百済王昌成について
【名前】 | 百済王昌成 |
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【読み】 | くだらのこにきししょうじょう・くだらのこにきしまさなり・くだらのこにきしまさひろ |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 天武天皇3(674)年 |
【時代】 | 飛鳥時代~天武天皇朝 |
【位階】 | 小紫追贈 |
【父】 | 百済王善光(禅広王・余禅広) |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 百済王遠宝・百済王南典 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 百済王郎虞(弟説あり) |
【孫】 | 百済王敬福 |
【氏】 | 百済王氏(百済氏) |
【姓】 | 王 |
百済王昌成の生涯
百済王昌成の生い立ち
百済王昌成は、百済国で百済王族として誕生する。
(百済)
父は、義慈王の王子・禅広王(善光・余禅広)である。
誕生年や生母、それに、百済王族(余一族)としての諱(実名)は不明である。また、倭(日本)で元服した可能性も考えられる。
百済王昌成、倭国(日本)へ
舒明天皇3(631)年、百済王昌成は、父の禅広王(善光・余禅広)や伯父の豊璋王と共に倭(日本)に渡る。
この時の昌成の年齢は不明である。ただ、当時の昌成は年少であったことが想定される。
禅広王(善光・余禅広)と豊璋王の倭への渡海と滞在は、倭の外交を百済の有利に導く使命を帯びたものであった。
そのような外交的な重大事に昌成が同行を許可されたのは、倭の同年代の王族(皇族)との誼を結ぶ目的があったのかも知れない。
しかし、その後、百済は、唐・新羅連合軍の侵略を受けて滅亡する。
昌成は、倭に亡命して来た百済人たちの次世代の希望を担うこととなる。
百済王昌成の死
百済王昌成は、父の余禅広(百済王善光)と共に国を喪失した百済人たちの倭(日本)での生活の安定を図ると同時に朝鮮半島での百済再興を目指したものと思われる。
しかし、昌成は、天武天皇3(674)年、その志半ばにして死去する。
『三年の春正月辛亥の朔庚申に、百濟王昌成薨せぬ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
死にあたり小紫(大宝律令官位で従三位相当)が追贈されている。
百済王昌成とは
百済王昌成については不明な点が多い。
『日本書紀』には、昌成に関する記述は僅か一ヵ所、その死を伝える記事のみである。
これは、『壬申の乱』に拠って正統な王統(皇統)から王位(皇位)を軍事力で簒奪したアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)が「親・新羅」路線を採っていたことが関係していると思われる。
恐らく、正統な王統(皇統)のアメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)の時代には、何らかの官職に就いていたことが容易に想像されるところであるが、それらの履歴は意図的に無視されているかのようである。
ただ言えることは、祖国を侵略され住むところを失って倭(日本)に亡命して来た多くの百済人にとっては、百済王昌成の存在が「明日の寄る辺」であり、また、昌成も、それらの期待に応えようとしたことである。
昌成の志は、昌成の兄弟や子供たちに託されることとなる。
百済王昌成の系図
《百済王昌成系図》 高朱蒙━温祚王━(略)━義慈王┳豊璋 ┗百済王善光━昌成━郎虞━敬福
百済王昌成の年表
- 舒明天皇3(631)年倭国へ渡海。
- 天武天皇3(674)年正月10日死去。