目次
妻木熙子について
【名前】 | 妻木熙子 |
---|---|
【読み】 | つまきひろこ |
【法名】 | 福月真祐大姉 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 天正4(1576)年11月7日(別説あり) |
【時代】 | 戦国~安土桃山時代 |
【父】 | 妻木勘由左衛門範熙 (妻木藤右衛門広忠 説あり) |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 妹(明智光秀後室) |
【配偶者】 | 明智光秀 |
【子】 | 明智十五郎・明智十二郎・明智乙寿丸・女子(明智秀満室)・女子(津田信澄室)・明智玉(細川ガラシャ) 等 |
【氏】 | 妻木氏 |
妻木熙子の生涯
妻木熙子の生い立ち
妻木煕子は、美濃国妻木郡の妻木範熙の娘とされる。また、別説として、父は妻木広忠とも言われる。いずれにしても、煕子の出自は妻木氏とされている。
美濃国の妻木氏で名の通った一族としては、土岐氏(清和源氏)から分派した妻木氏が存在するが、煕子の出た妻木氏が清和源氏か?どうか?確かなことは判明せず、その素性は不明と言わざるを得ない。
そして、有名武将の妻となる女性のお約束事ではあるが、熙子は「美しい娘」として育ったと伝えられる。
妻木熙子と明智光秀との婚姻
やがて、明智光秀との縁談が決まる。
光秀と縁談の決まった妻木煕子であるが、疱瘡に罹患し、その美しい顔に疱瘡による大きな痕跡が残ったために、範熙が熙子の妹の芳子を光秀の妻に入れようとするが、光秀はこれを断わり熙子を妻としたと言う。
煕子と光秀が婚姻したのは、天文22(1553)年頃のことと伝えられる。
しかしながら、熙子を娶る際に疱瘡の痕を光秀は気にすることもなく娶ったと言う話は、高橋紹運が斎藤鎮実の妹を娶る際の話と極めて酷似しており、この「疱瘡に罹患した煕子を光秀が娶った」と言う話は「名将あるある美談」の定型話に過ぎない。
妻木熙子、夫と越前へ
やがて、美濃国で国主の斎藤義龍が父の斎藤道三に対して武装蜂起を行うと、明智光秀たちもその余波を受け、弘治2(1556)年頃に美濃国を追われる。
(『斎藤道三像(部分)』常在寺所蔵 Wikimedia Commons)
美濃国を追われた光秀たちは、光秀の母方の縁を頼り、越前国坂井郡の称念寺(時宗寺院)の保護を受けたと言われる。難民生活の困窮下、妻木熙子は、光秀の世話や子育てに明け暮れる日々を過ごすことになる。
(越前国長崎称念寺)
煕子と光秀は、称念寺門前で、実に10年を暮らしたと言う。
ここで、『明智軍記』を始めとする軍記の類は、永禄5(1563)年、光秀は、一向宗暴徒の鎮圧に功績を挙げ、朝倉義景への出仕が叶ったとする。それも直接の仕官では無く、朝倉氏家臣の黒坂備中守(黒坂景久)に仕えたとされる。
しかしながら、光秀の朝倉氏への出仕を裏付ける確実な史料は無い。ただ、称念寺のある地域を治めていたのは、舟寄館(舟寄城)の黒坂備中守であった。
(称念寺と一乗谷の位置関係)
妻木煕子に関する越前での逸話
こうして、越前国に生活の拠点を置いた明智光秀であったが、その光秀が黒坂備中守に仕えることが出来たのは、実は、妻木煕子のおかげであったと言う。
当時の光秀のもとには、逃亡し離散していた明智一族が美濃国から続々と集まり始めており、決して生活は楽ではなかった。そのような生活を見かねた称念寺の住持が「仕官のきっかけになれば」と、光秀に、朝倉氏の家臣たちを集めた連歌の会を開く機会をもたらせた。
「絶好の好機到来!・・・なれど先立つものが無い」
光秀が困り果てていると、熙子は自慢の美しい黒髪を売って連歌の会を開くために必要な金を用立てた。光秀は、どれほど熙子に感謝したことであろうか。苦しい不遇の時代を光秀が乗り切れたのは、熙子の献身的な支えがあればこそのものであった。
そして、光秀も連歌の会を見事に取り仕切って面目を果たし、それ相応の「文武に秀でた武将」との心象を朝倉氏の家臣に与えることが出来たがために、仕官も叶ったと言うのである。
もっとも、この「熙子が、お金に困窮している夫を助けるために、誰もがうらやむほど美しかった自慢の黒髪を売って金を工面した」と言う美談は、これまた、やはり、山内一豊の室の逸話で、貧しい夫のために自慢の黒髪を売って金を用意した話と寸分違わぬ「良妻賢母あるある美談」であって、講談話の定番中の定番である。
妻木熙子、足利将軍家臣の妻となる
やがて、明智光秀は、足利義秋(義昭)や細川藤孝との出会う、この出会いこそが、光秀の人生の大きなターニングポイントとなる。
それは、義秋と藤孝が、朝倉義景を頼り、越前国一乗谷に滞在していた時の出会いであったとされる。
(朝倉氏の本拠・越前国一乗谷)
だが、先に書いた通り、光秀が越前にいたとする確実な史料は無い。このために、義秋と藤孝が越前に滞在していたと言う史実から、妻木煕子と光秀の二人が、美濃国を出て越前国に生活拠点を置いていたとされたのかも知れない。
いずれにしても、光秀は、その才能を見込まれ、遂に義秋の家臣に取り立てられたのである。ただし、これについても、「義秋の家臣になった」のでは無く「藤孝の家臣になった」とする見方も有力である。
かくて夫の光秀は、地方大名の家臣の部下と言う立場から一躍、将軍候補の家臣となったのである。
妻木熙子、城主の妻となる
永禄10(1567)年頃になると、それまでの鬱憤を晴らすかのように突如として、夫である明智光秀の命運は開き輝くものとなる。足利義昭(義秋を改め)は、織田信長の支援を受けて、上洛を果たし将軍となった。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
すると、光秀は、それを足掛かりとして信長に出仕することとなるのである。
織田家中における光秀の働きは目覚しく、譜代の重臣を差し置いて、信長の家臣としては、大抜擢の近江国滋賀郡5万石を与えられ、坂本城の城主となる。
坂本は京に非常に近いことに加えて、水陸の交通の要衝であっただけで無く、城としても「天守(天主)」を構えたもので、後に湖東に築城される安土城の先駆的な城でもあった。
(近江国滋賀郡坂本)
坂本城は、元亀3(1572)年に凡そ完成し、この時から、熙子は城主の妻として、軍団規模へと成長しつつあった光秀の家臣団を裏方から支えると言う大変な激務をこなすこととなる。
このような「イエトジ」としての熙子を助けたのは、不遇の時代をよく知る一族衆たちであった。
妻木熙子、光秀の健康を祈願する
天正4(1576)年、丹波国に対する攻略に取り掛かっていた明智光秀は、石山本願寺攻略への援軍として動員される。
ただでさえ抵抗の激しい丹波戦線での戦いに疲労困憊しているところへ休むも間も無く、二方面での軍事作戦に当たることなった光秀であったが、その激務に、遂に陣中で倒れてしまい、6月23日に、医師・曲直瀬道三の治療を受けている。
妻木熙子は、その翌日の24日には、京の吉田神社の神官・吉田兼見のもとを訪れ、光秀の病気平癒を祈願している。煕子の祈願が功を奏したのか、ようやく、光秀の病気が平癒する。
ところが今度は、煕子が病に倒れ、10月14日、光秀から兼見に対して病気平癒の祈願依頼が為されている。同月24日には病気も快復したようである。しかし、すぐまた熙子の容体は悪化したらしく、11月7日に帰らぬ人となる。
煕子の最期の姿は、光秀の「疫」を全てひとりで引き受け、先に黄泉路へ旅立ったかのようであった。
また、煕子には妹がいたようで、その妹を光秀が後室にしたとする説もある。
妻木熙子と残された娘たち
明智光秀が合戦に明け暮れる中、天正6(1578)年には四女(三女とも)の玉と、細川藤孝の嫡男・細川忠興との婚礼が山城国勝龍寺城にて行われる。
しかし、同じ天正6年中には、荒木村重が信長に対して謀反を起こし、村重の嫡男・村次(村安とも)に嫁いでいた長女が離縁されると言う悲劇も起こる。この長女は、この後、明智秀満(光春)の室に迎えられる。
他にも、一門衆の明智光忠には、別の娘が嫁いだものの早逝したため、別の娘が改めて嫁いでいる。さらに、織田信長の甥・津田信澄(織田信勝の子)の室となった娘もいる。
これら「明智光秀の閨閥」は、他の織田家重臣たち(羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益)の中でも抜きん出ていると言える。ここでも妻木熙子は存在感を見せている。
それは、煕子が遺したものは、それぞれの「イエ」であったと言えるのかも知れない。
妻木熙子とは
妻木煕子は「良妻賢母あるある美談」で粉飾された存在である。
【江戸時代に好まれた「良妻賢母あるある美談」の例】
家柄・血統が良い。
美しい娘として育つ。
疱瘡で顔が醜くなる悲劇に見舞われるが男から猛烈にプロポーズされる。
夫の貧乏を救うため自分の大切な物を売って資金を工面し自由に使わせる。
夫に指図するような決して男勝りの気性や出しゃばりであってはならない。
夫の親は、もちろんのこと親類縁者一族には徹底的に自己犠牲で奉仕する。
多産で男女の配分がほぼ均等になるように気を使いながら子供を産む。
非常にバカバカしい「良妻賢母あるある美談」である。それは言い換えれば、煕子の実像は、日本史の中から見出すことが難しいと言うことに尽きる。
それでも、妻木煕子を敢えて語るならば、織田信長の家臣となって以降、熾烈を極めた丹波平定戦を戦いながら、各地の最前線への救援部隊としても動員され戦場を駆け巡る夫・明智光秀を時には叱咤激励し必死に支え、その一方で子供たちを育てながら汗を流し泥に塗れ裏方を守り通したのが熙子の実像であろうと想像する。
その証左として、丹波攻略に加えて本願寺攻めの援軍を命じられた光秀が倒れた際、わざわさ煕子自らが病気平癒の祈願に訪れていることが挙げられる。通常の妻なら名代の代参で済ませるところであるが、自分の足で出向いているのである。
その煕子の姿から窺えるのは、決して綺麗な小袖を着飾り男性に従順な夢見る乙女のような女性では無く、なりふり構わず逞しく「生きる」ことに必死だった女性だったと言うことである。だからこそ、光秀は織田家中で出世頭と成り得たと言える。
派手な合戦譚が好まれる日本の風潮にあって表立って描かれることは少ないが、武将の妻たちもまた荒れ狂う時代と懸命に戦っていたのである。
煕子と光秀の「血」は、細川ガラシャの話でも有名なように女系を通して、織田氏・豊臣氏・徳川氏と続く天下に徹底して卑屈なまでに臣従することで現在にまで生き続けている。
その一方で、余談ではあるが、津田信澄が『本能寺の変』直後に織田信孝に討たれた際、母と二人の男子(煕子の娘と孫に当たる)は落ち延びた。男子の一人は長じて、織田昌澄と名乗り豊臣氏の家臣となり『大坂の陣』で徳川軍と戦い、戦後には、敵だった徳川氏の旗本に取り立てられている。
織田氏・豊臣氏・徳川氏と続く天下の下で、織田氏や徳川氏を相手に戦いながらも妻木煕子と明智光秀の「血」は見事に生き残ったのである。
この織田昌澄のように、明日をあきらめずに自らの運命は自らの手で切り拓く逞しさに溢れた姿こそが、妻木煕子の生き方に近いのかも知れない。
妻木熙子の系図
《妻木熙子系図》 妻木範熙━熙子 ┃ ┣━━━━━━┳十五郎 ┃ ┣十二郎 ┃ ┣乙寿丸 ┃ ┣女子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━┳┓ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┣女子 ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━┓┃┃ ┃ ┃ ┃┃┃ ┃ ┣女子 ┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━┓┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┣玉(ガラシャ) ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━┳忠隆 ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┣興秋 ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗忠利 ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┗━━━━┓ ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┗女子 ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ 明智光秀 ┃ ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃ 織田信勝━━━━━津田信澄 ┃ ┃┃┃┃ ┃ ┃┃┃┃ ┏━━━━┛ ┃┃┃┃ ┃ ┃┃┃┃ 細川藤孝━━━━┳忠興 ┃┃┃┃ ┗興元 ┃┃┃┃ ┃┃┃┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┃┃┃ ┃ ┃┃┃ 明智光忠 ┃┃┃ ┃ ┃┃┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┃┃ ┃┃ 荒木村重━━━━━村次(村安) ┃┃ ┃ ┃┃ ┗━━━━━━━━━━━━━┛┃ ┃ 明智秀満 ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ (再婚)
妻木煕子所生の子女に関しては正確なところが不明である。
明智光忠に嫁いだ娘が死去したために改めて娘を嫁がせているが、この再度の婚姻の相手は「明智光忠」ではなく「津田信澄」とする説もある。
妻木熙子の年表
- 永禄10(1567)年明智光秀、織田信長に出仕。
- 天正4(1576)年6月明智光秀、陣中において病気で倒れる。
- 6月24日夫の病気平癒を祈願する。
- 11月7日死去。