推古天皇6(598)年【隋、朝鮮半島へ出兵す!】

時代

飛鳥時代

天皇

【代数】 第33代
【天皇名】 推古天皇

政体

【摂政】 厩戸皇子
【大臣】 蘇我馬子

聖徳太子(厩戸皇子)
(「聖徳太子像(部分)」東京国立博物館所蔵 Wikimedia Commons)

推古天皇6(598)年の出来事

出来事
  • 推古天皇6(598)年
    3月
    膳大娘、厩戸皇子の妃となる。
  • 6月
    吉士磐金、新羅から帰国。
  • 6月
    隋、遼東半島へ派兵。
  • 8月1日
    新羅から孔雀1羽が贈られる。
  • 9月
    隋、高句麗に敗北し撤退。
  • 10月10日
    越国から白鹿1頭が献上される。
  • 12月
    百済の威徳王、死去。

まとめ

推古天皇6(598)年3月、膳大娘がウマヤト王子(厩戸皇子)の妃となる。

『春三月、擧膳大娘爲妃。謂侍從曰。吾常相諸氏女子之體。此人頗合』

(『聖徳太子傳暦』国立国会図書館デジタルコレクション)

トヨミケカシキヒメ大王(推古天皇)は、これを祝し、宴を開いている。

『聖徳太子伝暦』が伝えるウマヤト王子(厩戸皇子)の妻となった女性は、膳部菩岐々美郎女である。

膳部菩岐々美郎女は、膳傾子の娘であって、没した際には、ウマヤト王子(厩戸皇子)と合葬されている。


前年に新羅に派遣した吉士磐金が帰国する。

新羅からは、

『鵲二隻を獻』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

られて、それを持ち帰って来た。

カササギ
(「鵲(カササギ)」 Wikimedia Commons)

この鵲は難波杜に放し飼いにされた。

難波杜が、どこに当たるのかは諸説あり、生國魂神社説や鵲森宮(森之宮神社・森神祠)説等がある。

生國魂神社
(難波杜候補のひとつ生國魂神社)

鵲森宮
(難波杜候補のひとつ鵲森宮)

高句麗の大興王(嬰陽王)が、遼西への侵略を開始。

『王率靺鞨之衆萬餘侵遼西』

(「高句麗本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)

これを聞いた東アジアの超大国隋帝国の皇帝煬堅は激怒した。

『隋文帝聞而大怒』

(「高句麗本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)

陸と海から隋軍30万の兵力を遼東に送り込む。

高句麗征伐の開始である。

6世紀末の東アジア情勢
(6世紀末の東アジア情勢)

8月になると、新羅から倭(日本)に孔雀が1羽贈られて来る。

隋の脅威を感じ取った新羅としても後顧の憂いを断つために、倭(日本)の機嫌を取る必要があった。

9月、百済の威徳王が隋に使者を送る。

『王聞興遼東之役。遣使奉表請爲軍道』

(「百済本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)

隋に対して、高句麗征伐においては、百済が率先して隋を支援することを申し出たのである。

この威徳王の上表文がいつ煬堅の手元に届いたのかは不明である。

しかし、この時期の隋軍は兵糧が尽き、陣中には病気が蔓延する状況となっていた。

このため、威徳王の上表が出された、まさに、その9月、隋は遼東から撤兵させる。

隋は高句麗の前に敗北を喫したのである。

そして、威徳王の上表文の内容を知った高句麗が百済に襲い掛かって来る事態となってしまった。

『高句麗頗知其事。以兵侵掠國境』

(「百済本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)

このような出来事が朝鮮半島で起こっていた最中の10月、倭(日本)では、越国(越前・越中・越後)が白鹿1頭を献上して来る。

白鹿は良いことが起こる兆候とされていた。

隋の高句麗攻撃を奇貨と考えた威徳王が、12月に没する。

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