織田信光(織田孫三郎)【そうです!私が織田信長を助けた叔父さんです!】

織田信光(織田孫三郎)について

【名前】 織田信光(織田孫三郎)
【読み】 おだのぶみつ(おだまごさぶろう)
【法名】 凌雲寺殿
【生年】 永正13年(1516年)
【没年】 弘治元(1556)年11月26日
【時代】 戦国時代
【出仕先】 尾張国下四郡守護代織田大和守家
【職能】 尾張国守山城城主
【父】 織田信定
【母】 織田良頼の娘(含笑院)
【兄弟姉妹】 織田信秀・織田信康・織田信正・織田信実・織田信次・女子(松平信定室)
【配偶者】 松平信定(桜井松平氏)の娘
【子】 織田信成・織田信昌・織田仙千代
【氏】 織田氏(織田弾正忠家)

織田信光(織田孫三郎)の生涯

織田信光(織田孫三郎)の生い立ち

織田信光は、織田信定の三男として、永正13年(1516年)に誕生する。

母は織田良頼の娘(含笑院)とされている。同母兄に、織田信秀がいる。

元服の時期等は不明である。元服後には、これもまた確かな時期は不明であるが、守山城城主となっている。

守山城跡
(守山城跡)

こうして、信光は、兄の信秀と共に織田弾正忠家の主力となって行く。

織田信光(織田孫三郎)と兄・織田信秀

織田信秀が家督を相続すると、織田信光は、三河国への侵略に大きく関わるようになる。

この背景には、織田弾正忠家と三河国桜井松平氏との婚姻がある。

《織田氏(織田弾正忠家)と三河松平氏》

松平長親┳信忠━清康━広忠━元信(徳川家康)
    ┗信定━女子
      │  │
      │  └────┐
      │       │
      └──┐    │
         │    │
織田敏定━信定┳女子    │
       ┣信秀    │
       ┗信光    │
         │    │
         └────┘

信光の姉妹が桜井松平氏の当主・松平信定の妻となっており、さらに、信定の娘が信光の妻となっているのである(これらの正確な婚姻時期は不明である)。二重の婚姻関係に拠って、信光は桜井松平氏と強く結びついていた。

そのような状況下、三河の松平清康が信光からの内応の約束を得て、天文4(1535)年12月、尾張国へ侵入し守山城を包囲する。守山城は、元々の信光の拠点であり、やすやすと松平軍が守山城下に進軍出来たのも信光から何らかの手引きがあったからと考えてもおかしくは無い。

こうして、清康は守山に本陣を置いた。

ところが、清康配下の阿部弥七郎が清康を殺害すると言う事件が陣中で勃発する。このため松平軍は大混乱に陥り三河へ撤退する。所謂『守山崩れ』である。

そこを突く形で、信秀が勝幡城から織田軍を指揮して一気に三河国への侵略を開始するが、松平軍から強烈な反撃を受けて大きな損害を出して兵を引くこととなっている。

『守山崩れ』の結果、三河国の松平氏は桜井松平氏の信定が惣領(当主)となる。信光からすれば、義兄弟であり舅でもある信定が松平氏を継いだことになる。

このことから『守山崩れ』は、信定と信秀・信光との陰謀ではないかとする説もある。実際、松平軍が尾張国守山城下へ激しい抵抗も受けずに侵攻するのは、信光の関与が無い限り不可能と思われる。

しかし、その後、清康の子・松平竹千代(松平広忠)が駿河国の今川義元の後援を受けて惣領に返り咲く。それは、織田氏が今川氏と敵対することを意味したのである。

今川氏が広忠を押し立てながら東三河を支配下に収めつつ西進を開始。ここに、西三河は織田氏と今川氏の軍事力がせめぎ合う場となって行く。

織田信光(織田孫三郎)と『小豆坂合戦』

そして、天文11(1542)年8月、西三河の安祥城を巡り、今川・松平連合軍が軍事行動を起こす。これに応戦する形で織田軍も西三河へ展開する。

この時の兵力は、今川・松平連合軍が4万に対し、織田軍は4000であったとされる。同じ兵装では兵力差が勝敗の帰趨に重みを持つ。実際、今川・松平連合軍が数に物を言わせて織田軍を圧倒して行く。

ここで、織田信光・織田信房・岡田直教・佐々木勝通・佐々木勝重・中野忠利・下方匡範の七人が、今川・松平連合軍の前に立ちはだかり、その勢いを挫く。

これを契機として、織田軍は少数を武器にして小回りを利かせて攻め掛かり、今川・松平連合軍の統率を乱すことに成功する。そして、遂に、今川・松平連合軍に陣形を立て直す暇も与えずに撤退させている。後に『第一次小豆坂合戦』とも呼ばれるこの戦いは、信光たちの奮戦で織田軍の勝利に終わったのである。

この合戦で奮戦し織田軍を勝利に導いた七人は後に「小豆坂の七本槍」として賞賛されることとなる。

小豆坂合戦戦場跡
(小豆坂合戦 戦場跡)

さらに、天文17(1548)年3月、織田軍と太原崇孚が率いる今川軍との間で『第二次小豆坂合戦』が繰り広げられる。

織田軍は一旦は優位に立つものの、崇孚の巧みな戦術の前に敗北している。

『小豆坂合戦』に関しては後世の軍記物や講談に拠って面白おかしく劇的に誇張されたり捏造されたりした影響もあり、実は史実としての詳細は不明な点が多いので注意が必要である。

織田信光(織田孫三郎)と甥・織田信長

織田信秀の死後、織田弾正忠家を相続したのは、信秀の嫡子・織田信長であった。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

尾張国下四郡守護代である織田信友(織田大和守家)は、相続したばかりの信長の弱体化を図り謀略を仕掛ける。

信長は、果敢に軍事行動に打って出て信友の出鼻を挫く。

この信長の軍事行動に、織田信光は、甥である信長の援軍として兵を指揮して参加している。

信長は軍事行動を起こすに当たり、信光に対して援軍を要請したものと思われるが、その詳細は不明である。

信長軍と共に、信光は、松葉口・三本木口・清須口へ自らの手勢の兵力を展開している。その上で、信長軍と合流して萱津口を攻撃した。

『萱津合戦』である。

この合戦は、信長軍と信友軍が五分の戦いであったことから見て、信光の帰趨が合戦の勝敗を左右したと言っても良い合戦であった。

今川義元の軍事的圧力を前にした天文23(1554)年、信長は妻の父である斎藤利政(道三)の支援を得て、今川軍の籠る村木砦の攻略に掛かる。

これは短期間で決着を付けねばならない合戦であったが、林秀貞・林美作守兄弟のボイコット等の逆風を信長は受けている。

それでも、信光は信長軍と共に出陣し、砦の西搦め手の攻撃を担当し激しい戦闘を繰り広げている。

村木砦跡
(村木砦跡)

大きな犠牲を出しながらも、信光は『村木砦合戦』の勝利に貢献している。

織田信光(織田孫三郎)、那古屋城へ入る

弘治元(1556)年4月、織田大和守家の有力家臣である坂井大膳からの調略を受ける。

内容は、織田大和守家当主で尾張国下四郡守護代の織田信友と二人で、

『ともに守護代にお成りください』

(『信長公記(上)』太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)

と言うものであった。

信光は、この大膳からの誘いを受諾し、織田大和守家の本拠である清須城(清州城)に迎えられ、そのまま南櫓に入る。

しかし、この一連の信光の行動は、全て信長と共謀して仕組んだ大膳を討ち取るための策略であった。これ以前に、信光は信長との間で「尾張国下四郡を二分割」とすることで合意していたのである。

信光は、南櫓に兵を配して大膳の殺害を目論んだが、大膳は危険を察知して逃走してしまった。そこで、信光は、大膳に見捨てられた信友を追い詰め、遂に自刃に追い込むことに成功する(信光が殺害したとする説もある)。

かくして手に入れた清須城を、信光は、そっくりそのまま信長に明け渡している。

この信光の功績に報いる形で、信長は自分の居城であった那古屋城を信光に譲っている。この那古屋城移譲は、信長との連携約定の中の決め事であったものと考えられる。

那古野城
(那古屋城跡 写真は現在の名古屋城)

信光は住み慣れた守山城を出て那古屋城に入る。

こうして、信光は信長の叔父として家中で重きを成すものと見られたが、この年の11月、突然この世を去ってしまうのである。

織田信光(織田孫三郎)とは

織田信光は、兄・織田信秀の片腕として働いた人物である。

信光は「小豆坂の七本槍」に数えられるだけの胆力の座った武士であった。

一方で、戦場での槍働きだけでは無くて、謀略渦巻く『守山崩れ』への関与が色濃いことにも示されるように極めて機知に富んだ腹黒い才も持ち合わせていた。

このように、織田弾正忠家は、信秀と信光が両輪となることで大きく発展したとも言える。

とりわけ、尾張国東部方面における信光の存在感は相当な重みがあったものと想像される。

松平長親系から分立した福釜松平氏・桜井松平氏・東条松平氏・藤井松平氏の中から桜井松平氏に接近した父・織田信定の戦略を、信光は継承し任されていたのではないだろうか。

信秀が没した後、信光は後継者となった織田信長とは、尾張国下四郡を二分することで折り合いを付けている。その後、間もなく、信光は不慮の死を遂げてしまうが、信光が永らえていた場合、信長との関係がどう展開したのか?を考えることは興味が尽きない。

その信光の最期については、正室の不倫相手(坂井孫八郎)に殺害されたもの(『甫庵信長記』)と言う。

この余りにも不自然な最期のため、信光の存在が自分の将来の脅威になると感じた信長に謀殺されたとする説がある。

ただし、当時の信長が置かれていた状況を考えると首肯し難いと言える。信長は同母弟の織田勘十郎との内紛を抱えており、織田弾正忠家内すらまとめられていない状態であった。

つまり、信長にとって信光を喪うことは大きな痛手でしかなかったことを考えると、信長の謀殺論は穿ちすぎのように思われる。それよりも、正室が松平信定の娘であったことを考えると、今川氏の謀略とも考えられなくも無い。

もっとも信光の死因については『甫庵信長記』が、どこまで信用出来るか?と言う問題に行き着くのではあるが・・・。

織田信光の存在があればこそ、織田信秀が潤沢な経済力を基盤にした尾張国の支配が実行に移せたのである。

それは、織田信長が登場する基礎を固めた有力な人物のひとりが織田信光であったと言い換えても良いのかも知れない。

織田信光(織田孫三郎)の系図

《織田信光(織田孫三郎)系図》

織田敏定━信定━━━━━━━信実
      │
      ┝━━━━━━┳信秀━信長
      │      ┣信光┳信成
      │      ┃ │┣信昌
      │      ┃ │┗仙千代
      │      ┃ │
      │      ┃ └──────┐
      │      ┃        │
      │      ┗信次      │
      │               │
織田良頼━女子(含笑院)          │
                      │
松平長親┳信定━━━━━━━女子      │
    ┃          │      │
    ┃          └──────┘
    ┃
    ┗信忠━━━━━━━清康━広忠━元信(徳川家康)

織田信光(織田孫三郎)の年表

年表
  • 永正13年(1516年)
     
    誕生。
  • 天文4(1535)年
    12月5日
    『守山崩れ』。
  • 天文11(1542)年
    8月10日
    『第一次小豆坂合戦』。
  • 天文17(1548)年
    3月19日
    『第二次小豆坂合戦』。
  • 天文22(1553)年
    8月
    『萱津合戦』。
  • 天文23(1554)年
    正月24日
    『村木砦合戦』。
  • 弘治元(1556)年
    4月19日
    清須城南櫓に入る。
  •  
    4月20日
    織田信友を切腹させる。
  •  
    11月26日
    死去。