時代
戦国時代
天皇
【代数】 | 第106代 |
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【天皇名】 | 正親町天皇 |
政体
幕府
【征夷大将軍】 | 足利義輝 |
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【管領】 | 細川氏綱 |
【政所執事】 | 伊勢貞孝 |
【関東管領】 | 上杉憲政 上杉政虎(閏3月16日) |
(『足利義輝像(部分)』国立歴史民俗博物館所蔵 Wikimedia Commons)
朝廷
【関白】 | 近衛前嗣 |
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【左大臣】 | 藤原公朝 |
【右大臣】 | 藤原家輔 |
【権大納言】 | 藤原実澄 藤原光康 藤原孝親 藤原季遠 藤原惟房 源通為 藤原国光 藤原晴季 源通興 藤原公維(4月19日) |
【権中納言】 | 菅原為康 藤原為益 菅原長雅 藤原雅教 藤原晴秀 源重保 北畠具教 藤原宣綱 藤原公右(3月8日。10月辞職) |
【参議】 | 藤原親氏 藤原基孝 藤原実福 源義輝(足利義輝) 藤原頼房 藤原永相(2月1日) |
永禄4(1561)年の出来事
- 永禄4(1561)年正月24日足利義輝、三好義長・松永久秀を相伴衆とする。
- 正月28日三好義長、「義興」と改名。
- 2月6日松平元康、水野信元と尾張国で戦闘。
- 3月7日長尾景虎、小田原城を攻囲。
- 閏3月16日長尾景虎、関東管領就任。上杉政虎と改名。
- 4月12日松平元康、今川氏真と断交。
- 5月6日三好長慶、細川晴元と和睦。
- 5月11日斎藤義龍、死去。
- 5月14日織田信長、斎藤龍興を攻める。
- 6月宇喜多直家、謀略で龍口城を奪う。
- 7月28日六角義賢、三好長慶を討つべく勝軍山に出兵。
- 9月10日『第四次川中島合戦』。
- 9月13日松平元康、東条城を攻略。
- 10月10日大友義鎮、毛利領門司城を攻撃。
- 12月25日畠山高政、三好政成を敗死させる。
まとめ
永禄4(1561)年正月、足利義輝は、三好長慶の子の三好義長と、長慶の家臣である松永久秀を相伴衆とする。
(『三好長慶像』聚光院所蔵 Wikimedia Commons)
(『松永久秀像』高槻市立しろあと歴史館所蔵 Wikimedia Commons)
義長は、「義興」と改名している。
前年の『桶狭間合戦』で、三河国で自立した松平元康は、2月、織田方の水野信元と戦闘を行っている。
(『徳川家康像(部分)』大阪城天守閣所蔵 Wikimedia Commons)
ただ、
『君の御母北方は岡崎より刈屋へかへらせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ(略)此久松は水野が旗下に屬し織田方』
(『徳川実紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
であったことから、織田家との関係が見直される。
3月、長尾景虎は、北条氏の本拠である小田原城を攻囲する。
(『上杉謙信(長尾景虎)像』上杉神社所蔵 Wikimedia Commons)
(小田原城)
そして、閏3月、長尾景虎は上杉憲政から鶴岡八幡宮において「関東管領」職と「上杉」姓を譲られ、名を上杉政虎と改める。
(鶴岡八幡宮)
4月、元康は、今川氏真と断交する。
美濃国の斎藤義龍が、5月に急死する。
義龍の後継には斎藤龍興が立つが、織田信長は、すぐさま美濃国へ出陣し攻撃を加える。
(『織田信長像』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
9月、関東管領になって間もない政虎と武田晴信との間で武力衝突が勃発する。
(『武田晴信像』高野山持明院所蔵 Wikimedia Commons)
『第四次川中島合戦』である。
(信濃国川中島)
この合戦では、上杉軍1万8000、武田軍2万が衝突した。
妻女山に布陣した上杉軍本隊を、武田軍別動隊1万2000で奇襲攻撃しようとしたところ、逆に、
『明くれば十日の朝、未だ明離れぬ時、謙信方より、螺・太鼓を進めて、信玄の陣へ取懸り候』
(『川中島五箇度合戦之次第』国立国会図書館デジタルコレクション)
状態となってしまった。
武田晴信は本隊8000で上杉軍1万8000と戦うこととなる。
開戦劈頭、数に勝る上杉軍が優勢で合戦を推し進めて行った。
しかし、武田軍別動隊が本隊の応援に駆け付けた後は、武田軍が優位となり、上杉軍は撤退に追い込まれ、勝敗の決着は付かなかった。
ただ、武田軍は、晴信の弟である武田信繁が戦死する等4500人が討ち取られ、1万3000が負傷した。
越後上杉家と甲斐武田家との間では、計5度の合戦が繰り広げられたとされるが、この『第四次川中島合戦』が最大の合戦となった。
血なまぐさい戦国時代らしい1年であるが、この年、日本史上最も有名な男女が婚姻している。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)とおね(高台院)である。
(『豊臣秀吉像(部分)』高台寺所蔵 Wikimedia Commons)
藤吉郎(豊臣秀吉)とおね(高台院)の婚姻した年については諸説あるが、ほぼ永禄4年のことであろうとされている。
藤吉郎(豊臣秀吉)とおね(高台院)は恋愛結婚だった。
命の奪い合いが続く凄惨な戦国の世であっても、人の心に愛は生まれていたのである。
永禄4(1561)年の覚え方とポイント
越後と甲斐の人殺し合いだよん第四次川中島合戦(1561)