露月院【悲劇!豊臣秀次の娘】

露月院について

【名前】 露月院
【読み】 ろげついん
【法名】 露月院殿誓槿大童女
【生年】 天正15(1587)年
【没年】 文禄4(1595)年
【時代】 安土桃山時代
【父】 豊臣秀次
【母】 不明
【兄弟姉妹】 豊臣仙千代丸・豊臣百丸・豊臣十丸・豊臣土丸
【家】 豊臣家
【氏】 豊臣氏

露月院の生涯

露月院の生い立ち

天正15(1587)年に誕生。

この年、父である三好秀次は、従三位権中納言に進み、豊臣秀吉の一門衆として、その地位を着実に固めていた。その秀次の長女として、この世に生を受ける。

生母は不明であり、また露月院の実名も判らない。

露月院、関白の娘となる

天正17(1589)年、豊臣秀吉と淀殿との間に鶴松が誕生する。

しかし、その鶴松が、天正19(1591)年に夭逝したことで、三好秀次は、秀吉の養子に迎えられ、その後継者「豊臣秀次」となる。

12月になると、秀次は秀吉から「関白」職を譲られる。露月院は「関白の娘」となったのである。

こうなると、秀次のたったひとりの娘である露月院の存在は、極めて大きなものとなっていったと思われ、徳川氏や前田氏等の有力大名、さらには、公家、いや、天皇家(皇室)との縁組も考慮されていた可能性もある。

露月院の周囲も非常に華やいだものであったと思われる。

露月院の悲劇

ところが、文禄2(1593)年になって、淀殿が、拾(のちの豊臣秀頼)を出産する。

文禄4(1595)年、豊臣秀次には謀反の嫌疑がかけられる。所謂『豊臣秀次事件』である。この事件で、秀次は切腹に追い込まれる。秀次を処分した豊臣秀吉は、それだけに留まらず秀次の子女に対する処刑も命じるのである。

露月院も父の秀次に連座し、8月2日に、三条河原にて処刑され、短い生涯を終える。

この時、露月院は数えの9歳であった。

露月院とは

露月院は、その法名しか伝わっていない。

しかし、三条河原での凄惨な処刑の様子は、 京の人々によって語り継がれている。

露月院

処刑は、まず豊臣秀次の子供たちを、その母たちの前で次々と殺害すると言う手法で行われ、最初に男子が次々と殺害された。

母の懐に抱かれて、その母が露月院の目を塞ぐように覆っていた手の指の隙間から、この処刑の一部始終を見た露月院は、「私も殺されてしまうのですか」と、母に静かに尋ねている。この露月院の問いかけに母は涙を堪え、「念仏を唱えれば、御父君に逢うことが叶いますよ」と、答えるのが精一杯であった。

露月院は母の言葉通りに念仏を十遍唱えたところで、母の懐から、処刑人によって、つまみ出されるや、そのまま胸を刀で二度突き刺された。そして、そのまま三条河原に投げ捨てられてしまうのである。

それでも露月院は、なおも生きようとするが如く、僅かに動き続けていたと伝えられているが、噴き出る血の海の中で、遂に絶命した。

次期天下人の姫君の座から、一瞬にして引き摺り下ろされ、恐怖の中で、罪悪人の娘として処刑されたのが露月院であった。露月院は、幼くして、この世の無常の荒波に、翻弄されたのである

露月院の系図

《関係略図》

 豊臣秀次┳仙千代丸
     ┣百丸
     ┣十丸
     ┣土丸
     ┗露月院

露月院の年表

年表
  • 天正15(1587)年
    誕生。
  • 文禄4(1595)年
    7月15日
    豊臣秀次、高野山にて切腹。
  • 8月2日
    三条河原にて処刑。