御史大夫について
【表記】 | 御史大夫 |
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【読み】 | ぎょしたいふ |
御史大夫とは
古代。
天智天皇の朝廷で制定された官職。左右大臣に次ぐ官職であった。
制定されたのは天智天皇10(671)年正月5日、大友皇子が太政大臣に任命され、続いて左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金が任命されたのと同時に、蘇我果安・巨勢人・紀大人の三名が御史大夫に任命された。
《天智天皇10年体制》 天皇 天智天皇 太政大臣 大友皇子 左大臣 蘇我赤兄 右大臣 中臣金 御史大夫 蘇我果安 巨勢人 紀大人
この体制は、天智天皇の後継者である大友皇子を補佐する体制であった。
しかし、天武天皇元(672)年に勃発した『壬申の乱』により、近江朝廷が滅ぶと以後の朝廷では御史大夫の職は廃止された。
《『壬申の乱』後の御史大夫の行方》 御史大夫 蘇我果安・・・自刃 巨勢人・・・・流罪 紀大人・・・・消息不明(子孫は大海人皇子皇統の朝廷で重用される)
「御史大夫」の名称の復活
天平宝字2(758)年8月25日に、恵美押勝(藤原仲麻呂)に拠り令制下の官職名が「唐風(中国風)」に改められた際、一時的に御史大夫の名が復活する。
《天平宝字2年体制》 天皇 淳仁天皇 上皇 孝謙太上天皇 大保 恵美押勝(藤原仲麻呂) 御史大夫 石川年足 中納言 藤原永手
恵美押勝が『恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱』で失脚した後には、御史大夫の名は廃止されている。
この時に「大納言」を「御史大夫」と改称していることから、天智朝における職務も「大納言」に相当したのではないか、と考えられているが明確ではない。
令制下の別称として残った「御史大夫」
平安時代以降、御史大夫は弾正台の長官である弾正尹の唐名として呼ばれるようになる。
これは、官人の罪を糺す弾正台の唐名が「御史台」であることに因むものである。
御史大夫の年表
<天智天皇10(671)年>
正月5日、蘇我果安・巨勢人・紀大人、御史大夫。
<天平宝字4(760)年>
正月4日、石川年足、御史大夫。