長野女王について
【名前】 | 長野女王 |
---|---|
【読み】 | ながののじょおう |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 平安時代 |
【官職】 | 女孺 |
【父】 | 不明 |
【母】 | 不明 |
長野女王の生涯
長野女王の生い立ち
長野女王は、皇胤と推測されるが、詳細な系譜や経歴等は不明である。
しかも、内教坊勤めの女孺と言う華やかな役所での雑務に従事していた。言わば、「光と陰」の陰の部分のような極めて低い地位にあった。
長野女王と船延福女
長野女王の部屋に、長野女王の知り合いであった船延福女が急に同居することになった。
延福女が長野女王のもとに同居した理由は不明であるが、延福女は、生活に用いる身の回りの品を部屋に持ち込む。
延福女もそれほど裕福では無かったようで、持ち込んだ品は、僅かばかりの衣服程度であった。
ところが、この延福女の衣服を目にした瞬間から長野女王の心の内に黒い欲望が湧き上がる。「あんな衣服でも市(いち)に持って行けば少しばかりの儲けになるだろう」・・・そんな思いに憑り付かれて行く。
こうして、徐々に長野女王は、恐ろしいことを計画するようになる。
長野女王の凶行
長野女王は、同僚の出雲家刀自女を誘うことにする。
そこで、長野女王は家刀自女に対して、船延福女の衣服を奪うために立てた計画を打ち明ける。この計画に、家刀自女がどういう反応をしたのかは不明である。
ある夜、延福女が寝入ったのを確認すると、長野女王は、用意してあった紐を取り出して延福女の頚に巻きつけ、力任せに思い切り絞め上げて殺害した。
さらに、このままでは、延福女の同室である自分に容疑が掛かるとして、長野女王は、死体の身元を不明にさせるために、延福女の顔の皮を剥ぎ取った上で、夜陰に紛れて延福女の遺体を宮の外へ運び出し、そのまま無残にも打ち捨てたのである。
長野女王、流罪となる
完全犯罪になるかと思われたが、船延福女が行方不明になったことと身元不明の亡骸が発見されたこととで、延福女と同室であった長野女王は、早期に捕縛されたようである。
弘仁8(817)年、長野女王は、出雲家刀自女と共に殺人罪に問われることとなる。結果、伊豆国へ流罪に処された。
流刑地に送られて以降の長野女王の消息は不明である。
また、発見された船延福女の亡骸が、その後、どのように扱われたのかも不明である。
長野女王とは
長野女王は、謎の多い女性である。
そもそも「皇胤」でありながら、「女孺」であった。そこに至るまでの長野女王の人生を正史から窺うことは出来ないが、少なくとも、長野女王の中には鬱屈した思いが募ったことは間違い無いと想像される。
平安時代、多くの華やかな人々が集った平安宮は、魑魅魍魎が跋扈する怨霊譚の舞台となったことで知られる。
けれども、一番恐ろしいものは、笑顔で取り繕った人間の心の奥底に潜む抑えようのない欲望と激しい情念なのかも知れない。
長野女王の犯罪は、時代を超越し、人の心に問い掛ける。
長野女王の系図
不明。
長野女王の年表
- 弘仁8(817)年5月27日伊豆国へ流罪に処される。