時代
鎌倉時代
天皇
【代数】 | 第83代 |
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【天皇名】 | 土御門天皇 |
(「土御門天皇像」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 Wikimedia Commons)
太上天皇
【太上天皇名】 | 後鳥羽太上天皇 |
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(「後鳥羽天皇像」水無瀬神宮所蔵 Wikimedia Commons)
政体
幕府
【征夷大将軍】 | 源実朝 |
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【執権】 | 北条義時 |
【政所別当】 | 大江広元(中原広元) |
【侍所別当】 | 和田義盛 |
【問注所執事】 | 三善康信 |
【京都守護】 | 中原季時 |
朝廷
【関白】 | 近衛家実 |
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【太政大臣】 | 大炊御門頼実 (正月21日まで) |
【左大臣】 | 藤原隆忠 |
【右大臣】 | 近衛道経 (3月26日まで) 九条良輔 (4月10日から) |
【内大臣】 | 九条良輔 (4月10日まで) 徳大寺公継 (4月10日から) |
【大納言】 | 九条兼良 徳大寺公継 (4月10日から) 三条公房 (4月10日から) |
【権大納言】 | 三条公房 (4月10日まで) 中山兼宗 鷹司兼基 久我通光 藤原公経(西園寺公経) 九条道家 二条定輔 (4月10日から) |
【中納言】 | 二条定輔 (4月10日まで) 大炊御門師経 藤原家経 藤原公国 (4月10日から) |
【権中納言】 | 藤原公国 (4月10日まで) 九条良平 源通具 日野資実 藤原保家 (4月14日まで) 四条隆衡 源雅親 土御門定通 (4月10日から) 藤原長兼 (4月14日から) |
【参議】 |
藤原仲経 土御門定通 (4月10日まで) 姉小路公宣 藤原長房 坊門忠信 藤原長兼 (4月14日まで) 滋野井実宣 葉室光親 源有雅 (正月13日から) 藤原公清 (4月10日から) 山科教成 (4月14日から) |
【関東申次】 | 坊門信清 |
承元3(1209)年の出来事
- 承元3(1209)年4月10日源実朝、従三位。
- 5月12日和田義盛、「上総国国司」を希望するが、北条政子に拒絶される。
- 5月20日怪異を鎮めるため梶原景時の供養を実施。
- 5月26日実朝、右近衛中将に任じられる。
- 8月12日藤原忻子、崩御。
- 11月14日北条義時、自らの郎従を准御家人にしようとして、政子に拒絶される。
まとめ
侍所別当の和田義盛が、上総国の国司就任を、朝廷に対し推挙してくれるように、将軍の源実朝と北条政子に願い出る。
義盛が国司への就任を願い出たのは、鎌倉幕府にとって重要な意味が含まれていた。
幕府草創以来、国司に就任出来るのは源氏に限定され、御家人は、国司に就かないとするのが慣例となっていたのである。
しかし、北条時政が、将軍外戚(時政は源頼家の外戚に当たる)であることを理由にして遠江守に就任してしまった。
さらに、時政の子の北条義時が相模守に就任するに至り、義盛は北条氏の専横に対して立ち向かう姿勢を見せたのであった。
『左衛門尉義盛上總國司所望事』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
しかし、政子は、この義盛の請願を却下し拒絶する。
実朝も政子の決定に従うしか無く、義盛の請願は虚しく潰え去る。
この直後、怪異が発生し、幕府では、梶原景時の供養を行っている。
『營中有怪異』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
景時は、侍所所司から失脚し殺害された人物であり、この景時の供養は、侍所別当である義盛への牽制とも取れる。
(供養が行われた法華堂跡)
なお、義盛が取った上総国の国司就任への行動は、北条氏側に動揺を与えることとなり、執権である義時は、自らの郎従で勲功を挙げていた者を御家人に准じた扱いにしようとする。
『相州、年來郎從皆伊豆國住民也、號之主達、之中、以有功之者可准侍之旨』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
だが、この義時の動きは、政子に拒絶され実現出来ずに終わる。
この年、後白河天皇の皇后であった藤原忻子が亡くなる。平安の御世は遠いものとなって行く。
承元3(1209)年年の覚え方とポイント
北条の人に遅れ(1209年)取らぬと和田義盛!