時代
鎌倉時代
天皇
【代数】 | 第84代 |
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【天皇名】 | 順徳天皇 |
(「順徳天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
太上天皇
【太上天皇名】 | 後鳥羽太上天皇 土御門太上天皇 |
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(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
政体
幕府
【征夷大将軍】 | 源実朝 |
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【執権】 | 北条義時 |
【政所別当】 | 大江広元(中原広元) |
【侍所別当】 | 和田義盛 |
【問注所執事】 | 三善康信 |
【京都守護】 | 中原季時 |
朝廷
【関白】 | 近衛家実 |
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【太政大臣】 | 空席 |
【左大臣】 | 藤原隆忠 (9月22日辞任) 九条良輔 (10月4日から) |
【右大臣】 | 九条良輔 (10月4日まで) 徳大寺公継 (10月4日から) |
【内大臣】 | 坊門信清 (6月20日まで 関東伝奏兼任) 九条道家 (6月29日から) |
【大納言】 | 三条公房 中山兼宗 |
【権大納言】 | 鷹司兼基 久我通光 藤原公経(西園寺公経) 九条道家 (6月29日まで) 大炊御門師経 九条良平 源通具 (6月29日から) |
【中納言】 | 源通具 (6月29日まで) 土御門定通 藤原忠房 (6月29日から) 四条隆衡 (6月29日から) |
【権中納言】 | 四条隆衡 (6月29日まで) 源雅親 姉小路公宣 坊門忠信 葉室光親 藤原忠房 (6月29日まで) 滋野井実宣 山科教成 源有雅 (6月29日から) |
【参議】 | 源有雅 (6月29日まで) 藤原頼平 藤原親兼 藤原範朝 西園寺実氏 藤原顕俊 坊門隆清 正親町三条公氏 藤原公定 (6月29日から) |
【関東申次】 | 坊門信清 |
建暦2(1212)年の出来事
出来事
- 建暦2(1212)年正月23日法然、「一枚起請文」を著す。
- 正月25日法然、入寂。
- 2月23日後鳥羽上皇、延暦寺と園城寺の紛争に介入。
- 2月28日源実朝、相模川の橋の修理を実施。
- 3月5日後鳥羽上皇、「系図」の論議を実施。
- 3月22日朝廷、新制21ヶ条を宣下する(『建暦の新制』)。
- 3月26日守貞親王、出家。
- 3月幕府、園城寺の警護を命じる。
- 4月6日実朝、病気に臥す。
- 4月18日実朝、大慈寺の上棟式を行う。
- 5月16日北条朝時、実朝の勘気に触れる。
- 5月後鳥羽上皇、藤原秀能に命じ宝剣を探索させる。
- 6月24日実朝、和田義盛邸に出向く。
- 7月後鳥羽上皇、院宣を下し寺社権門が所有する荘園への税を免除する。
- 8月19日幕府、守護地頭に対して鷹狩禁止令を出す。
- 9月21日諸国の津料等を地頭得分に戻す。
- 10月22日奉行を派遣し関東分国の人民からの訴えを聞く。
- 12月11日実朝、従二位。
- 12月13日大嘗会挙行。
まとめ
法然が『一枚起請文』を記した後に入寂する。
『浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ』
(『よくわかる浄土宗』瓜生中 角川文庫20904 角川書店)
2月、後鳥羽上皇が、延暦寺が園城寺を攻撃しようとしているのを停める。
同月、源実朝が相模川に架かる橋の修理を行う。この橋は、かつて完工した際に、その帰りに初代将軍源頼朝が落馬し命を落とすこととなった因縁のある橋であった。
3月、順徳天皇が新制21ヶ条を宣下する。所謂『建暦の新制』である。
『被下新制廿一个條宣旨』
(『百錬抄』国立国会図書館デジタルコレクション)
内容は、寺社に関することが多く、官人の装束や私出挙の利息制限等にも触れられたものとなっている。
さらに、この月、後鳥羽上皇の同母兄である守貞親王が出家している。
《守貞親王系図》 平清盛━━━徳子 │ ┝━━━安徳天皇 │ 後白河天皇 │ │ │ ┝━━━━高倉天皇 │ │ 平滋子 │ │ ┝━━┳守貞親王 │ ┗後鳥羽天皇┳土御門天皇 │ ┗順徳天皇 │ 藤原信隆━━殖子
後鳥羽上皇は、7月に院宣を下し寺社勢力や権門が所有している荘園への課税を免除する。
一方の幕府は、9月、諸国の津料等を地頭得分に戻している。
そして、この年も押し詰まった12月、大嘗会が行われた。
建暦2(1212)年の覚え方とポイント
悩む人に苦しむ人に(1212年)救いを差し伸べようとした法然が入寂
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