推古天皇5(597)年【風雲急を告げる東アジア!】

時代

飛鳥時代

天皇

【代数】 第33代
【天皇名】 推古天皇

政体

【摂政】 厩戸皇子
【大臣】 蘇我馬子

聖徳太子(厩戸皇子)
(「聖徳太子像(部分)」東京国立博物館所蔵 Wikimedia Commons)

推古天皇5(597)年の出来事

出来事
  • 推古天皇5(597)年
    4月1日
    百済王子・阿佐が来倭(来日)。
  • 11月22日
    吉士磐金を新羅に派遣する。

まとめ

推古天皇5(597)年、百済王が王子の阿佐を倭(日本)に派遣して来る。

『百濟の王、王子阿佐を遣して朝貢る』

(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

来倭(来日)の目的は貢物を奉るためであったと言う。

豊浦宮
(豊浦宮)

阿佐王子を派遣して来た百済王の名前は不明であるが、威徳王のことと考えられる。

『威徳王諱昌。聖王之元子也』

(「百済本紀」『三国史記』国立国会図書館デジタルコレクション)

《百済王家系図》

東条王━武寧王━聖王(聖明王)┳威徳王━阿佐
               ┗恵王━━法王━武王━義慈王

威徳王は翌推古天皇6(598)年に死去する王である。

このことから、自らの寿命の尽きることを悟った威徳王が、百済と倭(日本)との外交関係を強固なものへとすべく再構築を目的として派遣したものと推測される。

威徳王は、中国の歴代王朝との外交を進めていた王である。

それが、東アジアの超大国である隋帝国が近々朝鮮半島への攻撃を計画していることを知り、地政学的に自国の後方に位置する倭(日本)との関係を重要視しなければならなくなったものと見られる。

6世紀末の東アジア情勢
(6世紀末の東アジア情勢)

ただ、この威徳王の意向を受けて外交を行った阿佐王子については、王統の相続が変わった事も関係するためか、『三国史記』等にも、その名は見えない。

因みに、伝承では、この年に倭(日本)へ来た阿佐王子が、あの有名な御物『聖徳太子二王子像』の作者とされている。しかしながら、これに関しては到底史実とは考えられないとする見方が多い。

11月、ヤマト王権は、吉士磐金を新羅に派遣する。

おそらく、倭(日本)としては新羅の様子を探る意味合いがあったものと想像される。

推古天皇5(597)年の覚え方とポイント

酷なことだよ、王子に外交(597)