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中宮職について
【表記】 | 中宮職 |
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【読み】 | ちゅうぐうしき |
【国風読み】 | なかのみやのつかさ |
中宮職とは
中務省被管の官職(大職)。
中宮職の職掌
天皇の正妻である皇后に関わる諸事に携わる令制官。
後宮内における事務管理業務を担当。
また、皇后に臣下の言葉を奏上し、皇后からの言葉を臣下に伝える役割を担った。
中宮職の別名
奈良時代、藤原仲麻呂に拠って「中宮省」と改名された。
中宮職の歴史
中宮天皇
天智天皇称制5(666)年の年号(「丙寅」)が明記される野中寺所蔵の弥勒菩薩像の銘文に「中宮天皇」とあり、この記述をして「中宮」の名称が日本史に登場した始まりとされる。
この「中宮天皇」については、誰のことを指するのかは諸説あり明確でない。
次いで、薬師寺東塔に残る天武天皇9(680)年の銘文に「中宮」とある。
(薬師寺)
この「中宮」は、天武天皇の皇后である菟野皇后(後の持統天皇)を指すことが確実とされる。
このことから、中宮職の制定を飛鳥浄御原令からとする説もある。
令制直後から捻じれる中宮職
『大宝律令(大宝令)』での「中宮職」の制定は、藤原宮子のためであったとされている。
そこには、本来、皇后となる資格を有しない宮子を、文武天皇の皇后へと実質的に立てようとした藤原不比等の思惑があったと見られる。
この結果、本来、皇后に仕えるために置かれた官職である中宮職が、宮子に属したために、聖武天皇皇后の藤原光明子には、新たに設置された令外官の皇后宮職が属することとなってしまった。
(『聖武天皇像(部分)』 Wikimedia Commons)
《関係略図》 ┌───┐ │中宮職│(本来皇后のための職) └─┬─┘ ↓ 藤原不比等┳━━宮子(天皇生母) ┃ │ ┃ ┝━━━━聖武天皇 ┃ │ │ ┃ 文武天皇 │ ┃ │ ┃ ┌─────┘ ┃ │ ┗━━光明子(皇后) ↑ ┌─┴──┐ │皇后宮職│(令外官) └────┘
奈良時代の中宮職
藤原仲麻呂が台頭すると、仲麻呂の権力基盤として、皇后宮職が紫微中台となったことに伴い、中宮職も中宮省に昇格される。
だが、『恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)』後、中宮省は中宮職に戻される。
桓武天皇の即位に拠り、桓武天皇生母で皇太夫人となった高野新笠に中宮職が属する。
(『桓武天皇像(部分)』延暦寺所蔵 Wikimedia Commons)
このため、桓武天皇の皇后に立った藤原乙牟漏には、皇后宮職が属した。
《関係略図》 ┌───┐ │中宮職│(本来皇后のための職) └─┬─┘ ↓ 高野新笠(天皇生母) │ ┝━━━━━━━━━桓武天皇 │ │ 光仁天皇 │ │ 藤原良継━━━━━━━乙牟漏(皇后) ↑ ┌─┴──┐ │皇后宮職│(令外官) └────┘
『中宮皇后並自平城至』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
平安時代の中宮職
醍醐天皇の皇后・藤原穏子に中宮職が属する。
(『醍醐天皇像(部分)』醍醐寺三宝院所蔵 Wikimedia Commons)
ここに、中宮職制定の本来の目的である「皇后に属する官職」と言う性格は、ようやく実現する。その実現は、『大宝令』で「中宮職」が制定されてから、約200年後のことであった。
ここに、皇后に属する中宮職と言う関係から転じて、皇后のことを「中宮」と呼ぶようになって行く。
(平安宮内裏)
藤原定子が、正暦元(990)年に一条天皇の皇后となる。
(『一条天皇像(部分)』真正極楽寺所蔵 Wikimedia Commons)
定子には中宮職が属した。先帝の円融上皇の后(中宮)である藤原遵子には、皇后宮職が属する。
《関係略図》 ┌───┐ │中宮職│(本来皇后のための職) └─┬─┘ ↓ 藤原道隆━━━━━━━定子(中宮・皇后) │ ┏藤原道長 │ ┗藤原詮子(天皇生母) │ │ │ ┝━━━━━━━━━一条天皇 │ 円融上皇 │ 藤原遵子(円融上皇中宮) ↑ ┌─┴──┐ │皇后宮職│(令外官) └────┘
しかし、藤原道長が、長保2(1000)年、自分の娘である藤原彰子を一条天皇の皇后に強引に立て、一帝二后の状況を生み出す。
この結果、二人目の皇后となった藤原彰子に中宮職が、彰子に追い出される形で一人目の皇后の藤原定子には皇后宮職が、それぞれ属した。加えて、藤原遵子には皇太后職が置かれた。
《関係略図》 ┌────┐ │皇后宮職│(令外官) └─┬──┘ ↓ 藤原道隆━━━━━━━定子(皇后) │ ┏━━藤原詮子(天皇生母) │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━━━━━━━一条天皇 ┃ │ ┃ 円融上皇 ┃ │ ┃ 藤原遵子(円融上皇中宮) ┃ ↑ ┃ ┌─┴──┐ ┃ │皇太后職│(令外官) ┃ └────┘ ┃ ┗━━藤原道長━━━━━━━彰子(中宮) ↑ ┌─┴─┐ │中宮職│(本来皇后のための職) └───┘
他に太皇太后職も設置されるようになる。
近代の中宮職
明治時代になって、皇后宮職を常置したことで、中宮職は廃止される。
中宮職のまとめ
藤原不比等の野望から中宮職を設置したことに始まる職である。
不比等の娘の藤原宮子は皇后となれず公的な立場は「夫人」であった。
そのために、皇后に属する官職を皇后宮職では無く中宮職とすることで、その中宮職が属した宮子は、実質的には皇后となった。
極論すれば、中宮職は宮子のための令制官であった。
ところが、宮子の存命中に、宮子の子である聖武天皇が、宮子の妹である藤原光明子を妻とした。
しかも、光明子は、兄たちである藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)の手で、強引に皇后に立てられる。
藤原四兄弟は、中宮職を光明子に属することはせずに、新しく「皇后宮職」と言う令外官を創出し、光明子に属させた。
令制の規制を受けない令外官「皇后宮職」を、藤原氏の権力基盤とすることで、後宮からも朝廷政治を完全に支配する目的があったものと思われる。
実際、藤原仲麻呂の権力基盤となったのは皇后宮職であった。
しかし、これ以降、本来皇后に仕える中宮職と、臨時に設置され皇后に仕える皇后宮職と言う2つの皇后に仕える官職の関係は複雑に捻じれることとなった。
藤原定子の立后で、ようやく本来の形に収まるかに見えたところで、藤原道長の野望に拠って、再び捻じ曲げられてしまったのである。
このように、奈良時代直前期から平安時代中期頃において、政治を支配して来た藤原氏の思惑と密接な関係を持った官職と言える。
そして、中宮職と皇后宮職等のいびつな関係に終止符が打たれ解消されたのは、中宮職が制定されてから約1200年後の明治時代になってからのことだった。
中宮職の組織
《官制略図》 ┏神祇官 ┃ 天皇━┫ ┃ ┣太政官┳中務省━━┳中宮職 ┃ ┃ ┣左大舎人寮 ┃ ┃ ┣右大舎人寮 ┃ ┃ ┣図書寮 ┃ ┃ ┣内蔵寮 ┃ ┃ ┣縫殿寮 ┃ ┃ ┣陰陽寮 ┃ ┃ ┣画工司 ┃ ┃ ┣内薬司 ┃ ┃ ┣内礼司 ┃ ┃ ┗内匠寮 ┃ ┣式部省 ┃ ┣治部省 ┃ ┣民部省 ┃ ┣兵部省 ┃ ┣刑部省 ┃ ┣大蔵省 ┃ ┗宮内省 ┣弾正台 ┣衛門府 ┣左衛士府 ┣右衛士府 ┣左兵衛府 ┗右兵衛府
中宮職の役職
《役職》 大夫(従四位下)1名 亮(従五位下)2名 大進(従六位上)1名 少進(従六位下)2名 大属(正八位下)1名 少属(従八位上)2名 舎人(中宮舎人) 400人 使部 30名 直丁 3名
中宮大夫
唐名「長秋監」。
令制定時の相当官位は従四位下であったが、平安時代以降に従三位相当となる。
権大夫1名が置かれることもあった。
権大夫は、中納言・参議で、官位が三位以上の者が兼任した。
中宮亮
唐名「内常侍」。
令制定時の相当官位は従五位下であったが、平安時代以降に従四位下相当となる。
権亮が置かれることもあった。
権亮は、近衛府と兼任する場合が多かった。
中宮大進
唐名「内給事」。
令制定時の相当官位は従六位であったが、平安時代以降に従五位相当となる。
従四位に進んだ場合は、この職に留まることは出来なかった。
権大進が置かれることもあった。
中宮少進
唐名は大進と同じく「内給事」。
令制定時の相当官位である従六位は、平安時代以降も同じであった。
ただし、大進と決定的に違うのは、少進に任じられるのは、昇殿が認められない「地下(地下人)」と言うことである。
権少進が置かれることもあった。
中宮大属・少属
唐名「内侍」・「主事」・「録事」。
外記・民部丞(民部省三等官)の経験者が、大属・少属となることが多かった。
中宮職の年表
- 文武天皇元(697)年8月20日藤原宮子、文武天皇の夫人となる。
- 大宝元(701)年8月3日大宝律令、制定。
- 神亀元(724)年2月6日藤原宮子、大夫人となる。
- 3月22日藤原宮子、大御祖、皇太夫人となる。
- 天平元(729)年8月10日藤原光明子、聖武天皇皇后に立后。
- 天平勝宝元(749)年8月中宮省となる。
- 天平宝字8(764)年9月22日中宮職に戻される。
- 天応元(781)年4月15日高野新笠、光仁天皇の皇太夫人となる。
- 延暦2(783)年4月18日藤原乙牟漏、桓武天皇皇后に立后。
- 延長元(923)年4月26日藤原穏子、醍醐天皇皇后に立后。
- 正暦元(990)年10月5日藤原定子、一条天皇皇后に立后。
- 長保2(1000)年2月25日藤原彰子、一条天皇皇后に立后。
- 明治元(1868)年12月28日藤原美子(一条美子)、明治天皇皇后に立后。
- 明治2(1869)年皇后宮職を常置。