大夫の女」と呼ばれ蔑まれた美福門院得子(藤原得子)が、その「諸大夫の女」に頼るしか無かった門閥主義の貴族社会の男たちに対し、門閥主義を突破して「皇后」に登り詰めることで新しい時代への答えとし、さらなる答えとして突き付けたのが「武士の世」だったのかも知れない。
美福門院得子(藤原得子)のまとめ
美福門院得子(藤原得子)は、平安時代の公家の女性には珍しく、里家の財力のみを頼りとした女性では無く、鳥羽上皇との愛を頼りに、貴族社会に蠢く有象無象の者たちを懐の深さで包み込み、時代の頂点にまで昇り詰めた女性であった。
それ故に、後世、女性の人間性を否定する朱子学が支配した男尊女卑の江戸時代以降になると、美福門院得子(藤原得子)について「妖女」や「悪女」のような見方もされた。
近代に入ってからも、20世紀初頭の明治39(1906)年に書かれた美福門院得子(藤原得子)を評した
『一美人の魔力は天下を攪亂して、幾萬の人類は血潮の巷に狂奔せしめる』
(『日本美人史』栗島狭衣 尚友館)
と言う、この一文に代表されるように、男尊女卑の時代の偏見が常に美福門院得子(藤原得子)について回り、21世紀の現在においても未だに美福門院得子(藤原得子)を平安時代末期の混乱を招いた諸悪の根源として「悪女」扱いする説もある。
だが、「院政」が生み出した様々な矛盾と対立の中で、「諸大夫の女」から、女御・皇后・女院にまで昇り、公卿や武士たちを従え、時に軍事作戦にまでも口を出した、その美福門院得子(藤原得子)の姿は、それまでに無かった日本の新しい女性像の登場であったと言える。
その代表的な事例として、『保元の乱』において、美福門院得子(藤原得子)の一存で平清盛を召集したことが挙げられよう。
上に立つ女性の命令で、下に置かれた男性が動かされることは「男尊女卑」の朱子学に毒された向きには良しとされまい。
ただ、女性が戦争の作戦立案に関与するのは、神話時代のオキナガタラシヒメ命(神功皇后)以来であり、事実上、日本初の出来事であった。しかも、その作戦で、美福門院得子(藤原得子)が自陣営を見事に勝利へと導いたことを忘れてはならない。
また、美福門院得子(藤原得子)は鳥羽天皇(鳥羽上皇)の寵愛をかさに着て、待賢門院璋子に対して残酷な仕打ちをしたとも言われる。
しかし、本文中でも述べているように、待賢門院璋子との関係についても、むしろ、白河法皇からの教育で性行為に奔放となった待賢門院璋子が自らのやましさ(崇徳上皇の出自等)から美福門院得子(藤原得子)のことを邪推し一方的に苛め抜いたのが真実である。
美福門院得子(藤原得子)に仕える女房の春日局(美福門院春日)が鳥羽法皇との間に子を為した際に、美福門院得子(藤原得子)が春日局(美福門院春日)に辛く当たったと言うことは無かった。
実際、高陽院泰子(藤原泰子)や皇嘉門院聖子(藤原聖子)を始めとして、当時、美福門院得子(藤原得子)との間に人間的な関係を持った女性たちは誰ひとりとして美福門院得子(藤原得子)のことを悪く言っていない。
同性から慕われ頼られ信じられる人物と言うのは、人間としての真の魅力を持つ人物である。
美福門院得子(藤原得子)のことが悪く語られ出すのは、室町時代の「玉藻前」の話からであり、男尊女卑の朱子学を政治の要綱とした江戸時代になってから定着したのである。そこには、何ら美福門院得子(藤原得子)の実像を伝えるものは無い。
美福門院得子(藤原得子)の人物像を象徴するには、近衛天皇陵が挙げられる。
(近衛天皇陵)
近衛天皇陵は、鳥羽東殿に造成された浄土式庭園の園池に面した仏塔として築かれている。
『近衛天皇陵は、本来鳥羽天皇の中宮であった美福門院の為に、鳥羽天皇が造営したものであった。この世に浄土を模した園池を挟んで2塔を建立し、それを御陵としたことは、当時の世相を反映しているばかりか、美福門院に対する天皇の姿を伺い知ることができる』
(『鳥羽離宮跡発掘調査概報 昭和63年度』京都市文化観光局 京都市埋蔵文化財研究所 編集)
鳥羽天皇は、鳥羽東殿に2塔を建立し、美福門院得子(藤原得子)と共に、それぞれ入寂後には、1塔ずつに入り、夫婦の奥津城とする予定であった。いかに、鳥羽天皇が美福門院得子(藤原得子)のことを愛おしく思っていたかの証拠であろう。
『鳥羽東殿故院令起立御塔二基御、一基被納故院御骨、今一基此女院御料也』
(『山槐記』国立国会図書館デジタルコレクション)
院政期に築かれた浄土式庭園については、有力貴族層や僧侶たちが、
『苦難を好まず、善根を積むこともなしに、この世の高級な遊戯としての仏いじりと浄土を感得することを請願った』
(『庭園とその建物』「日本の美術 34」森蘊 至文堂)
ことで、
『財力と権力とを行使して、人工による仏像の量的な彫刻と仏堂の荘厳を行ない、この世ながらの浄土的景観を作り出そうとした。このようにして平安時代後期の社寺境内に池庭が輩出したのである。やがて貴族たちは、これを真の信仰と錯覚をおこすようにさえなった』
(『庭園とその建物』「日本の美術 34」森蘊 至文堂)
ものとされる。
だが、美福門院得子(藤原得子)は、自分のために建立された塔に、自分を置いて先に亡くなった愛しい我が子の近衛天皇の遺骨を納め御陵とした。
それこそは、美福門院得子(藤原得子)が、形だけの浄土庭園に自身の「母性」を持ち込み、真の浄土にしたことを意味しよう。
実際、近衛天皇は病がちで、眼の病気で失明の危機にあった時、美福門院得子(藤原得子)は、孔雀法を実施し、なりふり構わずに必死の思いで我が子の病気平癒を祈願している。
離宮であった鳥羽殿を、子の近衛天皇と夫の鳥羽天皇の奥津城としたのは、美福門院得子(藤原得子)が、母として、妻として、愛する二人のために浄土を出現せしめるためだったと言えるのではあるまいか。
鳥羽殿で、自らの遺体を荼毘に付させたのも、子と夫の近くで浄土に向かいたいと言う思いからではなかったか。
かつて院政期には生々しく剥き出しとなった権力の中枢でもあった鳥羽殿は、美福門院得子(藤原得子)の「母性」に拠って浄化されたと言えるのかも知れない。
そして、美福門院得子(藤原得子)は死に際して、自らの骨を「女人禁制」とされていた高野山に納めるように遺言している。
このことも、後世、男尊女卑の朱子学を国是とした徳川幕府の下で、美福門院得子(藤原得子)の「ワガママ」として非難された所以である。
しかし、この美福門院得子(藤原得子)の遺言は、高野山において大論争を巻き起こし、仏教の教えの原点を問い掛ける契機となった。
それは、女性は穢れたものであるから往生出来ないとする当時の仏教界への痛烈な一撃とも言える。
後に、法然が、松虫・鈴虫の二人の女性に対して、女性も極楽浄土へ往生することが出来ると説くよりも、遥かに早く、美福門院得子(藤原得子)は、仏教の真相を見つめていたのではあるまいか。
このような美福門院得子(藤原得子)の言動は、平穏に見える平安時代の貴族社会に蔓延る身勝手さと矛盾に満ちた男社会と、その身勝手さと矛盾に満ちた男社会の犠牲を押し付けられて来た女性たちのための戦いであったのではないか。
また、美福門院得子(藤原得子)について語られる際、その美貌ゆえに、美福門院得子(藤原得子)の「女性」の部分ばかりが面白おかしく誇張される。
だが、実際には、鳥羽殿を若くして亡くなった我が子(近衛天皇)のために浄土とし、養猶子(重仁親王・守仁親王・藤原呈子等)には実子と変わらぬ愛情を注ぎ育て上げ、夫との間がうまく行かず苦しむ娘(姝子内親王)とは自らの邸宅で共に暮らし、もう一人の娘(暲子内親王=八条院)には莫大な荘園を遺す等、美福門院得子(藤原得子)の本当の姿は「母性」に溢れた人物であった。
また、自らの下へ集う者は拒むこと無く受け入れる大きな度量も、美福門院得子(藤原得子)の「母性」の為せる業である。
公家・武家等を二分する形で、史上初めて京を舞台に勃発した戦闘である『保元の乱』の際、美福門院得子(藤原得子)は、
『母后』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 校注 岩波書店)
として公武の人々を束ね上げ、勝利を収めている。
それは、美福門院得子(藤原得子)が天皇家(皇室)の「家長」を代行したことも意味する。
美福門院得子(藤原得子)は、家族の「母」として、日本の「国母」として、混迷期に入りつつあった平安時代に引導を渡すかのように、新時代の幕開けを呼び込んだのである。
そして、美福門院得子(藤原得子)が遺した八条院領は、その後、天皇家(皇室)の主な財源として大きな比重を占め、未来の来るべき時代の礎となる。
美福門院得子(藤原得子)は、日本史上において時代の画期となった特筆すべき存在と言える。
美福門院得子(藤原得子)の系図
《美福門院得子(藤原得子)系図》 藤原忠子 │ 藤原顕隆━━┳顕頼 ┗女子 │ ┌─────┼───────────────────────────┐ │ │ │ ┝━━━┳伊通━呈子→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→ │ ┗宗子 │↓ │ │ │↓ │ └──┐ │↓ │ │ │↓ ┏藤原宗通 │ │↓ ┗藤原全子 │ │↓ │ │ │↓ │ ┝━━━聖子 │↓ │ │ │ │↓ │ │ └────────────┐ │↓ │ │ │ │↓ ┝━━━━忠実┳忠通===呈子(養女)←←←←←←←←←←←←←←←←← │ ┃ │ │ │↓ │ ┃ └────────────┼─────┐│↓ │ ┃ │ ││↓ │ ┣頼長===多子(養女) │ ││↓ │ ┃ │ │ ││↓ │ ┃ └────────────┼────┐││↓ │ ┃ │ │││↓ │ ┗泰子(高陽院)=叡子内親王(養女)←←←←←←←←←←←← │ │ │ │││↓↑ │ └─────────────────┼───┐│││↓↑ │ │ ││││↓↑ 藤原師通 │ ││││↓↑ │ ││││↓↑ 法印信縁━兵衛佐 │ ││││↓↑ │ │ ││││↓↑ ┝━━━━重仁親王 │ ││││↓↑ │ │ ││││↓↑ └─────┐ │ ││││↓↑ │ │ ││││↓↑ 藤原公実┳実能 │ │ ││││↓↑ ┗璋子(待賢門院) │ │ ││││↓↑ │ │ │ ││││↓↑ │ ┌─────┘ │ ││││↓↑ │ │ │ ││││↓↑ ┝━━┳崇徳天皇 │ ││││↓↑ │ ┃ │ │ ││││↓↑ │ ┃ └────────────┘ ││││↓↑ │ ┃ ││││↓↑ │ ┗後白河天皇━守仁親王(二条天皇) ││││↓↑ │ │ ││││↓↑ │ │ ││││↓↑ │ ┝━━━━高倉天皇 ││││↓↑ │ │ │ ││││↓↑ │ │ ┝━━━安徳天皇 ││││↓↑ │ │ │ ││││↓↑ │ │ └─────────┐││││↓↑ │ │ │││││↓↑ │ └──────────────┐│││││↓↑ │ ││││││↓↑ 白河天皇━堀河天皇━鳥羽天皇 ││││││↓↑ ││ ││││││↓↑ │└──────────────────┼┼┘│││↓↑ │ ││ │││↓↑ ┝━━┳叡子内親王→→→→→→→→→→→→→→→→→→→ │ ┣暲子内親王(八条院) ││ │││↓ │ ┃ ││ │││↓ │ ┃ ┌──────────────┼┼─┘││↓ │ ┃ │ ││ ││↓ │ ┣体仁親王(近衛天皇) ││ ││↓ │ ┃ │ ││ ││↓ │ ┃ └──────────────┼┼──┘│↓ │ ┃ ││ │↓ │ ┗姝子内親王(高松院) ││ │↓ │ ││ │↓ 源俊房━┳師時 │ ││ │↓ ┗方子 │ ││ │↓ │ │ ││ │↓ ┝━━━得子===呈子(養女)←←←←←←←←←←←←←←←←← │ (美福門院) ││ │ │ ││ │ 藤原顕季┳長実━━┳顕盛 ││ │ ┃ ┣時通 ││ │ ┃ ┗長輔 ││ │ ┃ ││ │ ┣女子 ││ │ ┃ │ ││ │ ┃ └────────────────────────┼┼───┘ ┃ ││ ┗家保 ││ │ ││ ┝━━━家成━━━女子 ││ │ │ ││ │ └─────────────┐││ │ │││ 藤原隆宗┳女子 │││ ┗宗兼━━┳宗長 │││ ┣女子 │││ ┃ │ │││ ┃ └──────────────────┼┼┼──┐ ┃ │││ │ ┗宗子(池ノ禅尼) │││ │ │ │││ │ ┝━━┳家盛 │││ │ │ ┗頼盛━━━┳保盛 │││ │ │ │ ┣為盛 │││ │ │ │ ┣仲盛 │││ │ │ │ ┣知重 │││ │ │ │ ┗女子 │││ │ │ │ │ │││ │ │ │ └───────┼┼┼─┐│ │ │ │││ ││ │ ┝━━━━光盛 │││ ││ │ │ │││ ││ │ └─────────────┼┼┼┐││ │ ││││││ 平正衡━━正盛━━━忠盛━━━清盛━━━━重盛 ││││││ │ │ ││││││ │ └───────┘│││││ │ │││││ ┝━━━┳宗盛 │││││ │ ┣知盛 │││││ │ ┣重衡 │││││ │ ┗徳子(建礼門院) │││││ │ │ │││││ │ └────────┼┘│││ │ │ │││ 平経方━━知信━━━時信━━┳時子 │ │││ ┣時忠 │ │││ ┗滋子 │ │││ │ │ │││ └──────────────┘ │││ │││ 源寛雅━┳俊寛 │││ ┗大納言 │││ │ │││ └────────────────┘││ ││ 藤原基頼━通基━━━基家 ││ │ ││ ┝━━┳保家 ││ │ ┗陳子 ││ │ ││ └────────────┘│ │ 高階泰仲━重仲━━━泰重 │ │ │ └───────────────────────┘ 「=」・・・養子
美福門院得子(藤原得子)の墓所
美福門院得子(藤原得子)の御陵には、高野山陵が宮内庁に拠って治定されている。
(美福門院高野山陵)
美福門院得子(藤原得子)の亡骸は、愛する夫・鳥羽天皇や愛する我が子・近衛天皇の眠る鳥羽(鳥羽東殿)の地で荼毘に付された後、その遺骨は、藤原時通の手で、道中、紀伊国那賀郡荒川荘を通り、高野山に納められた。
遺骨とは言え「女人禁制」である高野山に美福門院得子(藤原得子)の遺骨を受け入れることについては、あくまでも「女人禁制」を主張する行人僧と、「空海の教えの原点」を説く高野聖との間で大論争となると言うひと悶着があった。
結果、空海の『十住心論』に従い、美福門院得子(藤原得子)の遺骨は受け入れられる。
御陵は、美福門院春日が娘の頌子内親王と共に鳥羽天皇の供養のために建立した蓮華乗院の隣地に築かれた。
また、美福門院得子(藤原得子)の位牌は、不動院に安置されている。
なお、美福門院得子(藤原得子)の陵域内に、成宝僧正と済深親王の墓所がある。
美福門院得子(藤原得子)の荘園があった紀伊国那賀郡荒川荘(和歌山県紀の川市)に、美福門院得子(藤原得子)の五輪供養塔(墓とも)や、美福門院得子(藤原得子)が開基と伝わる修禅尼寺が存在する。
(美福門院得子五輪供養塔)
(修禅尼寺)
美福門院得子(藤原得子)の年表
- 永久5(1117)年誕生。
- 12月13日藤原璋子、入内。。
- 保安4(1123)年正月28日鳥羽天皇、譲位。
- 2月19日崇徳天皇、即位。
- 天治元(1124)年11月24日藤原璋子、「待賢門院」号宣下。
- 大治2(1127)年9月11日待賢門院、雅仁親王を出産。
- 大治4(1129)年7月7日白河法皇、崩御。
- 大治5(1130)年2月21日藤原聖子、立后。
- 長承2(1133)年7月藤原家成や平忠盛等、得子の家司となる。
- 8月19日藤原長実、死去。
- 長承3(1134)年得子、鳥羽上皇の寵愛を得るようになる。
- 保延元(1135)年12月4日叡子皇女を出産。
- 保延2(1136)年4月19日従三位。叡子皇女に「内親王」宣下。
- 保延3(1137)年4月8日暲子皇女を出産。
- 12月叡子内親王、着袴の儀。
- 保延4(1138)年4月9日暲子皇女に「内親王」宣下。
- 保延5(1139)年5月18日体仁王を出産。
- 7月16日体仁王に「親王」宣下。
- 7月28日藤原泰子に「高陽院」号宣下。
- 8月17日体仁親王、立太子。
- 8月27日女御。
- 保延6(1140)年2月23日鳥羽上皇と共に熊野参詣に出る。
- 9月2日崇徳天皇に第一皇子誕生。
- 永治元(1141)年3月7日准三后。
- 3月10日鳥羽上皇、出家。
- 11月8日姝子皇女を出産。
- 12月7日崇徳天皇、体仁親王に譲位。忠通が摂政となる。
- 12月27日立后。
- 康治元(1142)年正月19日得子を呪詛したとして、待賢門院判官代夫妻が流罪となる。
- 康治2(1143)年4月3日白河押小路殿へ入る。
- 久安元(1145)年8月22日待賢門院、崩御。
- 久安2(1146)年10月4日長実に正一位左大臣を追贈。
- 久安4(1148)年7月6日藤原伊通の娘の藤原呈子を養女とする。
- 12月8日叡子内親王、薨去。
- 久安5(1149)年8月3日「美福門院」号を宣下される。
- 久安6(1150)年2月27日藤原聖子に「皇嘉門院」号宣下。
- 10月2日法勝寺で金泥一切経を供養する。
- 12月13日守仁王、美福門院の白河北殿で着袴の儀。
- 久寿元(1154)年6月19日鳥羽法皇・崇徳上皇・統子内親王と共に高松殿へ入る。
- 6月26日白河殿へ帰る。
- 8月18日姝子皇女に「内親王」宣下。
- 9月29日鳥羽の馬場殿で騎馬見物。
- 久寿2(1155)年7月23日近衛天皇、崩御。
- 7月24日雅仁親王、践祚(後白河天皇)。
- 9月23日守仁王に「親王」宣下。立太子。
- 10月26日後白河天皇、即位。
- 12月9日守仁親王、元服。
- 12月16日高陽院、崩御。
- 保元元(1156)年3月5日姝子内親王、守仁親王の妃となる。
- 6月13日美福門院、落飾(法名「真性定」)。6月12日とも。
- 7月2日鳥羽法皇、崩御。
- 7月8日『保元の乱』。
- 7月16日重仁親王、仁和寺へ入る。
- 7月23日崇徳上皇、讃岐国へ配流。
- 保元3(1158)年正月10日後白河天皇の朝覲行幸を受ける。
- 8月11日守仁親王、践祚(二条天皇)。
- 10月14日後白河上皇の行幸を受ける。
- 12月20日二条天皇、即位。
- 平治元(1159)年正月7日後白河上皇の行幸を受ける。
- 3月5日御懺法結願。
- 7月17日高野山に紀伊国荒川庄を寄進。
- 7月20日安楽寿院新塔建立に荘園を寄進。
- 12月9日『平治の乱』。
- 12月29日二条天皇、八条第へ行幸。
- 永暦元(1160)年8月16日後白河上皇の行幸を受ける。
- 8月19日姝子内親王、出家。
- 11月23日美福門院、白河押小路殿にて崩御。
- 11月24日鳥羽東殿において火葬。
- 12月6日高野山に納骨。