織田信広(津田信広)【捕虜交換の過去がトラウマ!実像は優れた武将!織田信長のお兄ちゃん!】

織田信広について

【名前】 織田信広
【読み】 おだのぶひろ
【通称】 三郎五郎
【別名】 津田信広
【法名】 大龍寺殿
【生年】 不明
【没年】 天正2(1574)年
【時代】 戦国~安土桃山時代
【受領名】 大隈守
【父】 織田信秀
【母】 不明
【兄弟姉妹】 織田信長・織田勘十郎・織田信包・織田信治・織田信時・織田信興・織田秀孝・織田秀成・織田長益・織田長利・織田市・織田犬 等
【配偶者】 不明
【子】 女子(丹羽長秀の室)
【氏】 織田氏・津田氏

織田信広の生涯

織田信広の生い立ち

織田信秀の第一男子として誕生する。

ただし、織田信広は、信秀の第一男子でありながら母については詳細が一切伝えられておらず、最初から「庶子」と言う扱いであったようである。

このこともあってか、確かな幼名等も伝わらず、どのような幼少期を、どこで過ごしたのかは全く不明と言わざるを得ない。

信広の年齢を推定するのに興味深い記述が『三河物語』に残されている。それは、

『舎弟之小田之三郎五郎殿』

(『三河物語 葉隠 日本思想大系26』齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

と言うものである。

『小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)』で、織田軍と戦闘した今川軍、及び、徳川軍から見て、信広は「信秀の舎弟」、つまり、弟と見られていたのである。

単なる書き間違えとされているが、信広と父の信秀は、兄弟とも見られる年齢差であった可能性もある。

そうすると、青年期に入る前の少年期の信秀が魅惑的な女性の色香を前にして抑えられない欲望のままに情熱的な肉体関係を結んだ結果、生まれたのが信広であったとも考えられる。

その魅惑的な女性は、弾正忠家で働く下女、あるいは、城下の町人の娘、百姓の娘のような女性であったのでは無かったろうか。

このことが信広が最初から「庶子」扱いされていた原因だったようにも考えられる。

なお、『信長公記』首巻に拠れば、織田信時(織田安房守)は、信広の同母弟であった可能性が高い。

織田信広、三河戦線の最前線へ

天文17(1548)年3月、三河国小豆坂で、織田軍と今川軍が衝突する。

この『小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)』で、織田信広は、織田軍の先鋒を務めている。

小豆坂合戦跡
(小豆坂合戦跡)

この時、兵を率いて山道を登って進軍していた信広は、同じく別方向から山道を上がって来た今川軍と鉢合わせしている。

『小田之三郎五郎殿ハ先手にて、小豆坂えアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互いに洞天シケリ』

(『日本思想大系26 三河物語 葉隠』 齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

両軍共に、予期しない場所での鉢合わせに腰を抜かすほどに驚きパニック状態になったようである。しかし、両軍は素早く乱れた軍勢を立て直して合戦を始めている。

だが、

『三郎五郎殿打負サせ給ひて、盗人来迄打レ給ふ』

(『日本思想大系26 三河物語 葉隠』 齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

と言う有様で、信広は完敗し命からがら敗走している。

ここで注目されるのは、信広が織田軍の「先鋒」を任されていると言う事実である。

つまり、この合戦が初陣では無く、むしろ、この合戦以前に既に何度も合戦を経験しているのである。

それらの実戦で見せた信広の手腕が、父の織田信秀に認められたことで、この重要な合戦において「先鋒」として起用されたと言うことである。

『小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)』での敗戦後、信広は、三河国安祥城に守将として配置される。

安祥城は、信秀にとって三河国侵略の橋頭保として確保し続けなければならない城である。その城を任されたのが信広だったのである。

同時に、合戦に敗北した直後で不穏な動きのある最前線に置かれたということから見ても、この時期の信広は、信秀の長子として、また武将としての器量も信用されていたことが伺える。

織田信広、三河戦線異常あり

『小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)』終了から一年近くに渡り、織田信広は、安祥城を守り抜いている。

恐らくは、叔父の織田信光の援軍を受けながら巧みな手腕を発揮していたものと思われる。

だが、天文18(1549)年3月、三河国松平氏当主広忠が、織田氏の計略により暗殺されると事態は風雲急を告げる。

これより先の天文16(1547)年に、広忠から今川氏へ人質と差し出され、今川氏の本拠・駿河へ移送中であった広忠の嫡子・竹千代(後の徳川家康)を織田氏は強奪し人質としていたのである。

これにより竹千代を旗頭にして、織田氏が三河国の松平氏を支配下に置くことが可能となったのである。

このため、今川義元は駿河国・遠江国・三河国から兵を7000人動員した上で、太原崇孚に兵を託して三河に送り込む。

安祥城
(安祥城跡周辺)

崇孚の安祥城攻めは、若輩の信広がとても応戦出来るものでは無かった。

『四方より責寄て、鐘・太鼓ヲ鳴、四方より矢・鉄炮ヲ放シ、天地ヲ響、鯨声ヲ上、持楯・垣立、井楼ヲアゲ、矢蔵ヲ上、竹束ヲ付て、昼夜、時之間モ油断無、荒手ヲ入帰入帰責入ば』

(『三河物語 葉隠 日本思想大系26』齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

昼夜を通して、崇孚の指揮下で繰り広げられる攻城戦の前に、城兵は防戦一方で休む間も無いほどであった。そして、

『早二三丸ヲ責取て、本丸計に成てアツカイヲ懸て、二の丸えヲロシテ』

(『日本思想大系26 三河物語 葉隠』 齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

崇孚は、二ノ丸・三ノ丸を手に入れると、信広に降伏勧告を申し入れる。圧倒的な崇孚の戦術の前にして継戦を断念した信広は降伏し、本丸から二ノ丸へ移される。

そして、捕縛されるやヒメカゴに押し込まれてしまうのである。この時の信広の姿は、

『堄ヲ結テ押コミテ、※の内之鳥、網代ノ内之氷魚』

(『三河物語 葉隠 日本思想大系26』齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

※竹冠に恪

とあるように、まるで「籠の中の鳥」か「ざるの上のじゃこ」のような惨めな有様であったと言う。

この上で、崇孚は、織田信秀に対して、信秀の重臣である平手政秀・林秀貞を通して、信広と松平元康との人質交換を申し入れている。なお、この時、崇孚は、この人質交換交渉を拒めば、

『是にて御腹ヲ切せ申ン』

(『三河物語 葉隠 日本思想大系26』齋木一馬 岡山泰四 相良亨 岩波書店)

と、信広に切腹を命じるとしている。

竹千代との捕虜交換を果たし三河国は今川氏の支配下に置かれることとなる。つまり結果として、織田氏は、信広と三河国を交換したも等しかったのである。

このことは信広の武将としての経歴に、何らかの大きな傷として残ったであろうことは推測できる。

織田信広と異母弟・織田信長

天文22(1552)年、織田信秀が亡くなると、織田弾正忠家の家督は弟の織田信長が継ぐことになる。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

信長の家督相続に対して、公然と叛旗を翻したのが、信長の同母弟の織田勘十郎(織田信勝)である。

この勘十郎に対して、林秀貞・林佐渡守・柴田勝家等の有力な織田弾正忠家譜代家臣が支持している。

勘十郎を支持する者は、織田弾正忠家譜代勢力の多くに浸透していたようで、その有利な兵力を背景にして『稲生原合戦』まで引き起こしている。

だが、勘十郎は敗北し、信長に葬り去られてしまうのである。

そんな状況を見て「信長は織田弾正忠家内部を未だにまとめ切れていない」と、織田信広は判断したようである。いや、それどころか「自分が織田弾正忠家の当主になること」を信じた。

信広は動き出す。

信長と対立関係にあった美濃国の斎藤義龍と密約を結んだのである。

『信長公記』に拠れば、密約の内容は、まず美濃国から斎藤軍が出兵する。斎藤軍が尾張国内に接近すれば、信長は迎撃するために居城の清須城から出て来る。

清州城(清須城)跡
(清須城跡)

信長が出陣中の清須城の留守居は、いつも佐脇藤右衛門が務めていた。

信広が、清須城に向かえば、この藤右衛門が出迎えに出て来るはずので、藤右衛門を殺害し、そのまま清須城を占拠する。

清須城占拠後に、信広が合図の狼煙を上げれば、斎藤軍は信長軍に攻め掛かるので、信広は後方から信長を攻撃する。こうして、信長を斎藤軍と信広軍とで挟み撃ちして、信長を殺害すると言うものであった。

しかし、この計画は、斎藤軍が進軍するに際し普段見せないような無警戒ぶりを不審に思う斥候からの報告を受けた信長が、自らの出陣後に背後で何か起こる可能性を悟り、藤右衛門に何があっても誰が来ても城から出ないように厳命し、清須の町も完全に封鎖したことで、藤右衛門の殺害は不可能になってしまったのである。

密約通り清須城下まで迫った信広であったが、何も出来ずに引き揚げている。

まさか斎藤軍が信じられないようなポカをしでかしたとは夢にも思わなかったことであろう。

この時期の信広については、

『居城の取り合いも引き続いた』

(『信長公記(上)』太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)

とされることから、信長との間で直接の軍事衝突もあったようである。

この信広の謀反は、弘治2(1556)年のこととも、弘治3(1557)年のこととも言われる。

その後、信広は、信長の軍門に下り降伏することで赦免されている(信広の降伏時期や、その内容については確かな史料が残されておらず不明な点が多い)。

ただ、勘十郎が殺害されたことに比べると、寛大な処分を受けたようである。

この処分の違いは、恐らく織田家(織田弾正忠家)中で生え抜きの歴戦の勇将である信広のことを、信長が正しく評価したからではないかと思える。

織田信広、信長の忠実な家臣として生きる

異母弟の織田信長に下ってからの織田信広は、以後、一門衆として信長に忠実に仕えている。

信長の嫡男である奇妙丸が元服する元亀3(1572)年までは、信長に連なる一門衆の中でも庶兄ではあるが筆頭格に近い扱いを受けていたようである。

ただし、永禄3(1560)年の『桶狭間合戦』や、永禄4(1561)年から永禄10(1567)年にかけての『美濃侵略戦争』、永禄11(1568)年の『上洛戦』において、信広が具体的にどのような働きをしたのか?一切が不明となっている。

信長が上洛を果たした後の永禄12(1569)年頃には、信広は、京の公家・山科言継との間に、

『織田三郎五郎被参、御盃参』

(『言継卿記 第四』山科言継 国書刊行会 国立国会図書館デジタルコレクション)

と言うような親交を結んでいたことが判明している。

元亀3年には、東美濃の岩村城城主・遠山景任が死去するや、信長の命令を受け、信広は河尻秀隆と共に岐阜から出陣し岩村城を接収している。この後、岩村城に信長の子・織田御坊丸を入れて守備に当たっていたが、間もなく信長不在で手薄となっていた岐阜城の守備に回ったようである。

さらに、信広が重要な役割を担ったのは、天正元(1573)年のことである。

この時期は、甲斐の武田晴信、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、畿内の一向一揆勢等の反・信長勢力が蠢いていた時期である。これらの動きに呼応するかのように、将軍・足利義昭が信長に叛旗を翻す。

信長は、朝山日乗・島田秀順(秀満)・村井貞勝の三人を義昭の下に送り和議を申し込むが強気の義昭に一蹴されてしまう。

そこで、信長は俄然軍事力に物を言わせ南近江を制圧し上洛するや、義昭の二条御所を完全包囲した上で周囲の上京の町々を焼き払った。たまらず、義昭は停戦和議を信長に申し入れる。

ここで、信長が自分の名代として義昭の下へ送ったのが奉行衆では無く、信広だったのである。

朝廷の和議斡旋もあり、互いに誓紙を交換した上で、信広は義昭に対して和議成立の挨拶を行ったと言う。

奉行衆では無く、一門の信広を名代に立てたのは、恐らく、今回を以って義昭の行いを赦すのが最終であるとの信長の意思表示だったのだろう。

ここから見えて来るのは、当時の織田氏一門の中でも年長の信広は、今回に限らず「信長の名代」として様々に活躍していた可能性である。とりわけ信長が出るまでも無い交渉事のような場合に重宝されたのでは無いだろうか。

因みに、この直後に義昭は和議を破っている。

織田信広、「織田」姓から「津田」姓へ

信長は、永禄11年に三男・信孝を神戸氏の養嗣子とし、永禄12年に次男・信雄を北畠氏の養嗣子としている。

どうやら、この頃に、織田家の再構築のようなものが行われ、「織田」姓は、信長の嫡流や養子戦略の駒として未だ使われていない信長の弟のみに限定されて行ったようである。

確かな時期は不明であるが、信広も「津田」姓を名乗るようになり、「織田信広」から「津田信広」となる。

織田信広、戦陣に散る

織田信長は、元亀2(1571)年から伊勢国の一向一揆の殲滅に取り掛かっていた。

天正2(1574)年7月になって、最終決着を付けるべく第三次となる『伊勢一向一揆殲滅戦』を開始する。

伊勢長島
(伊勢長島周辺)

織田信広(津田信広)は、信長の本軍に属して、丹羽長秀・前田利家・佐々成政・木下小一郎(木下秀吉の弟)等と共に前衛部隊を構成していた。一向一揆は、小木江村に防衛線を張っていたが、これを駆逐し進軍している。

同月15日、陸上と海上から全面的に長島を包囲し封鎖する。

信広は、篠橋砦の攻略を任される。当時の伊勢長島は、願証寺を中心に、本城としての長島城があった。これらを支えるためにいくつもの砦が築かれていたが、篠橋砦は、大島砦・大鳥居砦・中江砦・屋長島砦と並び、とりわけ強固な砦であった。

三ヶ月に渡る封鎖中、信長は伊勢長島から逃げようとした一向一揆勢1000人を全員残らず皆殺しに処している。

信広は、8月12日になって、強固に抵抗していた篠橋砦を陥落させている。この時、信広は、砦から撤退しようとした一向一揆勢を捕縛する。そして、捕縛した一向一揆勢を前に驚きの行動に出る。

それは、織田方への内通を申し出た一向一揆勢の命を全て助けた上で、彼らが敵として長島城内へ籠城することを認め見逃しているのである。

信広も、強い信仰で結ばれた一向一揆勢が仲間を売るようなことはしないと判っていたはずである。にも拘わらず、その命を助けているのである。信広が、一向一揆に対して信長とは真逆とも言える全く違った対応を見せていることが注目される。

信広は、その後、信長の本陣に合流し包囲網に加わる。

9月になって、餓死者が相次ぐ等、もはや生き地獄の様相を呈した長島城は信長に降伏し退去を開始する。信長は、そこに鉄砲の一斉射撃を行い、一向一揆勢を一人残らず虐殺するように命じる。

ここに一向一揆勢は、死に物狂いの抵抗を見せ、織田軍に反撃する。

激流のような一向一揆勢を前に織田軍は圧倒され、とりわけ一向一揆勢の反撃を真正面に食らった信長麾下の本陣に配されていた部隊は大混乱し多くの者が命を落とした。その中に、信広の姿もあった。

信長の一門衆の中で歴戦を戦い抜いて来た信広にとっては、勝利していたにも関わらず余りにもあっけない死であった。

9月29日のことである。

織田信広(津田信広)の最期については「一騎打ち」の果ての最期とも言われる。しかし、現実的に見て、とても一騎打ちが出来るような戦場では無かったと思われる。

織田信広とは

織田信広(津田信広)は、優れた武将であった。

父の織田信秀と共に戦場を駆け巡り、織田弾正忠家の繁栄に貢献した人物である。

しかし、『小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)』での敗北から安祥城で今川軍・太原崇孚の戦術の前に捕虜となり、松平竹千代(徳川家康)と交換されると言う恥辱も味わっている。

織田信長の家督相続に反発し、美濃国の斎藤義龍と密約を結んで叛乱を企て家督を奪おうとしたが果たせずに終わっている。

これは、過去に「今川氏の捕虜」となった者を家督として仰ぐことを拒絶する織田弾正忠家配下の意向も、信広が信長に降ったことに大きく影響したように思われる。

当時の信長は、弟の織田勘十郎を謀反の罪で成敗したところでもあり、続けて、信広を成敗する状況になかったのか?それとも、信広の武将としての才能を認めていたのか?その理由は、はっきりしないが、信広を赦している。

弟である信長に仕えると決めてからの信広は、父の信秀に従った時のようにひたすら与えられた任務に当たっている。しかも、信長の上洛後は、庶兄とは言え信長の血縁者であることを生かして、一癖も二癖もある京の公家たちとも親交を結び、ソフト面における信長の勢力拡大に一役買っている。

また、自らの大事なアイデンティティである「織田」姓もいち早く捨てて「津田」姓と改めることで、信長に対する絶対的な忠義心を示し家中の模範となっている点も見逃せない。

信長の一門衆として、これから重きを成そうと言う刹那、勝利を収めていた『伊勢長島一向一揆殲滅戦』において、命を落とす。

恐らく、混乱する戦場であっても、戦場での経験が豊富である信広であれば退避することは可能であったのではないかと思われるが、かつて、捕虜になった過去があるため「逃げる」ことを良しとはしなかったのであろう。

信広は、「天文18年の汚名を雪ぐために生きていた」とも言えるのではないだろうか。

それは織田信広と言う真に優れた武将が背負った「業」であったのかも知れない。

織田信広の系図

《織田信広系図》

              丹羽長秀
               │
某女             │
 │             │
 ┝━━┳信広(津田信広)━女子
 │  ┗信時
 │
織田信秀┳信長
    ┣勘十郎信勝
    ┣信包
    ┣信治
    ┣信興
    ┣秀孝
    ┣秀成
    ┣長益
    ┗長利

織田信広の年表

年表
  • 天文17(1548)年
     
    三河国安祥城に入る。
  • 天文18(1549)年
    11月8日
    今川軍、安祥城を攻撃。捕虜となる。
  •  
    11月10日
    捕虜交換により生還。
  • 天文22(1552)年
    3月3日
    父・信秀、死去(天文18、20年説あり)。
  • 弘治2(1556)年
     
    清洲城占拠計画(弘治3年説あり)。
  • 元亀3(1572)年
     
    美濃国岩村城接収。
  • 天正元(1573)年
    4月6日
    信長の名代として足利義昭と和議。
  • 天正2(1574)年
    7月13日
    『伊勢長島一向一揆殲滅戦』。
  •  
    9月29日
    戦死。