目次
中納言について
【表記】 | 中納言 |
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【読み】 | ちゅうなごん |
【国風読み】 | なかのものまうすのつかさ・すけのものまうすのつかさ |
【官位相当】 | 従三位 |
【唐風呼称】 | 黄門 |
中納言とは
令外官(令外の官)。
律令体制下で太政官を構成するが令制に規定されない官職。
主な仕事は、天皇へ臣下の意見を上奏したり(奏請)、天皇から出された勅命の伝達を行うこと(宣行)とされ、大納言と同じである。
中納言の給与
大納言に准じて食封が支給された。
正当な理由を以って解官された場合や老齢や病気等で致仕した場合には、食封を半減した上で支給された。
【職田】 | 20町 |
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【職封】 | 400戸 |
【資人】 | 30人 |
上記以外に「従三位」相当の
【位田】 | 34町 |
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【位封】 | 100戸 |
【資人】 | 60人 |
が支給され、他にも、季禄等が支給された。
※ 時代により職封等は変化した
中納言の変遷
天皇親政下で「納言」が登場
オオアマ王子(大海人皇子)がオオトモ大王(弘文天皇)を死に追い込んで王位(皇位)を簒奪しオオアマ大王(天武天皇)となる。
その天武天皇は、政治スタイルとして「天皇親政」を採り、天皇と皇子等の皇親勢力に拠る独裁体制を構築したのである。
その中で、納言2名が天皇に近侍することになる。
中納言と令制
持統天皇称制3(689)年6月に、『飛鳥浄御原令』が施行される。
持統天皇6(692)年2月、大三輪高市麻呂が中納言の立場で持統天皇の伊勢行幸に諫言したのが、中納言の初見である。
『中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、表を上りて敢直言して、天皇の、伊勢に幸さむとして、農時を妨げたまふことを諫め争めまつる』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店))
大宝元(701)年3月、文武天皇が『大宝令』を制定し、この時、中納言は廃止される。
慶雲2(705)年4月、大納言の定員を4名から2名へと減員し、中納言が再設置される。
『置中納言三人以補。大納言不足』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
また、中納言の職掌も規定され、
『職掌敷奏宣旨。待問参議』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
とされた。
この時、高向麻呂(正四位下)・粟田真人(正四位下)・阿倍宿奈麻呂(従四位上)の3名が中納言となっている。
奈良時代に入ると、中納言は、あくまでも令外官と言うことからか非常に少ない人員で推移している。
天平12(740)年から天平14(742)年までの3年間に至っては、中納言は置かれていない。この中納言不在期の実質的な政権首班は、橘諸兄であった。
恵美押勝(藤原仲麻呂)に拠る改革で、天平宝字5(761)年2月、三品・四品の親王(議政官に限る)の季禄・衣服等は、中納言相当と規定される。
また、中納言の官位相当も、当初は、
『請其任擬正四位上』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
とされていたが、同じ天平宝字5年に、
『中納言。准格正四位上。此則職掌既重。季禄無尚少。自令以後。宜改爲従三位官』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
と中納言の俸禄を加増する目的のために、従三位相当へと引き上げられている。
ただし、この改正が行われた時点での中納言は以下の2名で、その内の一人の文室浄三は、正三位であった。
【名前】 | 官位 |
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文室浄三 | 正三位 |
藤原永手 | 従三位 |
中納言の定員
『飛鳥浄御原令』における中納言の正式な定員は不明。
『大宝令』で令制から外された官職であったが、大納言の定員削減が実施された際に、中納言の定員を3名として復活する。
以後、奈良時代は定員3名で通された。
しかし、平安時代になると、村上天皇が中納言の定員を4名に増やす。
その後、藤原氏摂関家が勢力を伸ばすと、藤原道長が左大臣の時に、中納言の定員は8名となる。
平安時代末期、平清盛が実権を掌握した時には、中納言の定員は10名にまで膨らむ。
その後、建久5(1194)年(または、建久4年)になって、後鳥羽天皇が定員を8名とする。
(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)
以後、定員の基本は8名として推移する。
権中納言
天平勝宝8(756)年、藤原永手が中納言の権官となる。
これが、日本史上最初の「権中納言」の登場である。
翌天平宝字元(757)年にも、石川年足が権中納言となっている。
これ以降、奈良時代は、正官が占める。
長岡京時代、そして、平安時代も当初は、正官で占められていた。
しかし、延暦22(803)年の藤原乙叡、弘仁7(816)年の藤原冬嗣等の権官任命以降、少しずつ権官が見られるようになる。
長暦3(1039)年になると、中納言在職8名全員が権官となっている。
中世以降は、権官ばかりとなる。
中納言への任官方法
中納言に任官するには以下の5種類の方法があった。
参議のみを経て
参議を15年、または20年務めた上で、なおかつ、中納言に欠員が出た場合に任官が可能。
左大弁・右大弁を経て
参議であり、しかも、左大弁・右大弁を務める場合に任官が可能。
近衛中将を経て
参議であり、しかも、近衛中将を務める場合に任官が可能。
検非違使別当を経て
参議であり、しかも、検非違使別当を務める場合に任官が可能。
摂関家出身
摂関家出身で官位が二位・三位であれば、参議を経ずとも任官が可能。
いずれにしても、特権階級に限定された官職であることが判る。
中納言を何故「黄門」と呼ぶの?
中納言を「黄門」と呼ぶのは、どうしてですか?
古代中国の呼び方に倣った呼び方です。
どうして黄色なんでしょうか?
古代中国の宮にあった門が黄色でした。その黄色い門の内側で政治に与ったので「黄門侍郎」と呼ばれたのです。
中納言を日本史上最初に解雇された人物は誰?
中納言を最初にクビになった人って、どんな人だったんですか?
日本史上、中納言を最初にクビになった人は、天平宝字元(757)年に解雇された多治比広足さんです。
どんな理由だったんですか?
多治比広足さんは、『橘奈良麻呂の乱』に、一族の若手を引き入れて参加し政権転覆を企てたのです。なので、孝謙天皇から「この耄碌ジジイ!お前はクビじゃ!家に帰れ!(※ 原漢文。ほぼこの内容)」と言われちゃいました(笑)
な、なかなかキビシイっすね・・・。
ふふふ・・・。
二人の中納言と長岡京
長岡京の二人の中納言とは何ですか?
延暦4(785)年に、長岡京造営の中心人物であった藤原種継が暗殺されてしまいました。その時の種継が「中納言」でした。
あと一人は?
藤原種継の暗殺事件に連座した人がいました。それが種継が暗殺される一ヶ月前に亡くなっていた大伴家持です。この家持が亡くなった時の官職が「中納言」でした。
ほぼ同時期に二人の中納言が、暗殺される方と暗殺する方とに分かれていたんですね。
日本史の闇でしょうか・・・。もっとも大伴家持は後に無罪とされ名誉回復していますが・・・。それでも延暦4年は、一気に二人の中納言が不在となる非常事態の年だったわけです。
中納言の年表
- 持統天皇称制3(689)年6月29日『飛鳥浄御原令』施行。
- 持統天皇6(692)年2月11日大三輪高市麻呂が中納言として登場。
- 大宝元(701)年3月21日『大宝令』制定。
- 慶雲2(705)年4月17日大納言の定員を削減し、中納言3名設置。
- 天平宝字5(761)年2月1日従三位相当。
- 天暦3(949)年定員4名。
- 天録3(972)年定員5名。
- 寛和2(986)年定員6名。
- 長和3(1014)年定員7名。
- 長和4(1015)年定員8名。
- 嘉応2(1170)年定員9名。
- 承安元(1171)年定員10名。
- 建久5(1194)年定員8名(建久4年とも)。
受験のための「中納言」の覚え方
中納言は「ちゅう・な・ごん」で覚えよう!
中納言の「ちゅう」…中途半端で無い大納言並みの格式
中納言の「な」…内政・外交万事に関わる
中納言の「ごん」…権中納言が多くなるのは平安時代以降