大奥

大奥について

【表記】 大奥
【読み】 おおおく

大奥とは

江戸時代。

幕藩体制下、諸大名や旗本等の有力武家の御殿や屋敷は、政治向きのことを行なう「表」と、当主の私的な生活空間である「奥」とに分かれており、とりわけ徳川将軍家の居城である江戸城本丸における「奥」のことを「大奥」と呼んだ。

男子禁制の大奥

江戸城本丸大奥は将軍、西ノ丸御奥には大御所(前将軍)や将軍世子(後継者)等しか男性は入れず、所謂「男子禁制」の空間であり、とりわけ本丸大奥は将軍の生殖空間のとしての役割を担っていた。

このため、大奥(本丸大奥)は、将軍正室である御台所を頂点とした女性だけで構成された組織であった。

大奥組織は、上﨟を最高位としたが、御台所を京から迎えることが常態化すると、上﨟も、御台所の輿入れと共に京から下って来る公家出身者が多く、事実上の大奥における最高権力者は武家出身の御年寄であった。

大奥の権力

大奥は、将軍に近しい存在であることから、その関係を利用した大奥による政治介入は、しばしば法度によって固く禁止されることとなったが、実際は、大奥勤めの女性との縁故関係や賄賂等を利用した不正が行なわれていた。

また、大奥での浪費に規制をかけようとした松平定信や水野忠邦らは、逆に大奥の反感を買ったがために失脚させられたとも言われるほど、大奥の力はすこぶる強力なものであった。

それ故に、「絵島生島事件」等の政治的な要因を含む事件や、「延命院事件」のようなスキャンダルも発生した。

ただし、大奥の組織や職制、人物に関しては、将軍に直結する部分が多いだけに最高機密とされていたため、正確なことは不明であるのが実情である。

その大奥も『明治維新』によって、秘められた歴史に幕を下ろす。

大奥の組織と役職

《大奥(本丸大奥)組織略図》

 御台所━┳上﨟
     ┗御年寄━御客会釈━中年寄━┳御中﨟
                   ┗━━━━┳御坊主
                        ┣御小姓
                        ┣御錠口
                        ┣表使━━━━━御使番*
                        ┣御次━━━━━御仲居*
                        ┣御右筆
                        ┣御切手書
                        ┣呉服之間
                        ┣御三之間*
                        ┣御広座敷*━━御火之番*
                        ┗━━━━━━┳御末*
                               ┗御犬子供*

*・・・将軍御目見得以下

大奥の年表

<元和4(1618)年>
正月元日、『大奥法度』制定。

大奥は男子禁制とされる。

<元和9(1623)年>
正月23日、『大奥法度』改定。

<寛文10(1670)年>
12月、老中連署による『大奥法度』改定。

<正徳4(1714)年>
正月12日、「絵島生島事件」。

<享保元(1716)年>
11月28日、「大奥法度」改定。

大奥による政治介入を禁止する。

<享保6(1721)年>
4月、「大奥法度」改定。

<享和3(1803)年>
7月29日、「延命院事件」。

<天保12(1841)年>
10月5日「智泉院事件」。

<天保15(1844)年>
5月10日、本丸大奥で火災が発生し、奥女中100人余が焼死。

<明治元(1868)年>
4月11日、江戸城を官軍に明け渡す。