県主について
【表記】 | 県主 |
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【読み】 | あがたぬし |
県主とは
ヤマト王権が置いた地方首長(地方官)の一種。
ヤマト王権は、侵略し服属させた地域を、地方行政上の単位「県」と規定した。
この「県」については、二種類の県があったとされる(中田薫氏の説・後述)。
ヤマト王権が武力で以って侵略し簒奪した上で自らの所領とし「県」と名付けた該当地域に元々土着しヤマト王権の侵略を受けて土地を喪失した敗残の先住民を「県主」に任命することで支配を進めたと見られる。
ただし、「国」に置かれた「国造」との関係や、県主と同じく「県」に設置された「稲置」との関係等、その実態については、はっきりしない点も多い。
一般には、飛鳥時代までには、国造の下位職として県主が位置付けられ存在していたと考えられている。
《飛鳥時代の県主》 中央 ヤマト王権 ↓ 国 国造 ↓ 県 県主
県主の始まり
『日本書紀』では、神武天皇2(紀元前655)年に、県主設置に関する記事がある。
『弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主とす』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
弟猾は、侵略して来たカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)に降伏している。
『弟磯城、名は黑速を、磯城縣主とす』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
弟磯城は、兄磯城と共に侵略して来たカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)と戦った人物である。
また、
『頭八咫烏、亦賞の例に入る。其の苗裔は、即ち葛野主殿縣主部是なり』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
ともある。
これらの県主に任命された者の大きな特徴としては、カムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)のヤマト侵略に徹底抗戦して逆らった土着の先住民であることが挙げられる。
彼ら先住民の中で侵略者であるカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)たちに降伏し帰順した者が県主に当たると考えられている。
同時に、『日本書紀』が伝える県主の置かれたとされる土地が、初期ヤマト王権の地盤に関係する土地であり、後に大王家(皇室・天皇家)の直轄領とされた土地であることは大いに注目される。
なお、この県主が設置されたとする年代等は到底史実とは見做せない。
県主と大王(天皇)
大王家(皇室・天皇家)の歴代大王(天皇)欠史8代と呼ばれる時期の大王(天皇)中6人の大王(天皇)の妻妾に、大和国の県主の女性が迎えられている。
詳細は以下の表の通りである。
【大王(天皇)】 | 【妻妾の父】 |
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カムヌナカワミミ大王(綏靖天皇) | 磯城県主・春日県主 |
シキツヒコタマテミ大王(安寧天皇) | 磯城県主 |
オオヤマトヒコスキトモ大王(懿徳天皇) | 磯城県主 |
ミマツヒコカエシネ大王(孝昭天皇) | 磯城県主 |
ヤマトタラシヒコオシヒト大王(孝安天皇) | 磯城県主・十市県主 |
オオヤマトネコヒコフトニ大王(孝霊天皇) | 十市県主 |
これらの県主の中で、磯城県主は、大和国城上郡・城下郡を拠点としていた地方豪族とされる。
一連の婚姻を史実と見做すのは難しい一面もあるが、初期ヤマト王権が大和国に拠点を持つ先住民の小豪族と婚姻関係を結びつつ、その権力を拡大させ先住民の小豪族が領有する土地を併呑したとの解釈も出来得る。
なお、大王家(皇室・天皇家)に妻妾を出した磯城県主・春日県主・十市県主の3県主と、ヤマト王権が地方支配のために置いた県主とを同一に考えて良いのかと言う問題も残る。
県主の設置
初期ヤマト王権が置いた県主とは別に、ヤマト王権が倭列島(日本列島)各地を侵略し支配下に置いた地域に地方官としての県主を配置するようになって行ったと考えられている。
『古事記』では、成務天皇5(135)年に、県に対して県主が設置されたと伝える。
ワカタラシヒコ大王(成務天皇)に拠って、
『國國の堺、及大縣小縣の縣主を定め賜ひき』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田祐吉 校注 岩波書店)
としている。
しかし、これに相応する『日本書紀』の記事中に「県主」の存在は記述されていない。
『國郡に造長を立て、縣邑に稻置を置つ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
即ち、『日本書紀』では「稲置」を置いたとするのである。
稲置と同様に、ヤマト王権が葛城氏本宗家の輔弼を受ける以前に、既にヤマト王権独自の地方統治システムを構築していたように見せかけたいとする『日本書紀』の編纂意図があったものと考えられる。
従って、県主がいつ頃に置かれた地方首長(地方官)であるのか正確には判らない。
県主の宗教性
山背国の鴨県主に代表されるように県の祭祀を司る者もいたことが知られる。
これら県主が祭祀を行う背景には、政教一致と言う原始的古代社会における県主の統治能力が示されているものと考えられる。
県主と『改新の詔』
大化元(645)年、蘇我氏本宗家を武力クーデターで倒したナカノオオエ王子(中大兄皇子)を中心とした所謂「改新政権」が出した『改新の詔』の中に、地方統治を担当する者がその従事に当たる由来や身分を偽ることがあるとして、
『元より國造・伴造・縣稲置に非ず』
(『日本古典文學大系69 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う文言がある。
この文言が極めて難解であって、様々な解釈があるものの、現在では、中田薫氏が唱える
『県にはもともと(一)天皇の直轄地と、(二)下級地方区画としての県と二通りあり、前者の長は県主であり、後者の長は稲置である』
(『日本古典文學大系69 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
とする解釈が全ての問題を解決しないものの通説となっている。
そして、もう一点、『改新の詔』中に、
『倭國の六縣』
(『日本古典文學大系69 日本書紀 下』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
との記述が見られ、この6県が本来の大王家(皇室・天皇家)の直轄領と考えられている。
ここに県主成立時期のヒントが見られる。
直轄領6県とは、葛木県・志貴県・高市県・十市県・山辺県・曾布県である。
この大王家(皇室・天皇家)直轄領6県の内、葛木県(葛城県)は葛城氏本宗家の本拠地であり、ヤマト王権が3世紀以降は葛城氏本宗家に輔弼されることで統治機能が作用していたことを鑑みると、これら直轄領6県の成立は、葛城氏本宗家の滅亡後の5世紀以降のことであろうと思われる。
因みに、葛木県は、蘇我氏本宗家が大王(天皇)に割譲を迫ったほどの重要な土地である。
同時に県主が大王家(皇室・天皇家)の直轄領に設置された職であることが推測される。
一方で、ヤマト王権に拠る侵略に伴い拡大された支配下の地域に置かれた県主は、国造制度が整備されて来るに伴い、その職務能力を次第に喪失して行ったものと考えられる。
県主の末裔
磯城県主は、『八色の姓』で「連」を与えられ、志貴連となっている。
一方で、『八色の姓』で姓を与えられなかった豪族等において、県主を「姓」として名乗る者も存在した。
県主の年表
- 神武天皇2(紀元前655)年県主を置く。
- 成務天皇5(135)年県に県主を設置。