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冠位十九階について
【表記】 | 冠位十九階 |
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【読み】 | かんいじゅうきゅうかい |
【時代】 | 孝徳天皇朝 |
『冠位十九階』とは
『冠位十三階』に続いて、日本で三番目に制定された冠位制度。
中大兄皇子を中心とする改新政権によって、大化5(649)年2月に制定された。
特徴としては、位階が、後の令制下の四位から初位の正従に相当するよう十三階から十九階に増加されている。
新冠位(官位)制度への抵抗者二名が都合良く消える
大化5(649)年3月17日、阿倍内麻呂(左大臣)が死去。
続いて、同月25日には、蘇我倉山田石川麻呂(右大臣)が中大兄皇子に対する謀反容疑を掛けられた挙句、自害に追い込まれる。
ここに、先に制定された『冠位十三階』に従わなかった左右大臣の二名が実に都合良く揃って政権から消える。
『冠位十九階』体制の左右大臣
大化5(649)年4月25日、巨勢徳陀古は小紫(従三位相当)から大紫(正三位相当)に進み左大臣に就任し、大伴長徳も小紫(従三位相当)から大紫(正三位相当)に進み右大臣に就任したことで、改新政権の冠位制度が完全に機能する。
ここに左右大臣が揃って冠位制度(官位制度)に従ったことで、天皇を頂点として豪族(主に畿内の豪族に限定される)を官人として体制に組み込む中央集権の基礎が形成される。
『冠位十九階』制定の謎
阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の二人は、大化3(647)年に制定された『冠位十三階』に対し、公然と不服従の態度を示した。
ところが、大化5(649)年、中大兄皇子は、なおもこの二人を挑発するかのように『冠位十九階』を制定したのである。そして、その直後に、実にこの上無いほど絶妙なタイミングの良さで阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の二人は揃って死去し改新政権から消えた。
中大兄皇子の『冠位十九階』制定は、あたかも阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の死を予定に入れたかのように進められた。
果たして、この時系列の並びは単なる偶然であったのか?否か?それは不明である。
『冠位十九階』と『冠位十三階』との比較
冠位十九階
- 大織
- 小織
- 大繍
- 小繍
- 大紫
- 小紫
- 大花上
- 大花下
- 小花上
- 小花下
- 大山上
- 大山下
- 小山上
- 小山下
- 大乙上
- 大乙下
- 小乙上
- 小乙下
- 立身
冠位十三階
- 大織
- 小織
- 大繍
- 小繍
- 大紫
- 小紫
- 大錦
- 〃
- 小錦
- 〃
- 大青
- 〃
- 小青
- 〃
- 大黒
- 〃
- 小黒
- 〃
- 建武
『冠位十九階』と大宝律令官位相当との比較
冠位十九階
- 大織
- 小織
- 大繍
- 小繍
- 大紫
- 小紫
- 大花上
- 大花下
- 小花上
- 小花下
- 大山上
- 大山下
- 小山上
- 小山下
- 大乙上
- 大乙下
- 小乙上
- 小乙下
大宝律令官位相当
- 正一位
- 従一位
- 正二位
- 従二位
- 正三位
- 従三位
- 正四位上下
- 従四位上下
- 正五位上下
- 従五位上下
- 正六位上下
- 従六位上下
- 正七位上下
- 従七位上下
- 正八位上下
- 従八位上下
- 大初位上下
- 小初位上下
『冠位十九階』の年表
年表
- 大化5(649)年2月2月『冠位十九階』制定。
- 3月17日左大臣・阿倍内麻呂、死去。
- 3月25日右大臣・蘇我倉山田石川麻呂、自害。
- 4月25日巨勢徳陀古、大紫・左大臣。
大伴長徳、大紫・右大臣。