葛城葦田宿禰について
【名前】 | 葛城葦田宿禰 |
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【読み】 | かずらきのあしだのすくね |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 古墳時代 |
【父】 | 葛城襲津彦 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 葛城磐之媛 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 葛城蟻・葛城黒媛 |
【氏】 | 葛城氏 |
葛城葦田宿禰の生涯
葛城葦田宿禰の生い立ち
葛城葦田宿禰は、葛城襲津彦の子とされる。
ただし、誕生年や生母については不明である。
姉妹に、葛城磐之媛がいる。
なお、葦田宿禰の「葦田」は大和国葛下郡内の地名でもある。このことから、同地が葦田宿禰の所縁の地と考えられている。
葛城葦田宿禰の足跡
実は葛城葦田宿禰が、どのような人物で何をしたのかは一切が不明である。
『日本書紀』・『古事記』に記された次の一文が葦田宿禰の存在を伝えるのみである。
『秋七月の己酉の朔壬子に、葦田宿禰が女黒媛を立てて皇妃とす』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
『古事記』には、
『葛城の曾都毘古の子、葦田宿禰の女、名は黒比賣命を娶し』
(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』倉野憲司 武田佑吉 校注 岩波書店)
とある。
葦田宿禰の娘の黒媛は、イワサカノイチノベノオシワ王子(磐坂市辺押羽皇子)・ミマ王子(御馬皇子)・アオミ王女(青海皇女)を出産している(『日本書紀』履中天皇元年7月4日条)。
ただし、『日本書紀』には、アオミ王女(青海皇女)はイイトヨノアオ王女(飯豊青皇女)のこととして、葦田宿禰の孫とする箇所もある(『日本書紀』顕宗天皇即位前紀条)。
『市邊押磐皇子、蟻臣の女夷媛(*)を娶す。(略)蟻臣は、葦田宿禰の子なり』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
(*)夷媛の夷は「草冠」に「夷」
このように、葦田宿禰の名が見えるのは、いずれも系譜を示す中のみである。
これは、古代倭(日本)の雄族・葛城氏と結び付いた大王家(皇室・天皇家)の血筋の正統性を「葛城葦田宿禰」が担保しているかのようであって、大いに注目されるべき点と言える。
葛城葦田宿禰とは
葛城葦田宿禰は、大和国葛下郡の「葦田」を含む葛城地方北部を拠点にしていたと考えられている。
(葛城地方北部の巣山古墳群)
葦田宿禰は、葛城氏の中で所謂「葦田宿禰系」と呼ばれる一族の始祖として捉えられる。
また、葛城地方北部を拠点とする葛城氏内の一族に関わる出来事等を「葛城葦田宿禰」と言う人物に託したと言う解釈も出来得る。
この葦田宿禰系は、ヤマト王権(大和朝廷)との関わり合いの中で一族の男性が政治に関与した形跡が見られないと言う特徴を持っている。このことは、和珥氏に近いものがある。
一方、非葛城氏系のオオハツセノワカタケ大王(雄略天皇)が行った大王家(皇室・天皇家)内の粛清の結果、シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ大王(清寧天皇)が亡くなった後、ヲケ大王(顕宗天皇)とオケ大王(仁賢天皇)が王位(皇位)を譲り合う事態に至り王権に政治的空白が生じることとなる。
その際、イイトヨノアオ王女(飯豊青皇女)が王位(皇位)を守り王権を維持したことで ヤマト王権(大和朝廷)は存続を保てている。
換言すれば、ヤマト王権(大和朝廷)の王統(皇統)断絶の最初の危機を救ったのが葦田宿禰の血統だったのである。
葛城葦田宿禰の系図
《葛城葦田宿禰の系図》 応神天皇━━仁徳天皇━雄略天皇 │ ┝━━━履中天皇 │ │ │ ┝━━━━市辺押磐皇子 │ │ │ │ │ ┝━━━━━┳飯豊青皇女 │ │ │ ┣仁賢天皇 │ │ │ ┗顕宗天皇 │ │ │ 葛城襲津彦┳磐之媛 │ │ ┗葦田宿禰┳黒媛 │ ┗蟻臣━━━━夷媛(*)
(*)夷媛の夷は「草冠」に「夷」
葛城葦田宿禰の年表
- 履中天皇元(400)年7月4日葛城黒媛、イザホワケ大王(履中天皇)の妃となる。