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冠位十二階について
【表記】 | 冠位十二階 |
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【読み】 | かんいじゅうにかい |
『冠位十二階』とは
日本最古の冠位制度。
「臣」姓や「連」姓を含む、中級、及び、下級の豪族を朝廷の官人として位付けた制度。
制定には、当時、推古天皇の摂政であった厩戸皇子が当たったとされるが、大臣で最大の実力者である蘇我馬子が深く関与したのは間違いないとされる(実際の制定者を蘇我馬子とする説もある)。
その制定から施行まで1ヶ月にも満たない僅かな期間で実施された。
『冠位十二階』制定以前
冠位十二階が導入されるまでは、それぞれの出自により豪族たちの身分が構成されていた。
『冠位十二階』が必要となった理由
有力な豪族の世襲に拠り、朝廷内での地位が決まることとなり、時として天皇家(大王家)をも凌ぐ実力を持つ豪族を輩出した。また、当時、東アジアの超大国であった隋との外交を結ぶ上でも対外的に客観的な官位制度の必要に迫られた。
そこで、隋や百済・高句麗の官位制度を参考にして、これまでの氏族としてではなく官人としての個人を対象にし、実力に応じた昇進の要素を持つ新秩序を作ることになった。それが『冠位十二階』であった。
『冠位十二階』
【令制位階】 | 【冠位十二階】 | 【冠の色】 |
---|---|---|
【正一位】 | 相当無し | |
【従一位】 | 相当無し | |
【正二位】 | 相当無し | |
【従二位】 | 相当無し | |
【正三位】 | 相当無し | |
【従三位】 | 相当無し | |
【正四位上】 | 大徳 | 濃紫 |
【正四位下】 | 大徳 | 濃紫 |
【従四位上】 | 小徳 | 淡紫 |
【従四位下】 | 小徳 | 淡紫 |
【正五位上】 | 大仁 | 濃青 |
【正五位下】 | 大仁 | 濃青 |
【従五位上】 | 小仁 | 淡青 |
【従五位下】 | 小仁 | 淡青 |
【正六位上】 | 大礼 | 濃赤 |
【正六位下】 | 大礼 | 濃赤 |
【従六位上】 | 小礼 | 淡赤 |
【従六位下】 | 小礼 | 淡赤 |
【正七位上】 | 大信 | 濃黄 |
【正七位下】 | 大信 | 濃黄 |
【従七位上】 | 小信 | 淡黄 |
【従七位下】 | 小信 | 淡黄 |
【正八位上】 | 大義 | 濃白 |
【正八位下】 | 大義 | 濃白 |
【従八位上】 | 小義 | 淡白 |
【従八位下】 | 小義 | 淡白 |
【大初位上】 | 大智 | 濃黒 |
【大初位下】 | 大智 | 濃黒 |
【小初位上】 | 小智 | 淡黒 |
【小初位下】 | 小智 | 淡黒 |
それぞれの冠位により、着用する冠や服装は色分けされ、髪は頭の頂上でまとめ袋のように包み、元日のみ髪飾りを許された。
豪族たちの主な冠位
大徳
蘇我雄摩侶(蘇我氏傍流)。
小徳
中臣御食子。秦河勝。高向黒麻呂。
大仁
鞍作止利。犬上御田鍬。
大礼
小野妹子。
『冠位十二階』の成果
この後、時代が律令制の確立に向けて移行していく中で、冠位(官位)制度の先駆けとしての功績は多大なものがあった。
また、中級豪族や下級豪族であっても才能を持つ者が朝廷に出仕出来るようになったことで有能な人材の起用が可能となった。
『冠位十二階』の問題点
後の『大宝令』で制定された位階制での正四位以下相当の官人に対する規定と見られるため、蘇我氏本宗家は、この冠位制度の対象外であった。同時に、皇族・皇親勢力も『冠位十二階』に規定されない存在であった。
また、『冠位十二階』は、飛鳥近隣に本拠を置いた豪族のみに授与されており、地方に、この制度は及ばなかった。
『隋書』倭国伝に記された『冠位十二階』
倭国(日本)の『冠位十二階』は、
『内官に十二等あり』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波書店)
として遣隋使に拠って隋に報告されている。
ただし、徳(大小)・仁(大小)・礼(大小)・信(大小)・義(大小)・智(大小)の冠位の順が、
『一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信』
(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』石原道博 編訳 岩波書店)
と間違って記録されており、隋からは、さしたる評価を与えられていなかったことが窺える。
隋から見て、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国の冠位制度(官位制度)に比べると、倭(日本)の冠位制度(官位制度)は稚拙で相当劣るものだったようである。
『冠位十二階』の年表
- 推古天皇11(603)年12月5日『冠位十二階』制定。
- 推古天皇12(604)年正月1日『冠位十二階』施行。