鎌倉幕府将軍について
【表記】 | 鎌倉幕府将軍 |
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【読み】 | かまくらばくふしょうぐん |
鎌倉幕府将軍とは
「鎌倉殿」とも呼ばれる。
当初、源頼朝は独裁的な性格を持っていたものの、彼の子、源頼家は事実上失脚し、源実朝は北条政子を通した北条氏の傀儡将軍であった。
政子の死後、北条泰時により幕府の機関が整備され、御家人の合議による政治体制を確立した上で、九条家から将軍を迎える(摂家将軍)。
北条時頼が執権となると、『承久の乱』に拠り関係の悪化していた朝廷から将軍を迎える(宮将軍)。と、同時に幕府内では北条得宗専制が強まり、以後、将軍は、得宗家の意向に沿わない場合には、鎌倉からの「追放」が行われるようになっていくこととなる。
鎌倉幕府将軍の変遷
源家将軍の誕生
建久3(1192)年7月12日、後鳥羽天皇から源頼朝に対して、征夷大将軍宣下が行われる。「鎌倉殿」であり「征夷大将軍」である頼朝は、8月5日に政所始を行っている。
頼朝の死後は、頼朝の子の源頼家が将軍職を相続する。
しかし、将軍親政を目指す頼家は、外戚政治を狙う北条時政にとっては邪魔であり、そして、頼朝の妻としての権力を保持を狙う北条政子にはやはり邪魔であった。かくて、時政や政子等の前に頼家は将軍職を僅か1年ほどで廃止される。
将軍職は、頼家の弟の源実朝が就く。
《源家将軍》 源義朝━━頼朝 ┃ ┣━┳頼家 ┃ ┣実朝 ┃ ┗大姫 ┃ 北条時政━政子
摂家将軍の誕生
承久元(1219)年正月に3代将軍源実朝が暗殺される。
そこで、幕府は、後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王か雅仁親王の将軍就任を要請する。しかし、後鳥羽上皇は拒否し摂関家からの将軍を容認した。そこで、源頼朝の姪の孫に当たる九条三寅(満1歳・父は九条道家)がで鎌倉へ下向することになった。
ただし、後鳥羽上皇は将軍宣下を行わなかったため、当初は、北条政子が「簾中聴政」と言う形を採り、北条義時が「奉行」として政務を執った。
三寅が将軍になったのは元服し藤原頼経となって以降の嘉禄2(1226)年のことであった。ここに「摂家将軍」が誕生する。
「摂家将軍」と言っても、女系ながら源氏の血を引いていることは留意されるべきである。
《摂家将軍》 源義朝━┳頼朝 ┗坊門姫 ┃ ┣━━━━全子 ┃ ┃ 一条能保 ┃ ┣━━━━━綸子(淑子) ┃ ┃ 西園寺公経 ┃ ┃ ┣━━━━三寅(藤原頼経) ┃ 藤原忠通━九条兼実━━良経━━━━┳道家 ┗立子 ┃ 順徳天皇
宮将軍の誕生
4代将軍藤原頼経は寛元2(1244)年に将軍職を退き、頼経の子の藤原頼嗣が将軍職を継いだ。この頃には、頼経の周辺に「反執権」の派閥が形成されるようになる。
寛元4(1246)年、4代執権北条経時が死去し北条時頼が執権に就任する。時頼は、すぐさま、北条氏分家の北条光時(江馬光時)を討伐し、頼経を鎌倉から追放する。さらに、時頼は、翌宝治元(1247)年には、幕府の有力御家人である三浦氏を滅ぼす(『宝治合戦』)。
ここに至り、時頼は、得宗(北条氏本家)のための将軍擁立を決意し、後嵯峨上皇の第一皇子である宗尊親王を京から迎える。こうして、建長4(1252)年、宗尊親王は将軍となり、「宮将軍」が誕生する。
その宗尊親王も、「反得宗(反北条氏本家)」の動きに加担し将軍職を追われる。
これ以降、「得宗専制」維持のために、将軍は執権の補佐を必要とする「幼将軍」とされるようになる。
歴代鎌倉幕府将軍一覧
【将軍名】 | 【就任時期】 | 【離任時期】 | 【父親】 |
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源頼朝 | 建久3(1192)年7月12日 | 正治元(1199)年正月13日 | 源義朝 |
源頼家 | 建仁2(1202)年7月23日 | 建仁3(1203)年9月7日 | 源頼朝 |
源実朝 | 建仁3(1203)年9月7日 | 承久元(1219)年正月27日 | 源頼朝 |
藤原頼経 | 嘉禄2(1226)年正月27日 | 寛元2(1244)年4月28日 | 九条道家 |
藤原頼嗣 | 寛元2(1244)年4月28日 | 建長4(1251)年3月21日 | 藤原頼経 |
宗尊親王 | 建長4(1251)年4月1日 | 文永3(1266)年7月4日 | 後嵯峨天皇 |
惟康親王 | 文永3(1266)年7月24日 | 正応2(1289)年9月14日 | 宗尊親王 |
久明親王 | 正応2(1289)年10月9日 | 延慶元(1308)年8月4日 | 後深草天皇 |
守邦親王 | 延慶元(1308)年8月27日 | 元弘3(1333)年5月21日 | 久明親王 |